5 その伸ばした手は誰のため?
私の住む町には有名な場所がある。
いや有名と言うのは少々語弊があるかもしれない。より正確には、この街の人々に好まれる場所があると言った方が正しい。
その場所とはどこか。
場所の名前は『近江山』と言う正式名称があるけれど、町に住む人々からは『かっぱ山』と呼ばれる山だ。
その所以は山の山頂付近が平地にして、遠目から見ればそこだけが色が違い河童の頭のように見えるかららしい。近江山と言うちゃんとした名前があるのに、人々からはかっぱ山と呼ばれるのは何とも不遇だ。
ただ皆そうは思っていても、あの山頂を見れば納得してしまう。
そして、私はその場所にいる。
そうさっちゃん先輩に連れられてきたのは、ここ『かっぱ山』である。
「さっちゃん先輩が着たかった場所ってここですか?」
「ああ」
さっちゃん先輩は迷いなく肯定する。
バスに乗ったあたりからどこに行くか想像はついていたものの、まさかここに来るとは思っていなかった。
と言うのも、もう時刻はというと午後七時半。次のバスが来るのは三十分後ではあるけれど、乗ったバス停に戻って家に帰った時には結構遅い時間になる。いよいよ本当にさっちゃん先輩の所為にしなければならないようだ。
そんな薄情なことを思われているとも知らず、さっちゃん先輩は公園の中に足を踏み入れていく。公園と言う割には遊具も景観を良くするようなものがない公園の中央まで来ると、さっちゃん先輩は立ち止まり空を見上げる。
私もさっちゃん先輩に習って空を見上げた。
「わあ」
私は思わず感嘆の声を漏らす。
私とさっちゃん先輩が見上げた先に広がる夜空は、偽りもなくとても綺麗だった。数多の星が空と言うキャンバスの上で、凛々しく光り輝いている。
私の双眸に映るそれらの星々は、壮大で尊大で偉大だった。私の心の中を何かが満たしていく、そんな気さえするほどの景観だと思う。
体は秋の寒さに震えながらも、私の心は感動で震えていた。
「綺麗だろ?」
同じように夜空に見入っていたさっちゃん先輩は、誇らしげに言う。私は口の端に笑みを浮かべ、
「はい」
と素直に頷いた。
私はすっかり虜になっていた。
この夜空にそれくらいの魅力がある。
「これでも俺の所為にするか?」
「え、何をです?」
私の反問にさっちゃん先輩は、眉を上下させる。どことなく眼の端が鋭く吊り上り、怒っているように見えた。
「だから、帰りが遅くなったら俺の所為にするとかなんとかって言ってただろ」
「あー……そのことですか。んーそうですね、うーんー」
間延びする声で唸りながら、私は考える。
見上げた先の星々の輝きを見ていると正直どうでもよくなってきた。紛れもない本音だ。けれど今ここで思っていることを言うのは、少々――と言うか完全に負けているような気がする。
私はいつもそうだ。
本音は口から出ず、いつも出るのはたわいのないこと。
大したことはない。
虚偽の言葉。
だから、私は悠姫先輩に譲ったのだろう。
「この綺麗な空を見せてもらったからと言って、そういうのがなしになると思ってるんですか。やっぱり、さっちゃん先輩の所為にします」
「まったく、敵わないな」
私の言葉にさっちゃん先輩は少しばかり引き攣った笑みを浮かばせた。冗談だと分かっていながらも、本当にやりかねないと思っているのだろう。
まったく心外だ。
私はそこまで薄情で、人を売るような人間じゃない。私はこっそりと唇を尖らせ、さっちゃん先輩を睨みつける。さっちゃん先輩は心の内を見透かされたことに、またもや顔を引き攣らせた。
「ま……まあ、なんだ。ここに来たのはさ、なんていうか手を伸ばせば届きそうな気がするんだ」
「急な話題転換ですね。誤魔化しているのが見え見えですよ」
「……ああ、やっぱり」
コクンと首肯する。
さっちゃん先輩は誤魔化し笑いをしつつ、こめかみを掻きながら話の軸を元に戻した。
