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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

足の黒い犬

作者: はざま

 わたしの家にはずっと一人の『犬』がいた。お父さんが彼のことをそう呼んでいて、わたしにもそう教えた。

「あれは犬と一緒だ。お前や私に何かあった時は、あれが守るから安心して頼っていい。私が拾っただけあって、あれはとても強いからな」

 彼は、気が付いた頃にはわたしの家にいた。まだ子供のわたしよりもずっと背が高かったけれど、そんなに大人にも見えなかった。体の線や骨の格好が遠くから見ても大きくて、でもその骨や筋肉の形がすぐ肌の下に見えるほど、ぎすぎすと痩せていた。突き出た頬骨の上で目だけがいつもぎょろぎょろ光っていて、日に焼けた顔の中で、大きな白目が変に浮き出て見えていた。

「だが、あれは私たちとは全く違う、別の生き物だ。自分の身が危険だと思った時や、何かとても大事な用がなければ、あまり近寄るんじゃないよ」

 よく分からなくてわたしは首を傾げた。すると、お父さんはしっかりと視線を合わせてまた強く「分かったな」と言ってきた。

 わたしのお父さんはいつも穏やかに物を話す人だった。けれど、どこか冷たく残酷なものを持っていることに、わたしは小さな頃からなんとなく気が付いていた。だけどお父さんはわたしにはちゃんと優しかったし、頭が良くて強く、大きかった。お母さんがいない分もお父さんが大好きだったわたしは、言われるとおりに大きく頷いて返事をした。するとお父さんは優しく笑って頭を撫でてくれて、わたしも嬉しくなって笑った。

 


 彼はいつも家にいたけれど、そのどこにいるかはいつも分からなかった。他の使用人たちに聞いても、誰も教えてくれなかった。みんなも知らなかったのかもしれない。彼は、お父さんを除いてこの家の人たち全員が嫌い、怖がっていたようだったから。

 だから彼に会うのは、一週間に数度廊下で擦れ違うくらいが普通だった。わたしは彼のことを知っていたけれど、それは顔を覚えているというだけで、話をするどころか近付いてみたこともほとんどなかった。それは、お父さんに注意されていたからだけれど、彼自身がなんとなく近寄りがたい雰囲気を持っていたのも本当だった。みんなが彼を苦手とするのも当然な、強烈な威圧感と違和感を彼は持っていた。

 だけど、ある日中。お父さんが仕事でいなくてお昼ご飯を一人で食べたわたしが、食堂の辺りを歩き回って一人遊びをしていた日だった。椅子の形を眺めるのに飽きて、壁の模様の中に花がいくつあるかを数えていたろき。

 ふと覗き込んだ広い厨房の奥に、彼がいるのを見つけた。銀色に光るステンレスの中で、彼は隅のテーブルに乱雑に腰掛け、同じく鈍い銀色の大きなボウルから、何かを食べていた。彼の左手にはスプーンが握られていた。けれど、ほとんどそれを使わずに、犬のように直接口をつけて食べていた。その大きな湿った音が、彼の口元から、遠いわたしの所まで聞こえてきていた。

 厨房には窓がなかった。わたしの立っている扉の所からだけ、日の光が差し込んでいた。一筋だけの細長いひまわり色の日光は、ボウルに齧り付いている彼の足元にまで伸びていた。明かりはそれだけなのに、電灯は点けられていなかった。でも辺りに漂う光の粒が、薄暗くてもあたたかかった。

 まるで必死な様子で食べ続ける彼の姿と、深く入り込んだ穏やかな日差しは、ひどく不似合いで、その分笑えるような近付きやすさがあった。そのせいだと思う。なんとなくわたしは彼のもとへ寄って行った。そっと背の高いテーブルの上に顎を乗せて、椅子に座る彼の顔を見上げた。

 手を伸ばせば届く距離まで近寄ったのは、これが初めてだった。それなのに、彼はわたしを見もせずに、大きなボウルを両手に持ったまま食べ続けていた。ちらりと見えた中身は、なにか水っぽく、白い中から所々魚や野菜の断片が見えていた。妙に汚らしくて、わたしはそんなものを食べたいとは思わなかった。

「……ねえ、ねえそれは何?」

 わたしは勇気を出して言ってみた。けれど、しばらく待っても彼からは何の返事も返ってこなかった。悲しいよりも、寂しくてつまらなかった。

 困ってしまって、わたしは視線を気まずくうろうろ動かした。すると、ふとテーブルの上に物が置いてあるのに気が付いた。水の入ったビンと、同じようなボウルがもう一つ放られていた。ボウルは汚く空にしてあって、どうも彼が今噛み付いているのは二皿目らしかった。

 なんとなく、わたしは腕を伸ばしてそのボウルに触ろうとした。途端、彼の手がわたしの手を叩き落した。甲高い音がして、でもわたしは痛いよりもびっくりしてしまった。叩かれた手を庇うこともせずに彼の顔を見上げた。

