魔王は百の悪行を残して死んだ。ぜんぶ、嘘だった。
◆ 序
暗黒暦四百七十一年。覆いの魔王ヴェイルは、百の悪行をもって大陸を蹂躙した。村々は焼かれ、大河は毒に染まり、三百の子らがさらわれた。されど灰の中より立ち上がりし勇者アッシュ、諸王国の剣をひとつに束ね、五年の戦役の果てについに魔王を討つ。かくて世界は救われた——。
ここまでが、私が世界に書いた嘘だ。
正確に言おう。嘘はひとつも書いていない。村は焼かれたし、河の水は色を変えたし、子供たちは消えた。私は魔王を殺したし、世界はたしかに救われた。一行残らず、事実だ。
事実だけを並べて嘘をつく方法を、私はあの人から学んだ。
これは、正史『魔王討魔録』の著者にして勇者と呼ばれた男が、ただ一部だけ書き残す禁書である。焚くのは読み終えてからにしてほしい。ただし警告する。最後の頁を閉じたとき、あなたはもう、あの魔王を正しく憎めない。
それでもよければ、めくってくれ。
◆ 一 目録
魔王城に、財宝はなかった。
戦利品の査定に入った文官たちが、三日で音を上げた。金貨の一枚も出ない。武具庫は半分空で、玉座の間より書斎のほうが広い。「魔王というのは、存外つましいものですな」と誰かが笑い、私は笑えなかった。殺した魔王の城が、書物の匂いしかしないことが、なぜか癇に障った。
私がこの城に戻ったのは、討伐から半年後だ。諸王国連合は私に正史の編纂を命じた。勇者が書く魔王討魔録。これ以上の教科書はない、という理屈だった。
世間は祭りの只中だった。どの町の広場でも魔王の藁人形が焼かれ、子供らが灰を蹴散らして笑っていた。討伐から半年経っても、人々は憎むことをやめない。憎しみは祭りになるほど、楽しいのだ。私は誰よりそれを知っている。十二年、その祭りを胸の中で毎晩やってきた。
断らなかったのは、憎むための材料が欲しかったからだ。
白状すれば、私は空っぽになっていた。十二年間、魔王への憎しみだけを燃料にして生きてきた男から魔王を取り上げると、あとには燃えカスしか残らない。夜ごと胸の名札に触れては、まだ憎めるはずだと自分を探った。焼けた故郷でただひとり生き残った、六つの幼子——それが私だ。六つなら覚えていてもいいはずのあの夜の記憶が、なぜかほとんどない。あるのは炎と、煙と、私を抱えて走る黒い外套のかたさだけ。神殿の門前に置かれていたとき、上着の襟に結ばれていた古い名札。私という人間の、最初の一枚。
だから魔王の罪を、一から百まで書き尽くしてやるつもりだった。
決戦のことは、いまでも夢に見る。嗤いながら血を吐いた魔王。剣を受けて、最後になにか言いかけた唇。私はあれを、命乞いと書いた。
書斎の一番奥、鍵もかかっていない棚に、その帳面はあった。
黒い革の背表紙。表題は手書きで、こうある。
悪行目録
めくると、几帳面な字が並んでいた。右上がりの、妙に律儀な癖字。悪行第一号から第百号まで、日付と場所と、死者の数。
「悪行第七十三号。リーゼ村を焼く。住民二百十四名、死亡」
自分の悪事に通し番号を振る魔王。ご丁寧に、最後の一条は決戦当日の朝の日付だ。狂気の几帳面さだと、そのときは思った。これを正史の巻末に載せれば、百年は憎まれ続けるだろうとも。
あの人の狙いどおりに。
「アッシュ様。お茶が入りました」
旅の頃からの治癒師、ミアが盆を置いた。編纂の随行を、彼女は自分から志願した。
そういえば、と頭の隅で思ったのを覚えている。この城に入って三日、ミアは一度も道に迷っていない。厨房の場所も、水場も、初めから知っているように歩く。
そのときは、聡い娘だと思っただけだった。
◆ 二 検証
正史に書く以上、裏付けが要る。私は各国に照会をかけ、悪行を一条ずつ検証していった。
最初に崩れたのは、第七十三号だった。
