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仮面夫婦、愛の全面戦争(1/4)

 翌日。ミアは確固たる意思を持って、屋敷の中央棟を大股で歩いていた。


 その間も、昨夜の夜鷹の言葉が頭から離れない。


 ――あなたがヴィクターくんを誘惑すればいいのよ。向こうが先に小夜啼鳥を好きになったら、私のかわいい小鳥ちゃんは生き残れるでしょう?


 生き残りを賭けた戦いに慈悲を挟む余地はない。ミアはこれからヴィクターの居住区画である西棟へ乗り込んでいくつもりだった。そして、まだ寝ているであろう夫を叩き起こし、猛アプローチをする気でいたのだ。


(寝起きのぼんやりした頭なら、物事を冷静に考える余裕もなくコロッと落ちてくれるはずよ!)


 この奇襲作戦の成功を祈りながら、ミアは中央棟と西棟を繋ぐ扉を開けようとした。その背に声がかかる。


「ミア様。西棟へ行かれるのですか?」


 そこにいたのは、目をぱちくりさせた使用人だった。ボードマン夫妻はお互いにまったく関心がない仮面夫婦であると知っているので、ミアの行動が意外に思えたのだろう。


 事実、ミアが西棟を訪れるのはこれが初めてだった。


 この屋敷には元々、ヴィクターが一人で住んでいた。それをミアとの結婚をきっかけに、物置同然だった東棟と西棟を片づけて、家庭内別居状態で住めるようにしたらしい。


 中央棟はどちらのものでもない中立地帯といったところか。とはいえ、使うのは来客対応の時くらいだが。


 だから、ミアがこれまでボードマン家の中で入ったことがあるのは、彼女が生活している東棟と中央棟だけだったのである。


 だが、そんなことなどどうでもいいとばかりに、ミアは「そうよ。何か問題でも?」と平然と返した。


「いえ、そのようなことは……」


 使用人が首を振った。驚きが表情に出ていたことに気づいたのか、気まずそうな顔をしている。


「ただ、ちょっとしたご忠告を、と思いまして。西棟の廊下を歩く際は、必ず絨毯の赤い部分を踏むようになさったほうがよろしいかと存じます」


「絨毯の赤い部分?」


 わけの分からないアドバイスにミアは困惑する。だが、使用人も困り顔だ。


「なぜなのかは我々使用人も知りません。ただ、ヴィクター様からそう言いつけられているのです。『死にたくないなら言うとおりにしたほうがいい』と……」


「……それじゃあ私もそうさせてもらうわ」


 理由はさっぱり分からないが、警告を無視してわざわざ危険を冒す必要もないだろう。使用人と別れ、ミアは西棟に続く扉を開けた。


 ミアは真っ先に足元を確認する。確かに絨毯が敷かれていた。


 長方形のタイルを石畳のように並べた模様だ。壁や扉に接している部分が青色で、それ以外の真ん中のところが、濃淡がバラバラの赤色をしていた。


 けれど、中央もずっと赤が続いているというわけではなく、廊下を歩く者を罠にかけようとするように、時々青い長方形が混じっている。


 奇妙な指示に従って、ミアは絨毯の赤い部分だけを踏んで歩いていった。


 なんだか、小さい子たちがよくやっている、「縁石の上から落ちたら死ぬ」という設定のゲームをしている気分だ。


 絨毯の赤い部分以外を踏むな、というのも、それに近い発想なのだろうか。ヴィクターは案外、童心に返るような遊びが好きなのかもしれない。


 ミアは西棟の中を歩き回る。間取りは彼女が生活している東棟と同じだったので、特に迷ったりはしなかった。だが、それ以外は随分と様子が違う。


 ひとことでいえば、装飾品などない殺風景な東棟と比べて、西棟は華やかに飾り立てられていたのだ。


 床の絨毯にしてもそうだが、天井には豪奢なシャンデリアがぶら下がり、壁には大きな風景画がかかっている。武器を携えた甲冑などは、今にも動き出しそうな迫力だ。


 もちろん、ミアもボードマン家の住人なので、彼女にも居住区画の東棟を好きに改装したり室内装飾を凝らしたりする権利はある。


 けれど、彼女が「貴族の館の内装」と聞いて真っ先に思い浮かべるのは夜鷹の屋敷――退廃的で妖しげな雰囲気の空間だったのである。


 ミアにはそんな空気感を上手く演出できる自信がなかったのだ。それならばいっそ手を加えないほうがいいだろうと思ったのである。


 それだけではなく、ミアは部屋を飾ったりすることにはあまり興味がなかった。


 だから、ヴィクターの居住区画を彩る装飾品の数々を、最初は物珍しく眺めていたものの、すぐにそれにも飽きてしまい、夫の捜索に集中することにした。ヴィクターの名前を連呼しながら、ひたすら廊下を歩き続ける。


 だが、何かがおかしい。ヴィクターから返事が返ってこないのだ。それどころか、彼の気配すらもない。


(まさか……逃げたの!? この私に恐れをなしたのね!)


