第一章
橋が揺れていた。
十年前にデザインされたばかりの、二車線両側通行の立派な吊り橋であった。当時知られている限り最新の構造力学の理論により設計されたと言われるその橋は、なるほど見た目も非常に論理的かつ美しかった。
その橋が、ゆっくりと、悶えるように揺れていた。少しづつ、時間をかけて揺れ幅が大きくなっていく。まるで激痛にのたまう蛇のように、体を左右に激しく揺らしながら揺れている。いつの間にかその揺れは巨大な振れ幅を以って、橋の構造を脅かし始めた。あたりに風切り音が響いた。橋が、雄叫びをあげはじめたのだ。
橋を渡ろうとした通行人が唖然としている。橋の近くの道路では既に渋滞が出来上がっているようであった。他にも大掛かりな撮影機材を持った人々が集まってきていた。彼らはこの異常な現象をフィルムに収めようとやっきになっていた。
いよいよ、橋が崩れ始めた。底板が剥がれ落ち、ケーブルを通していた支柱がいくつか倒れてゆく。一瞬のうちに吊り橋の三分の一程が目下の川に落ちていった。大きな水しぶきがあがり、秋のやわらかな陽射しを一面に反射する。少し遅れてやってきたかのような騒音を発端として、一斉に悲鳴と歓声が上がり始めた。
あたりは、騒然としていた……。
九月も過ぎ去ろうとしているある日、私はいつもより朝早く目覚めていた。窓のブラインドを上げ、陽光を部屋いっぱいに取り入れる。優しい光に包まれながら、うつろうつろし始める。時刻は七時過ぎだった。そろそろ学生達の新学期が始まる頃である。
今年の初めに学会に論文が認められ、私は博士号を授与された。当初はそのまま就職するつもりだったのだが、研究室の教授から残らないかと提案されたのが始まりだった。私自身、その申し出は願ってもないものだったために二つ返事で了承した。
内容としては学部生のレポートのチェックや期末テストの採点の手伝いのような教授のサポートが主であったが、決まった勤務時間がないため、好きな時に自分の研究内容に没頭できる点は非常にありがたい。時々その自由さが怠惰な性格と合わさってしまうことが、数少ない問題点だろうか。
私は素早く身支度をした後、部屋を出ていった。大学まで二十分ほど歩いた。一面の木は紅葉に染まっていて、そのてっぺんはふんわりとした陽光に晒されぼやけていた。慌ただしい町中に隠れるようにして位置する私の大学は、在学生でなければその場所が大学であることすら分からないであろう。私が慣れたように校内に入って行くと、ふと見慣れた顔が現れた。
「今日は早いのね」その見慣れた顔が口を開いた。
「なぜかは知らないけど、妙にすっきりとした目覚めだったよ」
「へぇ、珍しい。今日の午後は雪でも降るのかな」
私は苦笑した。「おいおい、私だって年に一度ぐらいは早く目覚めるさ」
「それはそれは、私の認識違いだったようね」
「わかってくれればいいさ。それで、今日はどうしたんだ?」
「氷川教授からあなたに研究室を案内するように言われたから、待ちぶせしていたの」
氷川教授。幼少の頃から勉学に励み、大学では振動工学を専門にしていた。学部生の頃から既に論文を書き始め、その鋭い考察と明瞭な解説は各方面で高い評価を得ていた。教授になった後も航空機産業や自動車産業からタービンブレードの振動解析などを頻繁に依頼されるなど信頼も厚く、その名を振動工学の分野に轟かせていた。また人格者としても知られており、生徒からの支持も熱い。事実、毎年行われる投票でもっとも親しみやすい教授として不動の一位を誇っていた。
「それにしても氷川教授に引き抜かれるなんて、あなたってすごいんじゃない?」
「そんなことはないさ。私はあまり頭の回転が早い方ではないし、特に勉学に秀でているわけでもないし。博士論文の内容もあまり華やかなものではない」
「……自分で言ってて悲しくならない?」
「私は自分について客観的に話しているだけだ。事実、同期の中には私より優秀な人間もたくさん居た」
「そうかなぁ。私は自己評価が低すぎると思うよ。もっと自分に自信を持つべきじゃないかしら」
「褒めたところで何も出ないぞ」
彼女は苦笑しながら言った。「本当にあなたは昔からこういうことには、無頓着ね……」