リーゼ村、住民二百十四名死亡。ところが王国の戸籍簿をどう洗っても、その年のリーゼ村に死亡届が一枚も出ていない。焼き討ちの混乱で届が飛んだか——そう思いかけて、逆に気づいた。届がないのではない。死んだはずの二百十四人の名が、そもそもどの戸籍とも一致しないのだ。
代わりに妙なものが見つかった。五年後の魔王領の入植記録。よく似た構成の家族が、名を変えて、ちょうど二百十四人。
さらに、焼き討ちの三日前、魔王は村に布告を打っている。「三日のうちに、この村を焼く」。
脅迫状に、なぜ律儀に期限を切る。
私は魔王の布告を残らず集めさせた。全部だ。全部に期限があった。三日のうちに焼く。七日のうちに水を断つ。憎悪を煽るためとしか思っていなかったあの芝居がかった宣告は、読み替えれば一言に潰れる。
——三日やる。逃げろ。
ただ、一枚だけ例外があった。決戦の前夜に出された、最後の布告。「我が死してのち、我が領と我が民に触れる者は、末代までの呪いを負う」。これにだけ、期限がない。当時は死にゆく者の負け惜しみと嗤われた。私も、嗤った側だった。避難の猶予だとするなら、この一枚だけは、読み替えられないままだった。
私は入植記録の谷へ、身分を伏せて出向いた。正史編纂官の下役、ということにして。
畑は狭いが、よく耕されていた。訪ねた老農夫は、リーゼ村の生き残りだと私が確信している男だ。納屋の古い鋤の柄に、削りかけて途中でやめた名が残っていた。リーゼ村の戸籍にだけあって、死亡者名簿にはない名だった。
「リーゼ村の話を聞きたい」と私は言った。
老人は長いこと黙って、茶を二杯注いだ。一杯を私に寄越し、一杯を、誰も座っていない席に置いた。
「……死んだ村の話は、しねえことにしてる」
それだけだった。帰り際、老人は戸口で私の顔をじっと見た。気づいていたのだと思う。谷の入り口の子供らが走って報せに来た時から、たぶん谷じゅうが気づいていた。魔王を殺した男が来た、と。
それでも、誰も石を投げなかった。誰も真実を叫ばなかった。老人は一言だけ言った。
「勇者様。あんた、いい顔になんねえな」
いい顔に、なれるはずがなかった。私はまだそのとき、自分がなにを調べているのか、半分も分かっていなかったのに。体のほうが先に分かっていた。
当時のリーゼ村が灰霞の感染村だったと知ったのは、その翌週だ。
灰霞。いまではこの病の死者まで、魔王の呪いの犠牲として数えられている。病の名を正史から削ったのは私だが、削るまでもなかったのかもしれない。人は病を数えるより、敵を数えるほうがずっと得意だ。当時の王国のやり方は簡単だった。感染村には軍を出す。「浄化」と呼んだ。住人ごと焼く、という意味だ。
魔王に焼かれた村は、軍に焼かれずに済んだ村だ。
空の村を焼く炎は、検疫であり、そして防壁だった。魔王に焼かれた村は「穢れ地」と呼ばれて封鎖され、軍は検分の手間を省いて戦果だけを報告した。誰も調べない廃墟ほど、安全な覆いはない。
第四十一号。大河ソールに毒を流す。岸辺が銀色に濁った、あの有名な悪行だ。
下流の三都市を調べた。毒の犠牲者を探したのだ。見つかったのは逆だった。その冬、三都市だけ、灰霞の死者がいない。当時は「勇者の加護」と呼ばれた奇跡だ。私の名で呼ばれた奇跡だった。
王立医院の古い処方録に、答えはあった。特効薬アルヴェン草——高価すぎて戦費に消えた幻の薬。その煮汁は、銀色に濁る。
目録の余白に、細かい数字の書き込みがある。流量、希釈、到達日数。毒殺の計画書にしては妙だとずっと思っていた計算は、投薬量だった。
銀の岸辺には、いまも行ける。私は行った。夕暮れの川面が、まだうっすらと銀を刷いたように光る。土手で網を繕っていた老いた漁師が、問わず語りに言った。