「俺の飯に、触るな」

 初めて聞いた彼の声は、高めだったが、がらがらと掠れていて聞き取り辛かった。でもわたしは声を聞いたことよりも、突然叩かれたことに驚いて興奮していた。声を出すと、キンキンと裏返っていた。それにさらに熱が上がった。

「でも、でもそれ、もう食べ終わったんじゃないの?」

「それでもだ。これは俺のものだ」

「空ならもういいじゃない。それに、ボウルはわたしの家のものでしょう?」

 彼の左の拳が、スプーンを持ったまま、わたしの目の前のテーブルを強く叩いた。

「うるッせえよ。ガキの声は頭に響くんだ。耳元できゃあきゃあ騒ぐなッ」

 カッと怒鳴られて、わたしはまた目を見開いて固まった。だんだんと両目が潤んできてしまった。怖かったからというのは違う。びっくりしすぎたからだ。

 でも、それでも泣くなんていうのは悔しくて、わたしは瞼を押し上げて我慢した。テーブルの上に乗せた両手が震えていて、悲しいくらい悔しくなって力を込めて握った。その向こうにちらりと見える彼の拳が、わたしのとは二倍も三倍も、比べ物にならないくらい大きいのにも腹が立った。

 わたしが涙の衝動に耐えていたら、ふいに頭上から溜め息が降ってきた。前髪が吹かれたのに、目だけ動かして彼を見上げると、口元を歪めた彼の顔が見えた。いかにも嫌そうな表情で、しかも困惑しているようだった。

「なんだ、泣くな。痛くはしてないだろう」

 完全な優しさはなかったけど、いきなり慰められて、わたしの方もうろたえた。

 だけど、言われてみれば。かなりの勢いで叩かれ、音も派手だったはずなのに、この時にはもう手に痛みは全然なかった。ちゃんと思い返せば、そういえば手を払われたその瞬間さえも、驚いただけで痛くはなかった。彼は手加減して、綺麗に叩いてくれていたらしかった。

 それに気付くと、わたしは急に嬉しくなった。目の奥の熱も治まった。そのままにっこり笑うと、ところが彼はさっきよりもさらに変な表情をした。首を傾げると、彼は目を眇めて、困ったような気配で舌打ちをした。

「なに?」

「うるせえ。もうどっか行け」

 言うと同時にビンから直接水を飲むと、彼は再びボウルの中身を食べ始めた。もうわたしのことはまったく見向きもしなかった。突き放されたのに寂しくなって、わたしは彼を少しの間見上げていた。でも、彼にはもう相手にする気はないと分かると、そっとテーブルを離れた。



「なんで、人間なのに犬と同じなの?」

 いつか私が聞くと、お父さんはいつものように静かな口調で答えた。わたしはお父さんの膝の上に乗っていて、足の下に太い骨の感触があるのをずっと感じていた。

「あれは何も知らないんだよ」

「何も? ってなに?」

「大きく言うと人間関係だな。人間と人間の間の決まり事や感情なんかを、全部知らないんだ。例えば、友情や、愛情なんかだな」

 だから、あれは人間じゃなくていいんだよ。

「きっとあれは全部に飢えてるだろうな。下手に近寄ってはいけないよ。あれは警戒してお前の手を噛むかもしれない。それに、もし懐いたら徹底的に愛情を求めるだろうからな。そうなったらとても大変だ。面倒なのは嫌だろう? 私も嫌だから、絶対に私の手を煩わせてくれるなよ? 分かったな」

 顔を寄せて確認されて、わたしはいつもと同じに頷いた。意味はよく分からなかったけれど、お父さんがとても真剣な顔をしていたのだ。

「うん。分かった」

 お父さんは優しく笑って、「いい子だ」と頭を撫でて、キスをくれた。



 その夜は、居間でお父さんと一緒に本を見ていた。ところが、話の内容が分かってきた所で突然電話がかかってきて、お父さんは慌しく出かけていってしまった。

「すまない。ちょっと悪いことが起きたらしい。私は様子を見てこなくてはいけないから、もう部屋に鍵をかけて寝ていなさい。夜が明けるまで、決して一人で出歩いてはいけないよ」

 わたしは言われたとおり大人しく本を閉じて、部屋に戻ってベッドに入った。でも、どんなに寝返りを打ってもなかなか頭の冴えが取れなかった。いきなりのことに驚いて、緊張していたみたいだった。結局、一晩じゅうかけても、何度かまどろんだきりだった。そろりそろりと浅い眠りに続くように意識が浮上すると、カーテンの隙間から少し明るい日差しが見えた気がした。そっと首を回して時計を読むと、四時をもう少し過ぎた所だった。

 日も出ているし、もう十分に朝と言える時間だろう。眠れないのと、それでもベッドの中で横になり続けているのにイライラしていたわたしは、朝の散歩に出ることにした。もちろん下手に危ない、お父さんに叱られるようなことはせず、家の中を歩き回るきりの散歩だ。