「あははは……とにもかくにも、こうやってあの二つの星に向って手を伸ばすとさ、届きそうな気がするんだ」
澄んだ瞳で見上げ、右手を空に向ってさっちゃん先輩は伸ばした。いつもとは違う輝きを澄んだ瞳に宿し、本物だと錯覚するような絵を描く手を天に向って伸ばしている。
「二つの……星?」
「彦星と織姫の星さ。まあ、実際にどの星かは分からんがな」
「さっちゃん先輩分かっていないんですか」
愕然としてしまい肩を落とす。
なんだかものすごくカッコイイ台詞を言っているかと思いきや、気を抜くよなことを言われてしまいものすごく損をした気分だ。
でも――と思う。
きっと、澄んだ瞳も伸ばした手も私のためじゃないことだけははっきりと分かる。
その揺らぎのない想いは悠姫先輩のためだ。
私のためじゃなく。
悠姫先輩のため。
――……ああ。
私はゆっくりと腕を動かす。
そして、さっちゃん先輩と同じように手を伸ばした。住んでいるかどうかは分からな瞳も、天で輝く星に向って向ける。
どんなに天高く輝く星々に向って手を伸ばそうと、私の手は届かない。
はっきりとした思いを胸に宿しながらも、あの星には届かない。
さっちゃん先輩と悠姫先輩の背中にちっとも追いつけない。
――結局私は……。
心の中でポツリ呟く。そして無意識の内に喉を振るわせ呟いている。
「情けないなあ」
「……ん? 何が情けないんだ?」
「私がです」
私は情けない想いに苛まれながら、問いに答えた。
さっちゃん先輩はキョトンとしたように首を傾げると、バーカ、と呟く。
「お前が情けなかったら、俺はなんだってんだ? もう情けない以前の問題だぞ」
「さっちゃん先輩は情けなくないですよ。いっつも、優しくて、あったかくて良い人ですよ」
自分とは違う。
希望も何もない切れてしまった糸をまだ掴もうと足掻いている醜い子だ。それに比べてさっちゃん先輩は歩みはゆっくりだとしても、毎日一歩一歩を確実に進んでいる。
「それは、こっちもだ」
が、さっちゃん先輩はその思いを知らないはずなのに、深く踏み込んできた。
いとも簡単に深く潜り込んだ。
「お前や鮫島先輩に色々面倒なこと押し付けられたり、言われたりしてるけど、俺はそれでもお前らに助けられてる。悠姫とのことが何よりの証拠だ」
だからさ、と言葉を続ける。
「優しくすることも温かいこともお前らがいるからなんだ。助けられてばかりで、俺はいつも情けないと思う。少しずつ恩を返すことが精一杯だ」
「……さっちゃん先輩」
私はいつの間にかさっちゃん先輩の話に聞き入っていた。
的外れだとしても、さっちゃん先輩の言葉は確かに私の中にあるものを溶かしてくれている。
私はそっと伸ばしていない方の手を胸に当て、
「ありがとうございます、さっちゃん先輩」
ニコリと微笑んで礼を言う。
素直な私の顔を見たさっちゃん先輩は、恥ずかしそうに少しだけ頬を赤らめた。
◇◇◇
「さて帰るか」
「はい」
しばらくの間空の風景に見入っていた私たちは帰ることにした。
私はなんとなく形態の時計で時間を確認する。すると、もう午後八時を過ぎており、自宅に帰った頃にはもう午後九時を過ぎているだろう。
ああ、きっと帰ったらお母さんに怒られる。
偏頭痛を起こしながら、そんなことを考える私にさっちゃん先輩は、
「悪いな。結局、こんな時間になって」
「いえ、着いてくると言ったのは私ですから。まあ、言い訳としてさっちゃん先輩のことは使わせてもらいますけど」
「おい」
そのままたわいのない冗談を言いながら、私とさっちゃん先輩は公園の出口へと向かう。ふと、その時だった。
私の視界の端に人の後姿が映った。
公園に設置されているベンチに腰掛け、空を見上げている。
一体誰だろうか。
「あのう、さっちゃん先輩。向こうに誰かいるみたいですよ」
「ん? ああ、アイツは――」
さっちゃん先輩は立ち止まり私に語りかける。
それが月島拓実との初めての邂逅だった。