「呪いの川だなんだと騒いだがね。翌年にゃ魚が倍に増えた。」
私はそれを、毒と呼んで五年間憎んだ。だが考えてもみてほしい。魔王の薬を配れば、受け取った者は内通者として縛り首になる。井戸に入れれば、その村ごと焼かれる。呪いの形をしていなければ、届かない薬だった。
第二十二号。十年前の、子供三百人の誘拐。
これを検証する頃には、私の手は帳面をめくるたびに冷たくなっていた。予感というのは、当たってほしくないときほど当たる。
攫われた三百人は、全員が灰霞の孤児だった。親を焼かれ、あるいは親に置き去られ、王国のどこにも引き取り手のなかった子供たち。
目録の余白に、名前が並んでいた。
「ミラ、六つ。木の実で発疹が出る」
「トト、九つ。夜泣きあり。灯りは消さぬこと」
「セナ、五つ。左耳が遠い。話すときは右から」
私は頁を持ったまま、しばらく動けなかった。
悪行の記録に、なぜ夜泣きの注記が要る。誘拐の帳簿に、なぜ木の実の発疹を書き留める。これは犯行の記録ではない。これは——申し送りだ。子供を預かる者が、次に預かる者へ書く。
そして、その並びの中に、それはあった。
「ミア、七つ。乳に弱い」
旅の間、彼女が一度も乳を口にしないことを、私は知っていた。三年あまり、隣で見てきたのだから。
◆ 三 告白
ミアは、逃げも隠れもしなかった。
名を指で示した私に、静かに頭を下げた。
「はい。私は、二十二番目の悪行の中におりました」
それから彼女は、洗いざらい話した。魔王領で育った孤児たちのこと。焼かれた村の民が名を変えて耕していた畑のこと。城の厨房の、変わり者の主のこと。どうりで、道に迷わないはずだった。彼女はこの城で育ったのだ。
「知っていたのか。全部」
「魔王領の者は、みんな」
「なぜ誰も言わなかった。私は——私たちは、恩人を殺しに行ったんだぞ」
ミアは首を振った。責めるでも、赦すでもない目だった。
「憎まれることが、あの人の守り方でした。だから誰も、訂正しなかったんです。訂正したら、あの人の十二年が無駄になる」
魔王領の子供は、ひとつだけ躾けられるのだという。
——あの人に、ありがとうを言ってはいけない。
感謝は、外に漏れるからだ。たった一言の「ありがとう」が旅人の耳に入れば、覆いに穴が開く。だから谷の子供らは、恩人の悪口を言う稽古をして育つ。魔王のけち。魔王の意地悪。魔王の人でなし。口々にそう言いながら、厨房に集まって、あの人の作った粥を啜る。
「私たちの『人でなし』は」とミアは言った。「たぶん世界中のどの『ありがとう』より、あの人に届いていました」
魔王ヴェイルの正体を、私はその夜に聞いた。
テオドラ・ヴェイル。十二年前まで王立医院にいた、史上最年少の主席疫学医。失脚したとき、まだ十六の娘だった。灰霞の流行が始まったとき、国境をまたぐ隔離と、アルヴェン草の増産を各国に進言し続け——「経済を止めるな」の一言で退けられ、職を追われた。重臣たちは病の計算より、小娘の生意気を数えるほうに熱心だった。諸国は病より互いの戦争に忙しかった。感染村は焼かれ、孤児は溢れ、薬は戦費に化けた。
人は、敵がいなければ束ねられない。
ならば、敵になろう。
十六の娘はそう決めて、北の山向こうへ入った。そこにいたのは、行き場のない病者や被差別の民だけではない。牙の民、翼の民——幾百年、人間と殺し合ってきた古い種族たちだ。彼らの集落にも灰霞は入り込んでいて、人間の医者は、誰ひとり来なかった。最初に彼らの子を治した人間が、あの人でした、とミアは言った。人間の娘を王に戴くなどという冗談のような話が成立したのは、それが理由だ。魔王軍の牙と翼は、本物だった。本物だったから、誰も覆いを疑わなかった。