 だとするならば、こうしてはいられない。夜鷹に頼んで国中に監視網を敷き、草の根を分けてでもヴィクターを探し出さなければ。ミアは大急ぎで西棟の外に出た。


(早く見つかりますように! じゃないと私の命が……!)


 右手の甲の『6』の刻印を見ながら焦って中央棟を疾走してミアは、角を曲がった先にいる人物に気づかなかった。


 衝突寸前でミアは立ち止まる。目の前にはヴィクターがいた。


「ミアさん、今までどこにいたんだ?」


 ヴィクターがミアを見て瞠目している。


「さっきまでずっと東棟を探し回っていて……」

「好きよ」


 ミアはヴィクターの話をほとんど聞かずに愛の言葉を口にした。


「あなたのことが好き、ヴィクターさん」


 そう言いながら、ミアは勝利を確信していた。「好き」の一言に勝る誘惑の言葉もないだろう。ナイジェルはこれだけでミアに夢中になって、ターゲットの情報をベラベラと喋ってくれたのだ。


「ああ、僕も好きだよ」


 ヴィクターもミアに愛の告白をした。ミアは思ったとおりの展開ににんまりする。


 だが、すぐにヴィクターの目が笑っていないことに気づいた。というか、声にもまったく情熱が感じられない。「今日の天気は?」と聞かれて「晴れているよ」と返しているのと何も変わらない声色ではないか。


 嫌な予感を覚えつつも、ミアは作戦その二に出ることにした。ドレスの胸元をくつろげ、媚びを売るようにヴィクターにすり寄る。


(ふふふ……ハニートラップよ!)


 これがナイジェルなら、ミアの代わりに自分がターゲットを暗殺してくるとさえ言い出すだろう。効果は抜群のはずである。


(……あら?)


 ヴィクターの体を思わせぶりに撫で回していたミアの手が止まる。


(ヴィクターさん……心音にまったく変化がないわ)


 それどころか、呼吸の深さも体温も正常だ。


 つまり彼は、ミアに言い寄られてもまったく動じていないのである。


 だが、彼の口から飛び出してきたのは、それとは正反対の言葉だった。


「どうしたんだい、ミアさん。今日はやけにかわいいな」


 ヴィクターがにこやかにそんなことを言ったものだから、ミアは思わず固まった。男性から「かわいい」などと言われたのは初めてだったのだ。顔が赤くなっていく。


「朝食を作っておいたよ。さあ、おいで」


 ヴィクターに手を引かれて中央棟の食堂まで行く。男性と手を繋いだことも初めてだったミアは、どうしていいのか分からずにオタオタしているしかなかった。


 しかし、その戸惑いは食堂に着いた途端に一瞬で吹き飛んだ。


「好きなだけ召し上がれ」


 食堂の広いテーブルには、山のように料理が載っていた。


 メインだけでも十種類はあるだろう。フルーツのソースがかかったワッフルに、クロワッサン、スモークサーモンとハーブのオープンサンド、その他もろもろ。


 こじゃれた平皿にトマトとモッツァレラのカプレーゼが並び、その隣のガラス製のサラダボウルには生ハムとオリーブの盛り合わせが入っている。


 デザートの種類も豊富で、クレープやエッグタルト、アーモンドケーキがテーブルの隅で堂々とした存在感を放っていた。


 飲み物ですら一種類ではない。紅茶が少なくとも五種類。ほかにも、スムージーやカフェオレなど、よりどりみどりだった。


「これ……全部食べていいの……?」


 ミアはふらふらとテーブルに近づいた。お腹がぐうぅ、と鳴る。


「もちろん。君のために腕によりをかけたんだ」


 ヴィクターが椅子を引く。腰かけるやいなや、ミアはすべての皿から料理を一品ずつ取り分け、片っ端から口に入れ始めた。歓喜の波が押し寄せてくる。


「このチュロス、すごくモチモチしてる! こっちのゆで卵も半熟でトロトロ! パンケーキも最高ね! ふわふわしていて食べ応えがあるわ!」


「それはカイザーシュマーレンっていうんだよ。隣国の料理だね。ジャムやコンポートをたっぷりとつけて食べてくれ」


「たっぷりと!? きっと天国ってこういうところなのね!」


「ふふふ。そうだな。天国だな」


 意味深長な口調に、ナイフとフォークをつかんでいたミアの手がピタリと止まる。顔を上げたミアは息が止まりそうになった。


 ヴィクターの蜂蜜色の瞳には、平時の穏やかさなど欠片もない。完全に狩人の目になっている。それは、今にも獲物に矢を射かけようとする油断ならない目つきだった。


(彼……私と同じことを考えているんだわ……)


