仮面夫婦、組織に掛け合う(1/1)
『2』
中央棟の居間のソファーに深く腰かけたミアは、右手の甲に浮かんだ数字を見る。
侵入者の死体をヴィクターと協力して始末している内に、すっかり日付は変わってしまっていた。暗い室内に差し込む朝の日差しの眩しさに目を細めながら、ミアはカーテンを閉める。
「暗殺の度にあんなに血まみれになっていて、気持ち悪くないのか?」
ミアの隣でヴィクターが眉をひそめた。嗅覚が優れた彼のことだから、妻の体に染みついた侵入者の血の匂いを嗅ぎつけたのかもしれない。
「別に」
ミアは着替えたばかりのドレスを見て肩を竦めた。
「自分の血で汚れるよりは全然いいわよ。それにしても、まさかヴィクターさんが黒曜石だったなんて。ただ者じゃないとは思っていたけど……。カフェでのあの戦い方とか、すごかったものね」
「小夜啼鳥に褒めていただけるとは光栄だな。ミアさんも素晴らしいよ。僕に媚薬を盛った時のあの手際! あれが毒だったら、僕は確実に死んでいたな。……いや、実際に一度あなたの毒で死にかけたことはあったが」
「居酒屋で会った時かしら? ごめんなさいね、あの時は相手がヴィクターさんだったなんて知らなかったから……」
のんびりと話し込んでいたけれど、ミアはすぐに自分の置かれている状況に思い当たって黙り込んだ。遠慮がちに口を開く。
「ねえ、ヴィクターさん。気を悪くしないでね? 私、所属している組織からあなたを今日中に殺せって命令されているの。その任務に失敗したら、今度は私の命が危なくなるわ」
「え……ミアさんも? 実は、僕も同じことを『キャスケット』から言われたよ」
ヴィクターは目を丸くしていた。ミアも驚きを隠せない。
(どうしようかしら……)
ミアは思い悩んだ。黒曜石がヴィクターであると分かった以上、この任務をこれ以上続けることはできそうもない。
「いっそのこと、組織にすべて話してしまおうか」
ヴィクターが言った。左手を掲げ、甲の『2』に目をやる。
「放っておけば、僕たちは呪いのせいで明日には死んでしまう身だ。組織で一番の暗殺者を失うのは痛手かもしれないけど、その代わりに任務を達成できるんだ。悪い話じゃないと判断してくれるかもしれない」
「……本当にそう思ってる?」
ミアはヴィクターの『2』に指を這わせた。
「私たち、明日には二人とも死んでしまう、って本気でそう考えてるの?」
ヴィクターの表情が曇った。
七日たっても愛のない夫婦のままだと二人は死ぬ。それが呪いの効果だ。
けれど、今の二人にお互いを想う気持ちがないとははっきりと言い切れない、とミアは思っていた。
ここ数日のヴィクターの態度や自分の心境の変化を考えてみても、自分たちの間には何らかの温かな感情が生まれ始めているのではないかと感じずにはいられなかったのだ。
もっとも、それが「愛」と呼べるものなのかはミアには未だに分からなかったのだが。
「でも、組織に掛け合うっていう方法は賛成だわ」
ミアが言った。
「ターゲットが身内だった、と話せばこの任務はなかったことにできるかもしれないでしょう?」
「ミアさん……本気でそんなことを考えているのか?」
今度はミアが黙る番だった。
黒曜石の正体はミアの夫だった。この程度の事情で夜鷹が暗殺の依頼を取り下げるとは思えない。むしろ彼女なら、面白くなってきた、と喜ぶことだろう。そして、是が非でもヴィクターを殺せとミアに念押しするに決まっている。
「だけど、ほかに方法がある?」
やっとのことでミアは口を開いた。
「やれるだけはやってみましょうよ。それでダメなら……」
ダメならどうするのだろう。その場合の対処法をミアは何も思いつかなかった。
「ダメなら二人で逃げればいいよ」
ヴィクターが冗談交じりに続きを引き取った。
「二つの組織から追われるなんてスリリングな体験じゃないか。滅多に経験できないよ」
「……それもそうね」
こんな時でもヴィクターはやっぱりヴィクターだ、と思って、ミアは少し和んだ気分になった。
(説得がダメでもきっと何とかなるわ。……私とヴィクターさんが一緒なら)
ミアは、二人の内のどちらかが明日の終わりには死んでしまう、という事実を今だけは思考の彼方に追いやることにした。