娘は彼らを率い、「魔王」を名乗った。覆いの魔王。ヴェイルとは、北の山岳に残る古語で「覆い」の意味だという。彼女は、あの古い言葉の生きる北の生まれだった。最初から名乗っていたのだ。これは覆いだと。誰も、めくらなかっただけで。
魔王の侵攻に慌てた諸王国は戦争をやめ、同盟を結び、灰霞の防疫線をそのまま対魔王防衛線として敷き直した。憎悪は病より速く国境を越え、人類は史上初めて、ひとつになった。
彼女の設計図どおりに。
「ひとつだけ、分からない」
私は言った。本当は、分かりはじめていたのだと思う。分かりたくなかっただけで。
「なぜ最後に、私に殺された。あそこまで作った人が、なぜ死ぬ必要があった。姿を消せば済んだはずだ」
「消えた魔王は、戻ってくるかもしれない魔王です」とミアは言った。「同盟は、魔王の死体の上にしか建ちません。それに——」
彼女はそこで初めて、声を詰まらせた。
「あの人は、もう長くなかった。灰霞でした」
「薬があっただろう。川に流すほど」
「灰霞は、罹ってすぐなら薬で治るんです。あの人が罹ったのは最初の数年——アルヴェン草がまだ、ひと握りしかなかった頃でした。あの人は、投薬の順番を計算で決めました。子供から。回復の見込みが高い順、猶予の短い順。自分は大人で体力もあるから列のいちばん後ろ——それでも畑の増産が間に合う、という計算でした。誤解しないでください。あの人は、死にたがりだったわけじゃありません。自分も治るつもりでいました。」
「……間に合わなかったのか」
「翌年、王国軍が畑を焼きました。魔王領の軍需物資だ、と言って。増産は遅れて、そのときには灰霞はもう根を張っていた。根を張った灰霞に、薬は進行を遅らせることしかできません。
計算は、正しかったのだ。狂わせたのは、いつだって人間のほうだった。
決戦の玉座が、脳裏に戻ってきた。
五年の戦役の最後の日。玉座の間の扉を蹴り開けた私が見たのは、伝説の怪物ではなかった。古びた外套をまとって玉座に浅く腰掛けた、小柄な——普通の人間ほどの姿。角もない。翼もない。当時の私は、気にも留めなかった。魔王がどんな姿をしていようが、殺すことしか頭になかったからだ。
あの外套の下が年若い女だったのだと、私はいま、ミアの話でようやく知った。
魔王は座ったまま言った。
「遅かったな、勇者。待ちくたびれて、死ぬところだった」
悪党の減らず口だと思った。いまなら分かる。あれは一字一句、ただの事実だ。
立ち上がった魔王は、芝居がかった仕草で両腕を広げた。
「私を殺しに来たか。よろしい。それはお前が十二年かけて磨いた、ただひとつの生きる理由だ。——存分に使え」
嘲りだと思った。憎悪で目が灼けるようだった。私は斬りかかり、魔王は防いだ——と、正史には書いた。魔性の剣技と書いた。
いま思えば、あの人は一度も、まともに剣を合わせていない。玉座の間に仕掛けられた鏡と煙が私の目を欺き、床の絡繰りが剣筋を逸らし、幻影がべつの場所から声を投げた。考えてみれば当たり前だ。疫学医に、剣など振れるはずがない。五年の戦役で語り継がれた魔王の魔技の数々は、恐怖と、噂と、道具立てでできていた。
あれは決闘ではなく、舞台だった。伝説に足る最終決戦を、彼女はひとりで演出していた。私が、英雄の顔で帰れるように。
そして仕掛けが尽きる頃合いに、彼女は煙の中から歩み出て、手にしていた剣を捨てた。
「この一撃で終わらせろ。二撃目は要らん」
傲慢な戯言と書いた。本当は、二撃目まで立っている体力が、もうなかった。
嗤いながら血を吐いた、と私は正史に書いた。魔性の哄笑と書いた。
あれは咳だ。末期の灰霞は、ああやって血を上げる。
病で死ぬわけにはいかなかったのだ。病死した魔王は物語を終わらせない。勇者に討たれた魔王だけが、伝説を完成させ、同盟を永遠にする。彼女は自分の死の日付まで、悪行目録の最後の日付に合わせて設計した。