校内を並んで歩く彼女は小川唯といい、私の大学時代の先輩であった。男性の平均的な身長よりは高い私と同じほどの背の丈で、それでいて風が吹いたら吹き飛ばされそうな程、華奢な体だった。入念な手入れがされているのか、肩まで伸ばした黒髪は健やかに真っ直ぐ伸びていて、絹地のようにサラサラと風になびいている。彼女とはロボットサークルで知り合い、過去問の手配や教授の評価など色々なことを教えてもらっていた。
私達はしばらくして研究室についた。小川の開けた部屋には、修士時代の私の部屋から荷物が既に移されていた。
「そこがあなたの部屋よ。私は普段その隣の部屋と五階にある実験室を往復しているの。氷川教授の場所は説明する必要もないわね」
「ああ、ありがとう」
「実は私、ずっと気になってたんだけど、なぜあなたのデスクってモニターが三つもあるのかしら」
「一つは研究用、一つは資料用、そして最後のひとつはお楽しみ用、かな」
「何よ、お楽しみ用って」
「気にしないでくれ。そんなことより、実験室を案内してもらえないか。色々と知っておきたいことがあるから」
「全く、人の質問は上手いことかわすんだから」
彼女は不満そうにしつつも、私を実験室に連れて行った。
一通り設備の案内が終わると、私は彼女に礼を言って自分の部屋に戻ろうとした。
「あら、もういきなり研究を始めるの?」
「いやいや、ちょっと気になることがあって。早速調べたかったんだ」
「調べたいことって?」
「ほら、この間中央海道大橋の落下事件があっただろ。あれについて調べてみたくてさ」
「ああ、先週の初めにあった奴ね。確か現存する最先端の理論で設計されたはずなのに、不可解な落ち方をしたのよね」
「今時、大きな建築物がすぐに壊れるなんて非常に稀なケースだからね。色々と調べてみたいんだ」
「なるほどね。わかったわ、とりあえず何か他に質問があれば隣の部屋に来てくれればいいわ。あと、ちゃんと氷川教授にも顔を出しておきなさい」
「了解」私は短く返事をすると、足早に部屋に戻っていった。
自分の部屋に戻ると、まず荷物を開けた。分厚い振動工学や構造力学の本、流体力学の本などに紛れてゲームの攻略本などが混ざっている。この年になってもゲームはやめられなかったな、と思った。とはいえ、私が工学の道に進んだ理由の一端を担っているのもゲームなため、深くは考えないことにしている。それから論文集などを漁りつつ、乱雑に散らかり始めた部屋の中で、目当ての物を見つけた。
長スパンの吊り橋設計、というタイトルの本であった。世界中の、中央スパンが一定の長さより長い吊り橋の設計を解説している本である。うちの研究室じゃこういうのは扱わないのかな、と考えつつもいくつか設計思想を学んだ後、ネット上で中央海道大橋の詳細について調べた。そして、linuxシステムを立ち上げ振動解析を始めようとした時、小川が部屋をノックしたので後回しにすることにした。
「はいはい、どうした?」
「もう12時過ぎだし、外に昼食でも食べに行かない?」
「学食は?」
「お互い博士号を取得したんだから、もう学生という立場ではないじゃない?」彼女はやけに控えめに呟いた。
「まぁ、それもそうか。んじゃとりあえず表の通りのうどん屋にでも行くか」
「あなたの考える昼食としてはかなりグッドアイディアね」
「一応今後のために聞いておくが、私が何を提案すると思っていたんだ」
「ファーストフード、牛丼チェーン、居酒屋。こんなところね」
私は言葉もなく部屋を出ていくと、彼女があわててついてきた。
通りは人々でごった返していた。昼食を食べに街に溢れるビジネスマンや、ベンチで談笑している老夫婦。論議しながら歩いて行く大学生達や、迷子のようにきょろきょろあたりを見渡す観光客。いつもと変わらない風景。白とベージュの落ち着いた雰囲気の建物と、紅く染まった木々に目が覚めるほど綺麗な水色の空。この街に来てもう八年になるんだな、としみじみ時の流れをかみしめていると彼女に肩を叩かれた。
「今すごく感傷的な顔になってたわ。あなたでも、そんな顔できるのね?」
「それはさすがに失礼だろう……。私だって人並みに感傷に浸ることもあれば、想起することもある」
「へぇ……」
「絶対真面目に聞いてないだろう」
「そ、そんなことないわよ」
「まぁいい。中に入ろうか」
目的のうどん屋の近くにある建物は改装中なのか、入り口の前に重機が止まっていて、重低音を響かせていた。私はタイミングが悪かったかなと思いつつ、中に入っていった。ここはお気に入りのうどん屋で、気のいい老夫婦二人とその息子で切り盛りしている小さな店である。メニューは少ないが、素朴で美味しく、また満足できる量なため大学生を中心に毎日繁盛していた。