「じゃあ、行きましょうか」
「気をつけて、ミアさん」
二人は別れを惜しむように視線を交わしたあと、屋敷を出た。
****
夜鷹の屋敷に着いたミアは、女主人に事情を説明した。
「だからね、この任務は中止にしてほしいの」
ミアが話し終えても、夜鷹は眉一つ動かそうともせず、まったくの無表情を保っていた。
それどころか、ミアが女主人の部屋に入室してから話し終えるまで、重厚な黒檀の机の椅子に座ったままで、人形のように身じろぎもしない。
その様子にミアは内心で寒気を覚えていた。こういう時の夜鷹はかなり怒っていると経験から分かっていたのだ。
「あなたって意外とつまらないことを言うのね」
夜鷹は冷たい声を出した。彼女の赤い瞳には、はっきりと小夜啼鳥への失望が表れている。
「探し求めていたターゲットが自分の夫だった、っていう最高にワクワクする発見を自分の手で台無しにするなんて……。任務の放棄なんて認められないわ。暗殺者の夫婦が殺し合いをするより楽しい展開を用意してくれるなら別だけど」
「呑気なことを言わないで。だって、ヴィクターさんをこの手で殺したら私も死ぬのよ? そんな分かりきっている結末を迎えたって、夜鷹は面白くないでしょう?」
ミアは必死に夜鷹を説得する。夜鷹は「確かに楽しくない結末ね」と首を振った。
「できればもっと刺激的な幕切れが欲しいところだけれど……。何か案でもあるのかしら?」
「ないわよ、そんなもの」
ミアはため息を吐いた。
「もし夜鷹が依頼を取り下げてくれれば、私とヴィクターさんのどちらかが明後日には死体になっていると思うわ。それじゃあダメなの? 生き延びたのはどっち? ってウキウキしない?」
ミアは右手の甲の『2』を見ながら、ほとんど投げやりになって言った。夜鷹が不思議そうな顔をする。
「自分が絶対に生き残ってみせる、とは断言しないのね?」
「……そう言えたらよかったんだけど」
今でもミアは死にたくないと思っている。
けれど、黒曜石を殺せないと感じた瞬間から、彼女の心の内にかすかな変化が生まれ始めていたのだ。
小夜啼鳥として黒曜石の心臓に刃を突き立てるか、ミア・ボードマンとして呪いを利用して夫を殺すか。ミアはそのどちらの手段も取りたいとは思えなくなっていた。
間接的、直接的を問わず、今のミアはヴィクターに死んでほしくないと感じていたのである。
そんなミアの胸中を察してか、夜鷹が白けた顔になる。
「あなた、もしかしてヴィクターくんのことを……? でもムダよ。彼はあなたと同じ気持ちにはならないわ。あの人に誰かを愛せるとは思えないもの。……ということは、死ぬのは小夜啼鳥ということね。まったく面白くないわ」
「ヴィクターさんの何を知っているの?」
夜鷹のセリフに意味深長なものを感じたミアが質問した。
「わたくし、あなたとヴィクターくんが結婚することになってから、サロンの小鳥ちゃんを使って彼について色々と調べたのよ」
夜鷹はミアから視線を外さず、衝撃的なことを口にした。
「ヴィクターくんはね、母親に毒を盛られたことがあるのよ」
「え……」
呆然となるミアを尻目に、夜鷹が続ける。
「ヴィクターくんの母親はね、冷たい夫の関心を引こうと、毒入りの手料理を自分の子どもに与え、病気に見せかけたのよ。それだけじゃなくて、ヴィクターくんを熱心に看病することで、よき妻を演じようとしたみたいね」
――看病されること、他人が作った料理、それから毒物。僕が嫌いなものだ。
ミアは前にヴィクターが言っていたことの意味にやっと気づいた。彼の心の中には、母親に虐待された暗い思い出が今も残り続けているのだろう。
(私……なんてことをしてしまったのかしら……)
二日前までヴィクターはミアが使った毒に倒れていた。休養していた間、彼は悲惨な過去を思い出し、さぞや辛い思いをしていたことだろう。どうしてもっとヴィクターを思いやってあげられなかったのだろう、とミアは後悔した。
「母親の仕打ちに気づいたのか、幼いヴィクターくんはある日、家を出たわ。まあ、しばらくしたらふらりと戻ってきたのだけれど。出奔中の足取りは不明。でも彼の正体を考えれば、『キャスケット』に所属して暗殺者になる訓練を受けていたんでしょうね」