崩れ落ちる寸前、魔王は最後にこう言った。これだけは正史にも書いた。あまりに魔王らしい台詞だったから。
「お前の憎しみは、私の最高傑作だ」
討伐からの半年、私はこの一言を辱めとして反芻してきた。いまは、ちがう意味で反芻している。あの人は本当に、そう思っていたのだ。焼けた村から運び出した幼子が、憎しみを燃やして、生きて、鍛えて、玉座まで辿り着いた。作品と呼ばずに、なんと呼ぶ。
「……剣を受けたとき、あの人の唇が動いた。命乞いかと思って、聞かなかった」
ミアは泣きながら、少し笑った。
「たぶん、違います」
「なんと言ったと思う」
「——よく来た、って。あの人、子供たちが厨房に来るたび、そう言う人でしたから」
◆ 四 第一条
目録の検証は、最古の第一号と、最終頁の第百号を残して終わった。九十八の悪行が、九十八の救済に裏返った。
私は先に、第一号へ向かった。向かうしか、なかった。
「悪行第一号。辺境の村エルデを焼く。住民六十一名、死亡。生存者、一名」
エルデ。私の故郷の名だ。
生存者一名。それが私だ。
手が震えて、しばらく資料に触れられなかった。ここまでの九十八条で、検証がなにを意味するか、私はもう知っていた。この一条を裏返せば、私の十二年が裏返る。憎しみを土台に建てた人間から土台を抜けば、なにが残る。
それでも私は調べた。彼女を憎むために始めた検証だ。最後まで追い切るのが、せめてもの筋だと思った。
私はエルデに行った。十二年ぶりに。
村は、もうどこにもなかった。家々の土台の輪郭が草に沈み、井戸の縁だけが歯のように白く残っている。風。草の匂い。遠くで鳥。私の生まれた場所は、音でできていた。
跡地の外れに、小さな石積みがあった。六十一、数えるまでもなく分かった。積んだ者の名はどこにもない。ただ、いちばん大きな石の下に、あの人の律儀さで、番号のない墓標がひとつずつ向きを揃えてあった。悪行目録に載らない仕事を、あの人はここでしていた。
軍令部の古文書庫で、一枚の命令書が出た。
「エルデ村、浄化執行の件」。灰霞発生地につき、住民ごと焼却すべし。
執行予定日は——魔王襲撃の、翌日。
軍は来るつもりだった。住人ごと焼くつもりだった。魔王は、軍より一日だけ早く来たのだ。
エルデは灰霞の、最初の発生村だった。
目録第一条の余白に、あの癖字で、こうある。
「六十一名のうち、五十八名は救出。三名は手遅れ。うち一名、女性、最期まで意識明瞭。子を託される」
母は、焼かれて死んだのではなかった。
病だった。魔王が来たとき、もう助からなかった。そして最期に、かたわらで熱に浮かされていた幼子を、村を焼きに来た「魔王」に託した。
熱に浮かされていた——あの夜の記憶が炎と外套しかない理由も、これで知れた。高熱は、灰霞の初期症状だ。六つの私は、発症していた。それでも私はいま、こうして生きている。ミアの言葉が、遅れて刺さった。あの人の薬は、いつだって、子供が先だった。
エルデの跡地で見た、六十一の石積みを思い出す。本当に誰かが眠っているのは、あのうち三つだけだ。残りの五十八は、いまも名を変えて生きている者たちの、空の墓。覆いは、墓地にまで律儀に及んでいた。それでも彼女は五十八の空の墓を、本物と同じ丁寧さで積んだのだ。
私は胸元から名札を外した。
上着の襟に結ばれていた、私の最初の一枚。共通語で、アッシュは灰を意味する。焼け跡から拾われた子だから、灰の名を付けられたのだと、ずっと思っていた。私の憎しみの、最初の一語。名付け親は知らない。
名札を、目録の隣に置いた。
右上がりの、妙に律儀な癖字。
同じ手だ。
書いたのは、同じ手だ。