 そうっと布団をはいでスリッパをはき、音を立てないように部屋のドアを押し開けた。一階の廊下は、延々と続く大きな窓からの光で眩しく輝いていた。床が綺麗に磨かれているから、そこで反射して、二倍になっているのかもしれなかった。一歩一歩静かに踏み出しても、音は少しだけ響いてしまっていた。その音にどきどきした。

 ふと思いついて、わたしは目標を食堂に定めた。もしかしたら、また彼がいるかもしれないと思ったのだ。わたしが彼とそこで初めて話をしたのはもうしばらく前になるけれど、一瞬だけ擦れ違う他に彼と会える場所といったら、食堂と厨房以外思いつかなかった。それに、こんなにわたしと顔を合わせないのなら、わたしたちとは違う時間帯に生活しているのかもしれないとも考えたのだ。

 目的を決めたら、なんとなく足の動きが早くなって、すぐに食堂に着いてしまった。さらに足音を殺して、厨房の扉に近付いた。

 ところが、扉のすぐ前に立った時。わたしは彼が窓の向こうにいたのに気がついた。丸く刈られた木ばかり立つ黄緑色の庭のなか、廊下のすぐそばにいた。若いレモンの色をした光の中で、ずっと向こうの方向に体を向けて、まるで鉛筆のように彼はちろりとも動かず突っ立っていた。

 呆然と緊張して微動だにしない彼と、柔らかく突き刺すような光は、まるで溶け合ってでもいるように重なっていた。全く似合わないはずなのに、完全なくらいに違和感がなかった。その風景に、わたしは気圧されていた。

 けれど、勇気を持って身体を動かすと、すべらかに足は続いて、窓までたどり着いた。彼の立っている手前の窓は、開かれたまま緩やかな風が吹き込んでいた。そこへ、少し背伸びをして窓枠の上に顎を置いた。

「おい、お前は何か用でもあるのか」

 そこでいきなり、がらがらの高い声が下りてきた。頭を微かにこちらに傾けて、大きな白目がわたしを見ていた。わたしはびっくりした。わたしの気配を全く無視していた彼が、突然振り返ったのもそうだけれど、彼の方からわたしに話しかけたのにとてもびっくりしていた。

「あ……おはよう、って、言いたくて」

 本当は、言葉に出来るような理由はなかった。でも、そう言ったのも本当だ。わたしは、もし運良く彼に会ったら、まずそう言おうと思っていた。

 彼は眉を寄せてわたしの顔を見た。怪訝そうというか、妙に不機嫌な気配もした。

「……お前は」

 彼がゆっくり口を動かした。早朝の空気のせいかもしれない。掠れ声が小さくなっていたけど、周りも静かだったので聞き取り辛くはなかった。

「お前は、可哀想なガキだな」

「え?」

「お前は何も知らない。人間と人間の間に何が起こるか、何も分からないんだろう。何を考えて、どう動くかなんてな」

 彼は目を眇めてわたしの顔を見た。じっと見入られて、透かし通されるような気持ちがした。よく分からない言葉とその視線に、わたしは緊張して固まって、見つめ返し続けていた。

 何秒か分からない。ふっと彼は瞼にさらに力を込めてから、視線を外した。そのまま流れるように、またさっきまでと同じ方向に真っ直ぐ顔と体を向けた。

「もう戻って寝ろ。お前には早い時間だろう。まだ油断するまでじゃない」

 言い終わるのとほとんど同時に、彼はまた勢い良く振り返った。短い距離をずんずん近付いてきて、わたしは思わず後退りしてしまった。彼はそれを気にもしない様子で、そのままぐいっと窓をまたぎ、廊下に裸足で乗りあがってきた。

 そこで目に入った彼の足に、わたしは釘付けになった。それは、インクでもこびり付いているみたいに色が黒く、爪は割れたか剥げたのばかりで、かかとや指の角は灰色っぽく固まっていた。こんなに汚い足を、わたしは初めて見た。人間の体だとは思えなくて、じっと見入ってしまっていた。

 それがまた動いて両方がしっかりと廊下を踏みしめたのに、やっとわたしはこの場全体が視界に入るようになった。彼の足から目を剥がし、彼の顔を見上げた。

「どうしたの?」

「部屋まで送る。離れないように、さっさと来い」

 わたしはまた驚いて、目を見開いて彼を見上げた。こんなに近くで彼の顔を見ようとすると、ほとんど垂直に首を上げなくてはいけないから、口も丸く開いてしまった。いきなり彼が親切になったのが、全く分からず混乱していた。

「ほら、早く来い。離れるな」

「う、うん」

 それなのに、彼は振り返ってわたしを見ながらも、さっさと歩き始めてしまっていた。わたしは焦って返事をした。けれど、彼の足はわたしのよりもずっと、比べられないほど長くて、早歩きで行ってしまうのに、わたしは走らなければならなかった。