「もしかして、お母さんを殺すために……? でも、ヴィクターさんの親は確か領地で生活をしていると聞いたことがあるけれど……」
ただし、あくまでも「親」が、だ。「両親」が、ではない。ミアはヴィクターの母親が健在だったか、懸命に思い出そうとした。
夜鷹は興味がなさそうに「どうかしらね」と言う。
「分かったでしょう? ヴィクターくんは母親の悪意の犠牲になったの。そんな人が誰かに全幅の信頼を寄せると思う? 愛しても裏切られるだけだって思い込んでしまうに決まっているでしょう?」
「夜鷹……私……どうしたらいいの……?」
ミアは途方に暮れていた。道に迷った子どものように今にも泣いてしまいそうだ。
ヴィクターといた時は『ジェスターズ・ネスト』のことなどどうでもいいような気がしていたものの、こうして夜鷹の前に立つと、そんな気持ちも薄れていく。
きっと、ミアが夜鷹の手によって育てられたからだろう。組織の命令を取るか、夫を取るか。ミアは選択を迫られていた。
「あいにくと、わたくしに分かるのは事態を少し面白くする方法だけよ」
夜鷹は指をパチンと鳴らした。物陰から何人もの『ジェスターズ・ネスト』のメンバーが出てきて、ミアを取り囲む。
(囲まれていた……!? いつの間に!?)
室内の気配にまったく気づかなかったとは、自分はよっぽど弱っていたらしいとミアは愕然となる。
(何なの、この殺気は……)
ミアはメンバーが放つ異様な雰囲気に息を呑み、スカートの中のナイフにこっそりと手を伸ばす。
『ジェスターズ・ネスト』には様々な裏工作が得意な女性が揃っているが、ここにいるのは全員ミアと同じで暗殺を得手としている者たちだというのがどうにも気になった。
「こんなことになった以上、もう楽しめるのは小夜啼鳥の逃亡劇くらいしかないものね。……さあ、かわいい小鳥ちゃんたち、遊んであげなさい」
その一言を合図として、メンバーが一斉にミアに向かって飛びかかってきた。彼女たちの手には、いつの間にか武器が握られている。
「夜鷹! こんなことやめてちょうだい!」
ミアは応戦しながら叫ぶ。だが、夜鷹は澄まし顔だ。
「もちろんよ。あなたがわたくしに、面白いものを見せてくれたらね」
「どうしてあなたっていう人は、いつもそんなにめちゃくちゃなのよ!」
ミアは同胞たちを押しのけ、部屋を脱出した。後ろから追跡の足音がする。
追っ手を撒くためにミアはわざと屋敷の中をデタラメなルートで駆け回った。その間中、必死で考えを巡らせる。
(ヴィクターさんは……無事かしら?)
『キャスケット』のリーダーは夜鷹よりまともな思考回路を持っているだろう。けれど、小夜啼鳥の暗殺中止を進言したヴィクターが不興を買って、今のミアと同じように組織から追われていないとは言い切れない。
(ヴィクターさんは強いから滅多なことはないはず。でも、万が一危ない目に遭っているのなら助けにいかないと。たとえ私の命に替えてでも……)
ミアの足がピタリと止まった。
ミアは今、初めて自分の命を投げ出してもいいと思ったのだ。ヴィクターのためなら体を張ることを恐れないと思った。ミアは気づく。これこそが利己を越えた感情なのだ、と。
(なんだ……。愛って全然弱さじゃないのね)
今まで愛に対して頑なな思い込みを持ち続けていたのがバカみたいだ。今のミアは、自分が弱いなどとはこれっぽっちも思っていなかった。むしろ、ヴィクターを守るという強い覚悟が彼女の体に力をみなぎらせていたのである。
(もしヴィクターさんが追われる身になっていたとしても、私なら追っ手を皆倒せるはず)
一流の暗殺者として、ミアにはそれだけの自信があった。
だが、ヴィクターに迫っている脅威はそれだけではない。
(ヴィクターさんは呪われている。もし追跡を撒いたとしても、呪いで死んでしまえば元も子もない。でも、追っ手はどうにかできるとしても、呪いは私の力では……)
窓をこじ開け、ミアはどうにか夜鷹の屋敷から抜け出した。時々後ろを振り返りつつ、路地を早足で歩きながら、ミアは呪いの詳細について思い返していく。
『呪われた二人(生きている状態限定)は、こんな目に遭うわよ!』
(『生きている状態限定』って何なのかしら?)
