仮面夫婦、標的を見つける(3/3)
(ここにもいなかったわね……)
中央棟を捜索したミアだったが、黒曜石を発見することはできなかった。ボードマン家に潜んでいるというのは思い過ごしだったのだろうか。
(せっかく黒曜石を仕留めるチャンスだったのに……)
ボードマン家に黒曜石がいないとなると、また街で彼の捜索をしなければならない。そう思うとミアは頭痛がしてきた。
「あら、ヴィクターさん……」
ぐったりしながら中央棟を歩いていると、ミアは夫と鉢合わせた。
「ただいま」
一体何があったのか、ミアと同じでヴィクターもどこか消耗しているように見えた。
「今帰ってきたの?」
「少し前にね。今日は大変な一日だったよ」
「私もよ」
二人の足は自然と食堂へ向かっていた。
「お茶でも淹れようか?」
ヴィクターが尋ねてくる。
(ヴィクターさんも疲れているはずなのに……)
夫の気遣いに張りつめていたものが緩んでいき、涙が出そうになった。ミアは、唐突にヴィクターに寄りかかりたくなる。右手の甲の『3』の数字を眺めた。言葉が自然と口をついて出る。
「私、あと三日は生きていられると思っていたけど、そんなに長くは持たないかもしれないわ。ひょっとしたら明日までの命かも」
「奇遇だな。僕も自分に残された時間について、同じことを考えていたよ」
ミアとヴィクターは見つめ合う。二人の間に不思議な縁が結ばれた気がした。どちらからともなく歩み寄り、相手の体を抱擁する。
(ああ……もう何もかもどうでもよくなってきたわ……)
『ジェスターズ・ネスト』のことも、黒曜石暗殺のことも、呪いにかけられたことさえ、大して重要なこととは思えなくなっている。今はただこうしていたい。夫の腕の中でゆっくりと息をしていたかった。
(今まで隠していたこと、全部喋ってしまおうかしら)
ふと、ミアの頭の中にそんな考えが浮かんでくる。
(ヴィクターさんは私の裏の顔を知っても受け入れてくれるかもしれないわ。もし私が暗殺者で、これまでたくさんの人を殺してきたと分かっても、今までどおりに接してくれるとしたら……)
突然の思いつきに突き動かされるように、ミアはヴィクターを見上げた。彼もこちらを見つめている。夫の蜂蜜色の瞳は、何か秘密めいた光を放っていた。
ミアは、もしかして彼も何か自分に言おうとしているのではないかと思った。ちょうどいいから暴露大会でも開こうかと考え、ミアは口を開く。
その時だった。室内に第三者の気配がしたのは。
使用人のものではない物々しい雰囲気に、ミアは全身の毛を逆立てる。ヴィクターから素早く離れ、ガーターベルトに仕込んだナイフに手をやりながら、辺りの様子を目だけでうかがった。
(まさか、黒曜石……!?)
気配を消そうともしないとは、大胆なことだ。だが、推測が当たっていたことにミアは得意な気持ちになる。やはり、黒曜石はボードマン家でミアを襲撃するつもりだったのだ。
「見つけたぞ!」
食堂の入り口から堂々と侵入してきたのは、冴えない風貌の男性だった。小太りで背が低く、髪は薄くなりかけている。顔立ちはどことなくネズミを思わせた。
(この人が黒曜石……?)
ミアは、かなりがっかりとした気持ちになった。彼が変装していた時は、隠された素顔はきっと美形に違いないと感じていたのに、実際はこんな美男子とはほど遠い見た目をしているとは思わなかった。
(……あら? でも、ちょっと変ね……)
ミアは、目の前の男は、居酒屋『チャビー・ベアー』で見た黒曜石よりも背が低いと気づいた。黒曜石は少なくともヴィクターくらいの身長だったはずだ。それに、体型も変装時のほうがスマートだった。
(体格が違いすぎる人物には化けられない……)
かつて夜鷹がそう言っていたことがある。つまり、この人物は黒曜石ではない。
(じゃあ誰なの? 盗人? 貴族の屋敷に泥棒が入ることは珍しくないけど……。家主がいるのに堂々としているなんて、どっちかっていうと強盗なのかしら?)