 彼の黒い足は、窓を乗り越えてきた後の二、三歩だけしか足跡を付けなかった。それも、庭の乾いた土が落ちただけだ。それが不思議で、わたしは彼の足元ばかり見ながら駆け足で廊下を付いて行った。早朝のかたい空気に、わたしのスリッパの音だけが聞こえていて、それでまた緊張してどきどきしていた。

 部屋に着くと、何の挨拶も言葉もなしに彼はまた早足でどこかへ行ってしまった。おやすみの一言くらいくれてもいいのに。悲しく寂しくなって、わたしはすぐにベッドへもぐり込んだ。



 わたしは、彼の言った言葉の意味を、お父さんに聞いてみた。すると何故かお父さんは、眉を寄せて怒った顔をした。

「それは、誰に言われたんだ?」

 わたしはおどおどとお父さんの手元を見た。わたしが怒られているわけではないことは分かっていたのだけれど、怒っている気配自体がとても怖かったのだ。

 彼が言ったのだと、わたしは言おうかどうか少し迷った。けれど、言わない理由はなかったし、怖かったので彼だと言った。

「あの、あの足が黒い人。お父さんが犬と同じって言った人」

「ああ、あれか」

 わたしはここで、彼の名前を知らないことに気が付いた。そもそも名前があるのかと、わたしは考えてみたことがなかった。

 でも、お父さんはそれで分かったみたいだった。そして何故だか、怒った気配がなくなった。眉の間の皺を取って、口の端で笑った。残酷な感じのする笑い顔だった。

「あれが言ったのなら、それは気にしなくていい。可哀想だなんていうのは、あれのひがみだ。それか、虚勢だな」

「ひがみ? きょせい? って、なに?」

「ひがみは、人のことを羨ましい、憎いと思うことだよ。虚勢は、なんと言うかな」

 お父さんは顎を撫でて、少し笑ったまま首を傾げた。

「あれは、私や他の多くの者たちに蔑まれているからな。その代わりに、お前を下に見てバランスを取ろうとしているんだ。まだ子供で、しかも私の子供だから、そうしたんだろうな。あれは私を憎んでいるし、怖がっているから」

 お父さんは、わたしに説明するというよりも、だんだんと独り言のように言っていた。わたしは、よく分からなかった。わたしの様子に気が付くと、お父さんはやっと優しく笑って、頭を撫でてくれた。わたしはほっとして、結局何も分からなかったことも、それでどうでもいいと思った。

「あれの精一杯の自己防衛だ。何も気にすることはないんだよ。あれの気持ちの上でだけの問題だ。お前には何の関係もない」

 お父さんは、今度はわたしに向かって言ってくれたみたいだったけれど、やっぱりわたしには分からなかった。分からなすぎて、もうどうでもよくなっていた。



 こないだ、わたしは小さな魚を何匹か買った。本当はお父さんと一緒に、大きな水槽と色々な種類の観賞用の魚や水草なんかを買う予定だったのだ。それなのに、お父さんが急な仕事で来てくれなくなった。わたしは涙が出るほど悔しかった。それだから、当てつけのつもりで使用人の人と行って、でもやっぱり悲しくてつまらなかった。悔しさでわたし一人で選んだけれど、怖くていっぱいは買えなかった。でもお父さんはそれを知ると「本当に悪かった」と謝ってくれた。

 ぶ厚い辞書みたいな水槽を、わたしは食堂の所に置いた。居間には、今度お父さんと一緒に買うやつを置くつもりだったからだ。

 薄い青の細かな魚は、どこか透明で、微かに骨が透き通って見えた。明かりに反射するときらきら光って、とても綺麗だった。でもよく見ると骨の間に細い血の筋があった。わたしは、こんなに綺麗で、しかも魚なのに、赤い血が通っていることを不思議に思った。

 わたしはその日も、魚を眺めるために食堂へ行った。どんなに見ていても楽しくて、このところのわたしの一人遊びはほとんどこれだった。

 ちょうど日が照り始める時間のはずなのに、今日は厚い雲が遮ってしまっていた。でも廊下はそんなに暗くはなくて、真っ白の光が充満していた。けれど何故か、足元の影が消えてしまって、見えなくなっていた。なんとなく怖くなって、わたしは足を少し速くして食堂へと向かった。

 ところが食堂に入った途端に、わたしの足はぴたりと止まった。そこに、彼の姿を見つけたからだ。廊下で擦れ違う時のように早足で歩いているわけではなく、ぴたりと突っ立って、集中しているようだった。

 わたしは入り口に立ったまま、そうっと彼を伺い見た。つい目が行った彼の足元は、薄明るい光のせいでぼんやり影になっていた。黒く汚いはずなのに、全くその色はわからなかった。わたしは足から目を離して、その上の顔と目とを見つめた。彼は、食堂の壁際にある小さな机の前に立って、一点をじぃっと見入っているようだった。わたしは彼の体の向こうをちらりと覗き見て、気がついた。彼は、魚の泳いでいる水槽をじっと眺めていたのだ。