 ミアは今朝、夫との間に起きた出来事を思い返す。


 好きだと言われたこと、かわいいと褒められたこと、そして、こんなにも美味しい朝食を作ってくれたこと。


(全部ヴィクターさんの作戦だったのね……!)


 危ないところだった。何も気づかずにいたら、ミアのほうが先にヴィクターに惚れていたかもしれない。


 こうなったら、もうなりふり構っていられない。これは愛の全面戦争だ。そっちがその気なら、こっちもやってやる、とミアは心に決めた。


 奥の手を使うことにしたミアは、ヴィクターが目を離した一瞬の隙を突いて、袖口に隠し持っていた小瓶の中の薬品をハーブティーに流し込んだ。そして、そのカップを何食わぬ顔でヴィクターに差し出す。


「ヴィクターさんも一緒に食べましょうよ」

「いや、僕はもう朝食は済ませたよ」

「そんなこと言わずに、せめてお茶を一杯だけでも。……ね?」

「……分かったよ」


 ヴィクターは肩を竦めてカップを受け取り、中身を一口啜った。ミアは頭の中でカウントダウンを始める。ヴィクターの目が段々とトロンとしてきた。


(……二、一、ゼロ!)


 秒読みが完了した途端に、ヴィクターがミアの足元に跪いた。


「ミアさん……! 僕はあなたのためなら何でもするよ……!」


 ヴィクターの声は熱っぽく震えていた。頬は紅潮し、体中から情熱が発散している。先ほどとは打って変わって、その態度に打算的なところは見られない。


 薬が上手く効いたようだ、とミアは高笑いしたくなる。彼女がヴィクターに飲ませたのは媚薬だったのだ。


「じゃあ、私のために死んで?」


 ミアは女王様然とした口調で命じた。ヴィクターはこの上ない名誉だと言わんばかりに「もちろんだよ!」と応じる。


「ミアさんの頼みなら、命の一つや二つ、いつでも投げ出してやろう!」


「まあ、助かるわ」


「そんなのお安いご用だよ。今日は人に会う予定があったけど、キャンセルしてずっとあなたの傍にいよう」


「ふふふ、ありがとう」


 ミアは紅茶の中にさらに媚薬を入れる。「はい、飲んで?」とヴィクターに渡すと、彼は疑いもなく一気に飲み干した。


「ああ……ミアさんは本当に素敵だ……。愛しているよ、心の底から……」


 不意に言葉を切ったかと思うと、ヴィクターは床に倒れ込んだ。不審に思ったミアが「ヴィクターさん?」と名前を呼びながら肩を揺すってみたけれど反応がない。


 まさかと思い、ミアはヴィクターの脈を確認する。


(……よかった、ちゃんと生きてるわ)


 ミアは安堵した。薬が入っていた空の小瓶を見てため息を吐く。


(この媚薬……まだまだ改良の余地があるわね)


 ミアは薬品調合が得意で、暗殺に使用する毒もすべて自分で作っている。だから、媚薬くらい楽勝で生成できるだろうと思っていたのだが、そうでもなかったようだ。


 床で伸びるヴィクターを見て、どうするべきか思案する。


(放っておいても死にはしないでしょう。だけど、当分目覚めそうもないわね。それなら、彼が起きるまでの時間を利用して、お仕事に行くほうがいいかしら。でも、その前に……食事!)


 ミアはテーブルに載った料理の数々を見て唇を舐める。


 この食事はミアを殺そうとしたヴィクターが作ったものだが、料理自体に罪はないのだ。だったら、完食しなければもったいない。それに、こんなに美味しいものを差し出されて黙っていることなどミアにはできなかったのである。


(お昼前にお仕事が終わったら、ヴィクターさんに昼食も作ってもらおうかしら)


 呑気なことを考えながら、ミアは床で気絶している夫を放置して朝食を再開した。

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