もっとも人が多くなる昼頃であったため、案の定カウンター席以外は空いていなかった。空いているカウンター席を見つけ、いつも通り注文した後、ふと彼女の方を見ると未だに決めかねているようだった。
「そこまで悩むようなメニューではないだろう」
「そ、そうなんだけど天ぷらうどんにしようかきつねうどんにしようか、今ものすごく難しい選択を迫られているの」
「シミュレーションでも走らせるか?」
「もう、わかったわよ。あの、すみません。きつねうどん一つお願いします。」
不機嫌になりつつもなんとかオーダーし終わると、彼女は早速例の橋について聞いてきた。
「で、何か収穫はあった?」
「いや、特に何もしていないんだ。資料を読んでいただけ」
「それにしても、あの新井建設があのような設計ミスをするなんて信じられないわよね」
「まだ、設計ミスと決まったわけではないんじゃないか」
「まさか亮太はあれが人為的なものだと考えているの?」
「いや、可能性の話をしているだけさ。俺も設計ミスだと思っている」
「十中八九、あの揺れは共振によるものでしょうね。でも、一体何に反応したのかしら」
「当時は風が強かったようだが、橋の崩壊までの間は風速はほとんど一定だったそうだ」
「なら、周期的な力なんて期待できそうにもないわね」
「うちの大学に解析が回ってくることはないんだろうな。解析に参加したいんだが」
「そうね、建築物の構造で解析依頼を頼まれたことってあんまりないみたい。氷川教授が言ってたわ」
しばらく会話していると、カウンターにうどんが運ばれてきた。かまぼこやきつね、ねぎなどをカラフルに盛りつけられた大盛りのうどんから、香ばしい匂いが漂っていた。やはり、この店のうどんは美味しい。プロの料理店で出てくるものとはベクトルが違っていた。懐かしい、家庭的な味の延長線に存在する。彼女もその味付けに満足したようで、黙々と食べ続けていた。
突如、大きな振動が店内を駆け巡った。丼がガタンと音を立てて床に落ち、活気に満ちていた店内は一転してざわめき始めた。そのすぐ後に爆轟が続く。あちこちから甲高い悲鳴があがり、騒然となった店内は我先へと出口に向かう人の流れで混乱していた。
「今のはまさか……爆発音?」
「物体を伝わる弾性波は音の10倍ほどの速さで届く。爆発音の前の揺れがそうだとしたら、何かが近くで爆発したのは間違い無いだろう」
私が落ち着き払った様子で説明すると、彼女は驚きを隠せないようであった。
「あなた、やけに冷静なのね。爆弾が爆発したのかも知れないのに」
「昔、ちょっとした経験があってな。そんなことより、今は下手に店を出るよりここにとどまっていた方が安全かもしれない」
「二次災害という奴かしら。分かったわ、情報が集まるまでそうしていましょうか」
店の外では大きな人の流れができていた。入り口近くのガラスウィンドウから外を覗いてみると、さきほど重機が止まっていた建物の三階部分が崩れ落ちていた。奇跡的にもコンクリートやガラスの破片などは撒き散らされなかったようで、少なくとも通行人は軽傷の人間が数人出た程度に見える。甲高いサイレンを鳴らしながら、救急車が向かってきた。少し遅れて警察車両が数台駆けつけ、早速周りの目撃者に聞き込みを始めていた。
「事件性のある爆発でなければ良いんだが……」私は憂鬱になりつつ言った。
しばらくして警察が立入禁止のテープを貼り終わった頃、私は勘定を済ませ彼女と共に大学に戻っていった。
「じゃ、私はちょっと用事があるからここで失礼するわね」彼女は門のあたりでそう言い残して走っていった。
「た、立ち直りが早いな……。俺もいくらこういった経験があるとはいえ、内心はかなり動揺しているのだけど」
私は感心しながら、キャンパス内の小さな庭に向かって歩き始めていた。
庭の中央にある小ぶりの噴水は、色彩豊かな花々に彩られ、陽光をあたりに拡散していた。涼しげな水音に耳を傾けつつ、私は考え事を始めようとした。その時、ふと花壇の裏に何かが落ちているのに気がついた。手にとって見ると、小指ほどの金属製のカプセルだった。損傷が激しく中の構造が晒されており、内部には棒状の金属の板がはめこまれ、また何らかのケーブルが繋がれていた痕跡もあった。
「なんだこれは……」
謎は、より深まる一方であった……。