 わたしは急に怖くなった。心臓がどきどきと鳴り始めるのが、体の奥で聞こえた。彼がもしや、魚を食べてしまうつもりなのではないかと思ったのだ。厨房の隅でボウルに噛み付くように食べていた彼の姿は、わたしの頭の中に鮮やかにこびり付いていた。

 わたしが緊張しながらじっと見つめていると、ふいに彼が左腕を上げて、コツ、と水槽のガラスを爪で叩いた。わたしはびくっとした。が、彼はわたしには気がつかない様子で、再び水槽を静かに叩いた。三度、四度と続けると、次はガラスに線を付けるように引っ掻き始めた。優しくスーと音がした。

 わたしはふいに、彼の気配が静かで穏やかなのに気がついた。彼が、魚の泳ぐ軌道を追って爪を動かしていることが、隙間から微かに見えた。

 わたしはほっとして、気が抜けた息を吐いた。と、彼がいきなりガッとこちらを振り向いた。わたしは驚いて肩を揺らした。彼はわたしを見ると顔を強張らせた。でもすぐに、微かに嫌そうに歪められただけに変わった。

「え、あ、ごめんなさい」

「お前か」

 彼は舌打ちをした。わたしはそうっと彼の方へ近付いて行った。ちょうどわたしの目線の所に置いてある水槽は、彼にとっては腰の位置に当たるみたいだった。

「餌をやりに来たのか。それなら、いらねえぞ」

「え?」

「そこの、この箱だろう? さっき俺が、やっちまった」

 わたしはびっくりして彼を見上げた。彼が手にとってみせたのは、正に魚の餌箱だった。彼の顔は妙な具合にひん曲がって、力が入って眉間に皺が寄っていた。けれど気配は、怒っているというよりは、ぴりぴりと緊張していた。なにか、恥ずかしがっているみたいだった。

 わたしは急に楽しくなった。お腹の奥で、何かあたたかいものがせり上がってくるような感触がした。わたしはその嬉しさのまま、彼の手を握ろうとした。ところが、それは途端にびくりとはね上がった。大きな震えに、わたしの方も驚いた。

「え?」

「あ…………な、何だ」

 彼の声は掠れすぎてよく聞こえなかった。うろたえているみたいだった。わたしもそれにつられて、少し動揺してしまった。

「餌を、やりにきたんじゃ、なくて、見にきたの。でも、でも一緒に見ない?」

 わたしはつっかえながら頑張って言い切った。彼はまた目を見開いたみたいだった。身を引くようにして、わたしから微かに離れた。白灰色のほの暗い空気の中で、彼の顔がさらに遠くなって、よく見えなくなった。

「そ、うか。一緒、に見るのか?」

「うん。いけない?」

 彼は緩く首を傾けて「いや」と囁くように言った。わたしはまた嬉しくなって、そっと彼の服の端を掴んだ。それは、ごわごわと乾いていた。



 夜中に電話が来たあの日から、お父さんの仕事は忙しくなったみたいだった。休みの日でも、なにかと呼び出されてはバタバタと出かけるようになった。そして行く前に必ずわたしに、戸締りと身の回りに気をつけるようにと言うのだ。もちろん、わたしには何が起こっているのかなんて分からなかったけど、なんとなく嫌な感じがするのは分かっていた。

 だんだんと昼が夕方に変わっていく頃、わたしは庭の土の上にしゃがみ込んで、じいっとその光と反射する葉っぱを眺めていた。少し向こうの方に並んで立っている木が、風に揺れながら薄いばら色に染まっていた。そのさらに向こうに見える空も、柔らかい光が全体にたなびいていて、空気全てがじりじりと色濃くなっていくようだった。

 わたしと同じくらいの低さの植木が続く道を、わたしは靴をはいた足で歩き出した。一歩一歩をそうっと動かして、静かな庭のカラメル色の空気を壊さないようにと気をつけていた。

 ふと、その植木の奥の方から、人間の声が聞こえてきた気がした。わたしは足を止めて、葉っぱの隙間からそろそろと向こうを覗いてみた。少しだけ遠い所に、二人の男の人がいた。一人は彼で、こちらに背を向けて何か話しているようだった。

 わたしはびっくりした。彼が、誰か他の人と普通に話しているということが、なぜかひどく不思議だった。そんなことがあるなんて、わたしは考えたことがなかったのだ。なんとなく、悔しくなって、寂しくなった。

 もう一人も、見覚えのある男の人だった。お父さんと一緒にいたのを、何度か家の中で見たことがあった。お父さんの少し後ろに立っていて、お父さんには話しかけるのに、わたしとは目を合わせなかった。妙によそよそしくて、わたしは怖い雰囲気の人だと思っていた。