ふと、疑問に思う。よく考えてみれば妙な記述だ。確か、そのあとはこう続いていた。
一、先に相手を愛した子は、術が使われてから七日後に心臓が止まって死んじゃう。
二、夫婦なのに愛がないなんてダメ。そんな悪い子たちは、二人とも術が使われてから七日後に心臓が止まって死んじゃえばいいわ。
三、夫婦なのにどっちかが取り残されるなんてかわいそう! もし片方が先に死んじゃったら、残ったほうの心臓を止めてあとを追わせてあげる。術が使われてから七日後にね。
(死んだ人をもう一度殺すことはできないから、『生きている状態限定』ってこと? でも、そんな分かりきったこと、わざわざ書かなくてもいいと思うんだけど……。……あっ!)
あることを思いついて、ミアは平手打ちを食らったような衝撃を受けた。
(上手くいけば、ヴィクターさんを呪いから守れるかもしれない……)
そうと気づけばやることは一つだった。
夫を救うため、ミアは路地を出て大通りの人混みに紛れ込む。そして、ボードマン家へと向かう道を辿り始めた。
****
「お前、まさか隠していたのか?」
『キャスケット』のアジト。自身の身に起きたことを説明したヴィクターは、黄鉄鉱に疑いの目を向けられていた。
「本当は小夜啼鳥の正体を知っていたにもかかわらず、今までは身内だから庇っていたわけじゃないだろうな?」
「違いますよ」
ヴィクターはイライラしながら答えた。頭の固い黄鉄鉱のことだから、事情を話しても簡単には信じてもらえないだろうと思っていたが、こんな疑われ方をするのは心外だ。
「初めから彼女が怪しいと睨んでいたから、結婚して近くで見張っていたんです。隠してなどいません」
ヴィクターはしれっと嘘を吐いた。黄鉄鉱は長い眉毛の下の目を険しくする。
「何をバカなことを。お前たちが結婚したのは、そんな理由によるものではなかっただろう。……だが、とりあえずは予想が当たってよかったな、とでも言っておこう。さあ、こんなところで油を売っていないで、早く家に帰って奥方を殺してこい」
「お忘れですか? 彼女を殺したら僕も……」
「もしお前が死ねば、うちの組織内ではこんな噂が立つだろうよ。『黒曜石は自らの命を犠牲にして標的を狩った英雄だ』と」
「そんな名声はいりません。僕はただ、小夜啼鳥の暗殺依頼を取り下げてほしいだけです」
「そんなことは無理に決まっているだろう。お前にできないなら他の者に任せるだけだ。その場合、お前にとってはひどく不名誉なことになるだろうよ。自分と妻の命を惜しんで任務を放棄した腰抜け、と皆の評判になるに違いない」
黄鉄鉱は挑発するように言った。怒ってはいけない、とヴィクターは拳を握って平静を保とうとする。
「どうやら、お前一人ではこの任務は荷が重すぎるようだな」
煽っても無反応だったのがお気に召さなかったのか、黄鉄鉱は眉をひそめた。
「それならば小夜啼鳥の討伐隊を結成しよう。お前もその中に入るといい。これなら、力不足と罵られることはあっても、意気地なしと罵倒されることはあるまい」
「それはそれは。お気遣いありがとうございます」
ヴィクターは皮肉たっぷりに言い返した。
(討伐隊だなんて冗談じゃない。こうなったら、表向きは『キャスケット』の意向に従っているように見せつつ、何とかして組織より先にミアさんを見つけて逃がさないと……)
自分の命うんぬんは、今ヴィクターの頭の中から消えている。彼はただ、ミアを守ることしか考えていなかった。
黄鉄鉱が討伐隊のメンバーを集めるべく、連絡員を呼んでくるようにヴィクターに命じる。ヴィクターは殊勝な顔をしてそれに従いながら、自分の心が急速にこの組織から離れていくのを感じていた。