そして、最初の記憶が抜き身のまま戻ってきた。炎。煙。私を抱えて走る、黒い外套のかたさ。十二年、攫われる悪夢だと思って繰り返し見てきたあの記憶は——運び出される記憶だった。あの夜、私は彼女の腕の中にいた。
余白の記録は、まだ続いていた。
「子の名は、母親の遺言による。『この子に、生きる理由を』と。名はアッシュ。彼女の故郷の古い言葉で、夜明けの意である。共通語の『灰』と同じ響きを持つ。それに気づいたとき、私はこの偶然を使うと決めた。灰の名と誤読されることを、私は望む。憎しみは生きる理由になる。空腹よりも、絶望よりも、長持ちする。この子は私を憎んで、生き延びる」
灰。
夜明け。
ひとつの響きに、ふたつの言葉。共通語で読めば、アッシュは燃え尽きたあとの灰。母の故郷の古語で読めば、同じ響きが、夜の明ける時を指す。
世界は十二年、私の名を灰と読んだ。私自身も、灰と名乗ってきた。復讐を誓うたび、この名札に触れてきた。
けれど母は最初から、夜明けと呼んでいたのだ。
母もまた、北の生まれだったという。だからあの人は——同じ古い言葉に生まれたあの人だけは——死にゆく女の最後の一語を、世界でただひとり、正しく聞き取れた。
憎しみの証だと思って握りしめてきたものは、最初から、二人がかりの祈りだった。ひとつの名前の中で、母の願いとあの人の設計が、十二年、背中合わせに立っていた。
◆ 五 第百条
目録の最終頁。日付は、決戦の朝。
第一号までの九十九条を検証し終えた私は、もう知っていた。九十九の「悪行」の中に、彼女の手にかかって死んだ者は、ただのひとりもいない。ならば第百号も、どうせ裏返るのだろうと。
最終頁には、こうあった。
「悪行第百号。
ひとりの子供から、母の死の真実を奪った。
憎しみを与えた。その手に剣を握らせた。
彼の十二年を、私の物語の結末のために使った。
第一号から第九十九号までは、装置である。
第百号だけは、罪である。
これだけは、真実である」
私はその夜、魔王城の書斎で、生まれて初めて声を上げて泣いた。
九十九の悪名を、眉ひとつ動かさず被った女が。世界中の憎悪を、勘定書のように綴じて、独りで抱えていた女が。
私にしたことだけを、罪と呼んだ。
母を看取ってくれたことも、名をくれたことも、生きる理由をくれたことも、最後に殺される役まで引き受けてくれたことも——全部ひっくるめて、あの人はたったひとつの罪と数えて、死んでいった。
謝罪もなく、弁明もなく、ただ一行。
これだけは、真実である。
あの几帳面な右上がりの字は、そこで終わっている。その先の頁は、全部白い。
泣き終えたのが何刻だったか、覚えていない。私は蝋燭を替え、帳面を最初の頁に戻して、今度は帳簿として読み直した。
百条の「死者」の数を、全部合計してみたのだ。
焼かれた村々の死者。毒の川の死者。攫われた子ら。目録に律儀に記された犠牲者の総数は、四千八百十六。
検証の結果と突き合わせる。名を変えて生きている者、薬の川の下流で冬を越した者、谷で育った孤児。数えられる限りを数えた。
四千八百十三。
三人、足りない。
どの三人かは、数え直すまでもなかった。エルデ村。「三名は手遅れ」。母を含む、あの三人だ。
あの人は十二年間、殺した人間の数を装って救った人間の数を記し続け、そのなかに、間に合わなかった三人だけを本物の死者として勘定していた。世界でいちばん憎まれた魔王の犯行記録は、世界でいちばん正確な、救命の台帳だった。帳尻の合わない三行だけが、彼女の悔いだった。
私はもう一度だけ泣いて、それから編纂官の顔に戻った。仕事が残っていた。彼女の仕事を、終わらせる仕事が。
◆ 六 これを読んだあなたへ
私が正史になにを書いたかは、あなたの知るとおりだ。
魔王ヴェイルは百の悪行をもって大陸を蹂躙し、勇者アッシュがこれを討った。かくて世界は救われた。