 理由はわからないけれど、わたしはどうにも会話の中身が気になって、息を殺して耳をそばだてた。かすかな鳥の声しか聞こえない中に、ぼそぼそとした囁き声が聞こえた。

「もう、そろそろだろ。どれくらいだ?」

 彼の掠れ声は、ここからでは発音が弱い所が聞こえなかった。大体は分かったけれど、落ち着かなくてお尻がそわそわした。

「すぐさ。計画していたものはほとんど終わったからな。あとは本当に、あちらが耐えられずに崩れ落ちるのを待つっきりだ。あと少し、やったらな」

 答えた男の人の声は、ブリキのように低くて、小声のくせに妙に笑っているような調子だった。葉っぱの間から目を細めると、腕を組んで、口元で笑っているのが見えた。彼が、少し体を動かした。

「楽しそうだな、あんた」

「ああ。犬も、だろう? 好きでこの屋敷にいるわけでもないくせに、何でそんな主人に忠実なのか、分かんねえな。その割にこっちに味方してんだから、俺にはもう全然理解できないね」

「あんたが知るかよ」

 彼の背中が不機嫌そうに唸った。

 会話の意味は、わたしには全然分からなかった。けれどなんとなく、嫌な、怖い気配がするのを感じていた。

「可愛くもない従順な飼い犬に、いきなり噛まれる主人が可哀想だな」

 男の人が、また口だけで笑って言った。さらに彼が怒った気配が見えた。男の人が、ふっと笑って肩の力を抜いた。ふと、のぞき見ているわたしは蚊帳の外なことに気がついて、わたしは妙に寂しくなった。

「まあ、味方ってほど手伝ってもらってないけどな。犬は、結局これからどうするんだ?」

「ここにも、やっぱ何か来るのか?」

「ああまあ、当日はごたごたするだろうな」

「じゃあ、持って行くもんがいくつかある」

 男の人は、面白いことを聞いたように喉を一つ鳴らした。

「へえ、主人のためか、自分のためか?」

「あんた、うっせえな」

 びりびりと怒りの篭った声に、全身が震えた。離れた所にいて、わたしとは全く関係がないことはもちろん分かっていたけれど、こんなにあからさまに怒った荒々しい気配は、わたしは初めてだった。そこにあるだけで怖かった。

「分かんないのかよ、犬。やっぱお前、ガキだなあ」

 男の人の、喉の奥で押し上げているような笑い声が聞こえた。

 けれどわたしの足はもう、植木の傍から上半身を離して、来た道を戻ろうとしていた。息の音さえも完全に殺して、わたしはそろそろと慎重に移動し始めた。ゆっくりと数歩歩いて、聞こえてくる声の意味が分からなくなった所で、足の動きを早めた。

 妙に心臓がどきどきとしていて、それにまた緊張した。恐怖と混乱と寂しさに、涙が滲んできた。



「犬と、近頃随分仲良くなったみたいだな。悪いとは言わないが、何か理由はあるのか、教えてくれないか?」

 お父さんが、しっかりと目を合わせて聞いてきた。疲れている様子で、そのせいかどうか、妙に真剣な顔をしていた。

「え……。わ、分かんない」

「……そうか」

 お父さんはため息のように言った。そっと手を伸ばして、わたしの頭をゆっくりと何度も撫でてくれた。いつもよりも優しい感触が、とても気持ちがよかった。

「あれと一緒にいれば、安全ではあるだろうな。あれは、何かあってもきっとお前を傷つけることはしないだろう。だが、」

 最後の言葉だけが、小声すぎて聞こえなかった。独り言のように静かに、お父さんは呟いていた。けれどわたしは、その奥でどこか不穏な、ぎりぎりと気が立っている気配を感じ取っていた。

 頭にあった手が脇に下りて、お父さんはぐいとわたしを膝へ抱き上げた。そのままぴたりと頬をつけて、強く擦り合わせてきた。わたしはされるままに返したけれど、お父さんが一体どうしたのか、分からなかった。

「お父さん?」

 答えずに、お父さんは大きく息を吸って、吐いた。妙に不自然な動きで、肌を通して伝わるお父さんの心臓の動きがドクドクと高鳴っているのに、わたしも同調して緊張してしまっていた。

 少しして、お父さんはわたしを抱き締めたまま、「いや」とまるで謝るように囁いた。体を離して目を合わせた。

「今日は、二人で外に出て食事をしようか」

「お店に行くの?」

「ああ。おいで」

 お父さんは落ち着いた様子で立ち上がって、優しく笑ってわたしを呼んだ。けれど、差し出されて繋いだ手のあたたかさが、安心感と同時に、妙な緊張感を呼び起こしていた。



 またこの日も、お父さんは夕方を過ぎても帰ってこなくて、わたしは居間で一人で遊んでいた。ソファの皺が何の形に見えるかを、その上に寝転がりながら考えていた。黒い革の上に耳の尖った大きな犬が見えて、わたしは彼のことを思い出していた。少し前の日の、庭の緑と薄赤い光の中で、二つの影が少し距離を置いて立っていた光景だ。それは、思い出すと、改めて不自然な感じがした。