そんなふうにミアが考えていると、侵入者は聞き捨てならないセリフを口走った。
「まさか正体を隠してこんなところに潜んでいたとはな! 大人しく死んでもらおうか!」
ミアは一瞬、息をするのを忘れた。体中から冷や汗が吹き出すのを感じる。
(まずいわ……。この人、暗殺者ね! 私の命を狙ってるんだわ。こんな訳の分からない人の口から私の正体を暴かれるわけにはいかない。ヴィクターさんには、ちゃんと私の口から言いたいのに。さっさと始末しないと!)
ミアは侵入者に飛びかかろうとしたものの、あることに気づいて思いとどまった。
(……いいえ、ダメだわ。私が戦っているところをヴィクターさんに見られてはいけない。どうせ正体はあとでバラすけど、今はまだ隠しておかないと。妻が暗殺者だった、なんてショッキングな事柄に違いないもの。こういうことは時間をかけて、じっくりと話すべきよ。まずはヴィクターさんを気絶させることから始めないと……)
ミアが固まっていると、侵入者は高らかにとんでもない宣言を始める。
「さあ、覚悟しろ! 小夜啼鳥に黒曜石!」
(え……黒曜石?)
ミアは、自分の正体をバラされたことに対する動揺よりも、「黒曜石」という名前に敏感に反応した。
(この人、一体何を言っているの?)
室内にはミアとヴィクターしかいない。それに屋敷中を捜索して、不審者が潜んでいないことも確認済みだ。それなのに、一体どこに黒曜石がいるというのだろう。
ミアは反射的に辺りを見回した。その拍子にヴィクターと目が合う。
それがきっかけとなって、ミアの頭の中で何かが弾けた。これまでのヴィクターの物騒な言動や人並み外れた戦い方が、頭の中に鮮やかに蘇ってくる。
どうやらヴィクターもミアと同じような経験をしているらしく、一瞬、彼は遠い目になった。
そして、夫妻は同時に叫ぶ。
「黒曜石ってヴィクターさんのこと!?」
「小夜啼鳥はミアさんだったのか!」
二人は相手に詰め寄った。
「どうして言ってくれなかったんだ! 僕があなたのことをどれだけ探し回ったと思ってる!?」
「そんなの私だって同じよ! 標的と三カ月も夫婦として過ごしていたなんて聞いてないわ! こんなに近くにいたのは想定外よ!」
ミアとヴィクターは口論を始めた。何が起きているのか分からずに呆然としていた侵入者が「おい!」と声を上げる。
「お前たち! 俺を無視して夫婦喧嘩を始めるな!」
「うるさい!」
「今は取り込み中だ!」
ミアとヴィクターの声が重なった。ミアはスカートの中から、ヴィクターは懐からそれぞれナイフを取り出す。
「ヴィクターさん、話はあとよ。今は協力してこいつを始末しましょう」
「それがよさそうだな」
二人は一斉に侵入者へ向かっていく。侵入者は高笑いした。
「そうこなくてはな! やれるものならやってみろ! お前たちなど返り討ちに……」
続きの言葉は出てこなかった。ミアとヴィクターのナイフが男の喉を切り裂いたからだ。
侵入者が床に倒れた。すでに絶命している。ミアの服は真っ赤に染まっていたが、ヴィクターは返り血を一滴も浴びていない。
(これが黒曜石の殺し方……)
芸術的という言葉がこれ以上ないほどに似合っていた。日頃からヴィクターの所作は綺麗だと思っていたが、こんな時まで美しい身のこなしをするとは、とミアは惚れ惚れと夫を眺める。
ヴィクターが侵入者の傍らにかがみ込んだ。
(本当に死んだか確かめるために、脈を取ろうとしているのかしら?)
だが、ヴィクターは予想外の行動に出た。なんと、開いたままの侵入者の目をわざわざ閉じてあげたのだ。ミアは瞠目せずにはいられない。ターゲットにこんなことをしてあげる暗殺者がいるとは思わなかった。
ヴィクターがこちらを向いた。二人の視線が絡む。夫に見惚れていたミアは我に返った。
「それで、これからどうする?」
ボードマン夫妻の声が重なった。