3 平等とじゃんけん
何十枚もあるプリントを丸め、それで私は誰かに頭を軽く叩かれた。振り向くとそこに立っていたのはさっちゃん先輩だった。
「あ、さっちゃん先輩こんちは!」
「さっちゃん先輩こんにちは!」
もうすっかり長年の刷り込みで定着してしまった呼び名に、さっちゃん先輩は口をへの師に曲げ僅かに眉を動かす。訂正させるかさせないかで迷っているのだろう。
「……まあ、いいか」
何を言っても無駄だと悟ったさっちゃん先輩は、深い皺を作り出している眉間をもみほぐし姿勢を正す。私はその様子を可哀相な先輩だな、と思いながら見た。
「おう! 翼も七海も元気みたいだな。ところで、誰が馬鹿で間抜けだって?」
二人に言葉を返したさっちゃん先輩は、私を睨みながら尋ねてくる。私は顔を引き攣らせ、視線もどことなく逸らしながら答えた。
「えーっと……なんのことですか? 私はそんなことは言ってませんよ。鍔魚波が言ったんじゃないんですか」
自分でも思う。嘘を吐くにしても出来の悪い嘘だと。
「えー言ってないよ、桃花ちゃん!」
「そーだぞ‼ 言ったのは、桃花だろ!」
ねつ造した事実に対して二人は反論を述べてくる。その反応に、先程以上に私は顔を引き攣らせた。
二人の反論を聞いていたさっちゃん先輩は、珍しく(普段私や綾乃先輩にいじられているため)性格の悪い笑みを浮かべる。普段はこの構図が真逆なため、なんだか負けているみたいで唇を尖らせた。
「二人はこう言ってるんだが。で、誰が馬鹿で間抜けだって」
「うっ……」
サスペンスドラマでよく見る犯人が追いつめられた時のような顔を私は浮かべる。どう足掻いても勝算がもうない。
しかしそれ以上の追及はなかった。
さっちゃん先輩はぶつぶつ文句を呟くと、大きく息を吐いて私の頭を軽く叩いた。優しい笑みを浮かべて。
「悪かった。そんな泣きそうな顔をするな。泣かれたらさすがに敵わない」
「さっちゃん……先輩」
私はさっちゃん先輩の行動に、頬を赤く染めた。
理由はとても簡単だ。
それは私がさっちゃん先輩に対して恋い焦がれる大きな理由。言うまでもないかもしれないけれど、大きな理由と言うのはさっちゃん先輩の優しさである。
私はさっちゃん先輩のそういう所が好きだ。
けれどその優しさは、別に私にだけ向けられるものじゃない。平等の優しさ。但しある人を除いて。
「そういえば、さっちゃん先輩!? どうしてここに居るのですか?」
「ん、ああ、そうだった。七海に言われなかったらもう教室に戻るとこだった」
七海の問いかけで本来の目的を思い出したさっちゃん先輩は、腰に手を当てて答える。
「えーっと話があるのは、桃花と七海だ。鮫島先輩が部活のことで何か大事な話があるらしい。別に言い回らせなくても、こんなことは部活の初めに言えばいい気がするんだけどな」
私も七海もその意見に頷いた。たださっちゃん先輩は、まあ、と表情を強張らせながら口を開く。
「それなりの覚悟をしとくようにって言ってたからな。しっかりと腹を決めとかないといけないんだろう」
「腹を決めるって……言葉の使い方が少し違い様な気がします」
「七海。細かいことは気にすんな。とりあえず大仰な言い方かもしれないけど、それくらいの覚悟が必要だってことだ」
さっちゃん先輩の口ぶりから、私はなんとなく嫌な予感が過っているのだろうことが窺えた。何か面倒なこと背負い込まされると。
ただ、そこに私と七海がどのようにかかわってくるのかは、全く読めない。多分、さっちゃん先輩に対してだけのことだろう。
それでもさっちゃん先輩が言うように、それなりの心の準備はしておいた方が良い。でないと、予想だにもしないことに巻きこまれる。綾乃先輩と言うのはそういう人だ。
「まあ、そういうことだからよろしくな。それじゃあ、俺は次のクラスに行ってくるから」
そう言い残して、身を翻しさっちゃん先輩は廊下に出て行こうとする。私は慌てたように立ち上がり、身をヒルがしたさっちゃん先輩の背中に言葉を掛ける。
「わ、私も手伝います!二人ならすぐに終わらせますからね!」
「いいぞ。お前まだ昼ご飯食べてるだろ。それに二、三年生はもう回ったし、一年もあと少しだけだからさ」
「あ、はい……わかりました」