真実を書くことも考えた。何度も考えた。だが真実は同盟を割る。魔王が善人だったと知れた瞬間、諸王国は「では次の敵はどこか」と互いの顔を見るだろう。名を変えて生きる二百十四人と、三百人の子供たちは、「魔王の共犯」として狩られるだろう。
もっとも、谷が今日まで無傷なのは、私の温情ではない。本来なら戦勝国の軍が雪崩れ込み、残党狩りと称して谷を焼いていたはずだ。だが、誰も入れない。兵たちが、呪いを恐れて谷の入り口で足を止めるのだ。期限のない、あの最後の布告——「我が死してのち、我が領と我が民に触れる者は、末代までの呪いを負う」。呪いを信じない将軍も、呪いに怯える兵は動かせない。ほかの布告すべてに期限を切った女が、あの一枚にだけ期限を書かなかった。逃げろという警告ではなく、永遠に立ちつづける柵として書いたからだ。十二年かけて積み上げた悪名を、彼女はそっくりそのまま、遺された者たちの盾に変えていた。死んだあとの憎悪にまで、使い道を与えていた。
だから、なおのこと真実は書けない。呪いの種を明かせば、柵は消える。種の割れた呪いは、誰も守らない。
そして、時々考える。鍵のかかっていない棚。戸籍と照合できる数字。あの目録は、隠されていたのではない。歴史を書く権利を持つただひとりの人間に——読まれるために、書かれていた。
彼女の偽悪を完成させられるのは、彼女を殺した勇者の証言だけだ。
だから私は書いた。世界でいちばん憎まれた女の伝記を、世界でただひとり真実を知る男が書いた。事実だけを並べて、嘘をついた。
悪行目録に、百一号が要るなら、それは私だ。
今年も、どこかの広場で魔王の藁人形が焼かれるだろう。子供らが灰を蹴散らして笑うだろう。私はもう、あの祭りを止めようとは思わない。憎悪がひとつの人形に集まっているかぎり、隣人には向かわない。彼女ならそれを、防疫と呼ぶはずだ。
ミアはいま、魔王領だった谷で診療所をやっている。子供が来ると「よく来た」と言う癖は、たぶん自分では気づいていない。谷の子らは相変わらず、死んだ魔王の悪口を言う稽古をして育つ。あれのけち。あれの意地悪。あれの、人でなし。世界でいちばん優しい悪口は、いまも谷の中だけで通じる方言だ。
私はといえば、あの名札をまだ提げている。触れる癖も、直っていない。ただ、意味だけが変わった。復讐を確かめるための仕草は、いまは、二人に呼ばれるための仕草だ。
夜明け、と。
さて。
この禁書は、私の死後百年、開封されぬよう封じて残す。いまこれを読んでいるあなたが誰なのか、私には知りようがない。歴史家か、王か、あるいは書庫に迷い込んだだけの誰かか。
ひとつだけ、確かなことがある。
序文の伝説を読んだとき、あなたは彼女をそう読んだはずだ。村を焼き、川を毒し、子供を攫った魔王——討たれて当然の悪、と。
恥じることはない。世界中がそう読んだ。私も、十二年そう読んだ。彼女はそう読まれるように、一字一句を設計した。
そしていま、あなたは彼女を憎めなくなった。谷の者たちのように、救われたからではない。私のように、名を貰ったからでもない。ただ、知ってしまったから。なにも受け取らないまま彼女の側に立つ人間は、あなたが最初だ。
ようこそ、こちら側へ。真実というのは狭い場所だが、無人ではない。谷の子らがいて、ミアがいて、私がいる。今日からは、あなたもだ。夜明け前がいちばん暗いというのは、あの人の帳面に言わせれば、ただの観測事実らしい。
最後にもう一度だけ、正史の結びを引いておく。今度は、正しく読めるはずだ。
——かくて世界は救われた。
それは、彼女の書いた通りの結末だった。
どうか、良い夜明けを。
(了)
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