 そこへいきなり、大きな足音が聞こえてきた。いくつか重なって廊下からダンダンと振動してくる音は、全く聞き慣れない響きだった。

 嫌な感触に、さあっと胸が緊張した。わたしは、ソファの上で微かにも動かずじっとしていた。息を殺しても、ずきずきするほどの心臓の音が外に漏れてしまうんじゃないかと思って、わけも分からず冷や汗が出た。

 窓の方から微かな音が聞こえた気がした。ビクッと振り返ると、そこには彼がいた。背の高い窓を開けて、こちらに入ってきた所だった。気配は緊張しているのに、表情はやけに落ち着いていた。黒い裸足はこれっぽちも音を立てずに、大股でわたしの方へと近付いてきた。わたしは緊張していたのとびっくりしたので、目だけで彼を見上げたまま、ちらとも動けなかった。

「おい、こっちに来い」

 ソファにしがみ付いているわたしの顔の前に、彼が左手を差し出した。囁き声だったので、さらに掠れて聞き取り辛くなっていた。わたしは反応出来ずに、呆然とそれを見つめた。彼は鋭く舌打ちをした。

「ほら、言うこと聞け。俺は何もしねえよ。最近、もうヤバイってことぐらいは、お前でも分かってんだろう?」

 イライラと真剣な彼の空気に、わたしは小さく頷いた。

「なら、立て」

 わたしは強張った体をのろのろと起き上がらせた。それを彼は、またイライラした様子で見ていた。なんとかソファの上に上半身を起こしたけれど、もうそれ以上動けずに座り込んだ。

「歩けねえか」

 頷くと、彼は目元を歪ませた。また大きく舌打ちをして、しゃがみ込んでわたしと視線を合わすと、ずいと両腕を伸ばしてきた。けれどその手は、羽のようにわたしの腕に触れてきた。そうっと、恐々と動かして、わたしの両腕を彼の首に回させた。あたたかく湿った肌に、条件反射でわたしは抱きついた。すると彼はそのまま膝を伸ばして立ち上がった。びくりと震えると、右手が一本、わたしの腰を支えてきた。

「ちゃんと掴まっていろ。俺はガキなんか持ったことはないから、落とすかも分からん」

「う、うん」

 どきどきしながら、わたしの喉から返事が出た。

 彼は走るような早足で居間を横切り、わたしを抱いたまま庭へと降りた。整備された土の道を飛ぶように駆け出した。揺れるのと怖いのとで、わたしは必死で彼の首に掴まって、肩口に顔を埋めていた。汗の臭いが、わたしまでも彼の一部のように包み込んできていた。

 彼は裏口の一つから外へと出ようとしているようだった。暗く濃い色をした木の影にある門へと近付く。ところが、そこで彼はぴたりと足を止めた。不思議に思って、わたしは顔を上げた。一つの大きな人影があるようだった。夕方から夜への、ピンクと紫が混ざった光は薄暗くて、よく見えなかった。

「あんたか」

 でも、彼はそれが誰だか分かったようだった。がらがらの声だからよく分からないのだけれど、いつもよりも低く、どこか犬の唸り声のようだった。

 人影は、彼の様子を気にせずに足音を立てて近付いてきた。息を切らして、肩を小さく上下させていた。薄紫の光が当たって、顔が見えた。

「お前が連れてきてくれるとは、思っていなかった。よこせ」

 それは、お父さんだった。髪が額に掛かっていて、汗で張り付いていた。だのに酷く無表情で、冷たいものを隠そうともしていなかった。わたしは、お父さんのこんな必死な形相を見るのは初めてだった。そのことに、わたしは怖くなった。

「お父さん?」

「待て。あんたは、もう駄目だろう。何でこんな所にいるんだ」

 彼はまるで突き放すように言って、わたしの腰を強く抱き直した。びっくりして見上げると、彼の顔は触れそうなほどの距離にあって、わたしはそれにまた驚いた。

 お父さんはギリリと目を細めて彼を見た。怒りと同時に、寒々とする冷たさがあった。下等な生き物を見るようだった。

「なぜ、だと?」

「あんたはもう終わりだ。全てがパアになったんだろう? これ以上何を出来るわけでもない。それで、どこに逃げもせずにまともに娘を取り戻して、どうしようってんだ?」

「単なる番犬のお前には何の関係もない。拾われたガキはそれらしく従順にしていろ。それは私の唯一の家族だ」

 彼はまた右手に力を入れた。指が太腿に食い込んで痛かったけれど、わたしは微かな身じろぎも出来ずにいた。酷い緊迫感が辺りに充満して、張り詰めてパンクしそうだった。

「それはお前とは全く違う。手を離してこちらによこせ。お前は今捨ててやる。道具はもう必要ない。だからもう、勝手にどこへでも行けばいい」

 彼の腕の力は、ぎりぎりと強くなるばかりだった。怒っているようでもあったし、傷付いている気配もした。

「……どうやら、あんたはこういう場面で融通が利かなくなるタチらしいな。まさか、無理心中でもするつもりか?」

「それは私の娘だ。私の事を理解している」

 わたしの耳は、緊張のせいで冴え冴えとしていて、その言葉を丁寧に拾った。意味はよく分からなくて、でも完全に分からないわけではなかった。彼の言葉への返答としての意味なら、なんとなくわたしは感じ取った。