私は椅子に沈み込むように座り込んだ。
さっちゃん先輩は優しい声で、またな、と言い残して今度こそ廊下に出て行った。
「という訳で、我が美術部の新しい部長を松原くんに任命する」
部活の開始直後、美術室の教卓の前に立つ綾乃先輩がそんなことを言った。昼休みあれだけ覚悟を決めて聞け、と言っていた当の本人であるさっちゃん先輩は茫然とした顔で綾乃先輩を見ていた。
そしてさっちゃん先輩の思考が回復しない(知っていながらとも言える)まま、綾乃先輩は話の続きを口にする。
ただし彼女の言葉は私には全く関係なく、主にさっちゃん先輩一人に追い打ちを掛ける物だった。
「では挙手を取ろうか。松原くんの部長就任に異議のあるものはいるかい?」
もちろん綾乃先輩の提案を拒否(反論)する人はおらず、満場一致でさっちゃん先輩の部長就任が決まった。
そこでようやくさっちゃん先輩の思考が追いついた。ただ時すでに遅し。
「ちょっ……なんで、俺なんですか!? もっと適任者がいるでしょ二年生には!?」
もう何を言っても無駄であることはさっちゃん先輩も分かっているけれど、何も言わずにこの流れに乗ってしまうことは許容しがたいのだろう。
無論私もさっちゃん先輩と同じ立場に立たされたら、今と同じような行動をしていただろう。多分それは同じ一年生である七海やほかの子達、そして二年生の先輩も同じだ。
「ふむ、適任者が他にいると? だが残念なことに適任者は君しかいない。この部の仕事八割方をやってくれているのは君だからね」
「それは鮫島先輩が押し付けてきたからですよ!」
もう勝ち目がないことは分かり切っていながらも反論することさっちゃん先輩は、いくら憧れの先輩と言えど哀れだった。
さっちゃん先輩の必死の反論に綾乃先輩は、一切微動だにしない。むしろさっちゃん先輩の反応を楽しんでいるように見える。
ああ、そうだ。綾乃先輩は初めて会った時もこうだった。
初めて会った時、さっちゃん先輩と悠姫先輩が喧嘩をしているのを彼女は止めなかった。むしろその様子を楽しんでいる。
「まあ、何にしても満場一致だから決定だ。安心したまえ、次のコンクールが終わるまではわたしが部長だ」
「でも仕事は俺がほとんどやるんですよね?」
「もちろんだとも」
彼女は楽しそうに笑う。
その実に晴れ晴れしい笑みを見たさっちゃん先輩は肩をがっくりと落とし、数秒間身体をわなわなと震わせる。
私は隣に座る七海の顔を見た。七海は苦笑い浮かべ頷く。私も同じように苦笑いを浮かべる。周りを見渡すと先輩を含め全員が、苦い笑みを浮かばせていた。
何故ならさっちゃん先輩は無理矢理に、現状を受け止めようとしているのだ。そこがさっちゃん先輩の良い所ではあるけれど、どうにもかわいそうに見えた。
「わ……わかりました。引き受けますよ」
「君なら承諾してくれると思っていたよ」
「追い詰めておいてよく言えますね」
せめての皮肉として返した言葉も、綾乃先輩はどこ吹く風とばかりに受け流す。
「ところで、副部長は誰にするんですか?」
すっかり部長の思考に移行したさっちゃん先輩は、教卓の前に立つ綾乃先輩に尋ねた。綾乃先輩は珍しく熟考する。その様子からそこまで考えていなかったことが窺える。
「ふむ、そうだな。じゃあ、二年生全員でじゃんけんしてくれないか。勝ち残った人が副部長と言うことで」
「えらい適当ですね。あと、勝った人なんですね」
これから一年間協力しある仲間が、適当な決め方をされることにさっちゃん先輩は不服そうだけど、今までの流れから察したのかもう何も言わない。
「不服かい? 仕方がないな。じゃあ、一年生も混ぜてやろう。なに、うちの美術部は人数が多いから、二年生と一年生とで役割文他をすればいいさ」
いやいや、そういう意味じゃないですよ‼ と部員全員が声には出さずにツッコミを入れる。声にしないのはもう前述の通りである。
「さて、今日の部活をそろそろ始めたいから、じゃんけんをみんなでやってくれないかい?」
彼女はとても楽しそうに笑いながら言った。
そう。この人はこう言った状況を楽しむ人だ。
「楽しそうですね」
「ああ、もちろんだとも」
さっちゃん先輩の言葉を綾乃先輩は否定しなかった。
それはつまり肯定の意味である。