 彼は深く息を吐いた。その息はぶるぶると震えていて、途切れ途切れだった。わたしが掴まっている喉も、大きく震えていた。

「本気か、あんた。唯一、一番大切な家族なんだろう」

 わたしは震えてはいなかった。ただ、彼の肩に強くしがみ付いて、熱い首元に顔を埋めて、じっとしていた。

「愛しているから、一緒に逃げたいと思うんだ。お前には、分からないだろうが」

 お父さんの声は、いつもよりも掠れているような気がした。

 いきなり彼は、わたしの背中を引っ掴んで引き剥がした。そのまますぐ下の植え込みに、捨てるように投げられた。わたしは背中から落ちたけれど、すぐに小さく丸まったから痛くもなかった。耳元で葉っぱの擦れる音がして、他の音は聞こえなかった。でも、微かに何かの声が、音が聞こえた気もした。

 わたしは呆然と空を見上げていた。けれど体は勝手にずるりと植え込みから滑り降り、震える足で立ち上がろうした。と、ぐいと脇を両手で抱え上げられた。骨の大きな手で、ぎゅうと痛く抱き上げてきたのは、彼だった。

 その顔を認識すると、途端にわたしの全ての感覚が戻ってきた。まず、濃い血の臭いが、吐き気がするくらいに襲ってきた。次に耳鳴りがして、そしてだんだん彼の足元でぐちゃぐちゃと水音がするのが聞こえてきた。さらに、彼の腕の熱さと湿っぽさが、手の平に鮮明に感じた。そして、開いた口の中に、鉄の味。

 彼はわたしを両手で強く抱き締めたまま、風のような速さで走り出した。開いていた門を抜けて、大きな道路に出た。彼の肩の上から顔を出して、後ろを見た。どんどんと暗くなっていく空の下、門の向こうに倒れている人が見えた。

「お父さあああああ」

 わたしの口から、甲高い叫び声が飛び出した。その声で頭が痛くなって、また利かなくなった鼻や耳と同調してガンガンと強く響いていた。彼の体の上で背伸びをすると、腰の辺りを両腕で強く抱きこまれた。でもわたしは、彼の服を決して離さなかった。

「お父さん、お父さん、お父さん」

 彼はわたしを肩から引き摺り下ろして、ぐいと抱き込んだ。顔を彼の胸に押し付けられて、わたしの叫び声が押し止められた。周りの景色が、吸い込まれるようにわたしの視界の側面を流れて、消えていった。その中で、彼の黒い足跡だけはずっと消えなかった。それは微かな光に反射すると、ぬらりと光った。



「俺は、ガキは好きじゃねえ。俺のガキの頃に、いい思い出ってもんがねえんだ」

 彼はわたしを抱いたまま、どこか小さな場所に入ってじっとしていた。わたしは、ふと気がついた時にはそこで彼の腕に支えられていて、そこに着くまでのことを、これっぽちも思い出せなかった。

 カーテンは隅まで閉められ、明かりも点けられていなかった。けれど空気と匂いで、太陽が照っていることがわかった。彼の白目だけが、暗い中で光っていた。

「うん」

「が――――……なんか、な」

 彼は、まるで手の感触だけで探るように、つっかえながら言った。へたり込んでいるわたしの真正面、鼻先が触れ合う距離にいて、でもほとんど目を合わせなかった。

「え?」

「なんか知らねえが、連れて来ちまった。お前、嫌だったか」

 わたしは彼の顔を見上げた。暗くてほとんどなにも見えなかった。けれどわたしは、彼のとても困惑しているのと、他の何か、いいものを感じた気がした。わたしの手はまだ彼の服を掴んでいて、それと空気を通して彼の体温が伝わってきていた。

 わたしは首を振った。見えないかと思って、口を開けた。

「い、嫌じゃない。やじゃない」

 お腹の底がとんでもなくどくどく響いていて、体が振動している気がしていた。わたしは、彼の体にそれが伝わってしまうのではないかと心配になった。彼がどのような反応をするのか、全ての感覚を集めて、緊張で張り詰めて感じとろうとしていた。

 彼の白目が何度も瞬いた。すると、するりと細くなった。微かに漂っている光の砂を集めて、きらきらと光った。

「そうか。……よかった」



 高校生の頃、必死になって己の中に渦巻くものを形にした作品。

 大人と子供とその中間(子供から大人へと必死で移り変わろうとしているところ)を書きたかった。あと、子供は頭では何も分かっていなくても、心で全てを捕らえているということも。

 子供という生き物のすさまじさと、大人という生き物の汚さと描き……たくてよく分からないものになった文学。

 処女作と言っていいものなので、思い入れの深い作品です。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 一体何があったのか、これからどうなるのか気になってしまう作品ですねー! 素敵なお話ありがとうございます!
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