【アップしました】男山教会2022年4月24日礼拝説教/『思記』
初めまして、天川裕司です。
ここではシリーズでやってます『夢時代』と『思記』の原稿を投稿して居ります。
また、YouTubeドラマ用に仕上げたシナリオ等も別枠で投稿して行きます。
どうぞよろしくお願い致します。
少しでも楽しんで頂き、読んだ方の心の糧になれば幸いです。
サクッと読める幻想小説です(^^♪
お暇な時にでもぜひどうぞ♬
【アメーバブログ】
https://blog.ameba.jp/ucs/top.do
【男山教会ホームページ】
https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/
【YouTube】(不思議のパルプンテ)
https://www.youtube.com/@user-vh3fk4nl7i/videos
【ノート】
https://note.com/unique_panda3782
【YouTubeドラマにつきまして】
無課金でやっておりますので、これで精一杯…と言うところもあり、
お見苦しい点はすみません。 なので音声も無しです(BGMのみ)。
基本的に【ライトノベル感覚のイメージストーリー】です。
創造力・空想力・独創力を思いっきり働かせて見て頂けると嬉しいです(^^♪
出来れば心の声で聴いて頂けると幸いです♬
でもこの条件から出来るだけ面白く工夫してみようと思ってますので、
どうぞよろしくお願いします(^^♪
※過去にアップしたものを再アップしております^^
【本日のメッセージ】
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=OjT9VczazQI&feature=youtu.be
【ブログ】
https://ameblo.jp/yujiteiou/entry-12740422854.html
(ブログを見てくださると聖書を閲覧できます)
子ども説教 主題と暗唱聖句
イエスさまは、全世界のすべてのひとびとに福音を宣べ伝え、救われた人びとに洗礼をさずけ、イエスさまの教えをすべて守るように命じられたイエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。・・・」
マタイによる福音書28章18,19節
前奏
招詞 ローマの信徒への手紙6章8~11節
詩 編 歌 100番(4節)
開 会 祈祷
主 の 祈り
十 戒
子ども説教
マタイによる福音書28章18,19節
こどもさんびか
すべてのひとよ[改32(1節)]
牧 会 祈祷
聖書
エゼキエル書18章30~32節(旧P1322)
エフェソの信徒への手紙2章1~6節(新P353)
説教
「「生きよ」命じられる神
~キリストと共に復活した者の生」
宮武輝彦
祈 祷
讃 美 歌 337番(1節)
みことばの交読文
コロサイ 3章1~4節
感謝のささげもの・祈祷
頌 栄 546番
祝 祷
執り成しの祈祷
報 告
讃美歌~♪
讃 美 歌 337番
https://www.youtube.com/watch?v=eCQ9MxnKMgI
1
愛する主よ わが君よ
君が恵み 受けしより
この世の富 うち捨てて
君を慕う 身となりぬ
2
初めに主が 命もて
買い給いし わが身なり
君を置きて 何人に
この真心 献ぐべき
3
生ける限り 主よ君を
慕いまつり ほめまつらん
死の手われに 臨む日も
愛する主の 御名を呼ばん
4
この目をもて 主の御顔
見まつる日に われは言わん
「初めの日と 変わりなき
この愛をば 受けませ」と
2022年4月24日 礼拝説教 中心聖句
「…イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。…お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。
エゼキエル書18章32節
しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリスト共にいかし、…
エフェソの信徒への手紙2章4,5節
はじめに
復活節礼拝日「われらの国籍は天にあり」との御言葉のもとに墓前礼拝をささげた。今、わたしたちは、一度十字架の死から三日目に復活され天の王座に着かれた、キリストがおられる天国の一市民として、キリストの命によって「生きる」。
1
「キリストの王国は、疲れ果てた者、病気の者、傷ついた者のただ中でキリストが働かれ、彼らの世話をし、彼らを助けてくださっている場所。これは慰めに満ちたメッセージです。それなのに、私たちは自分の危機と悲惨とに気がつきません。主が私にこのように憐れみ深くあられるのを見るとき、主は私の心をすっかりとらえ、私は主の御許へと馳せます。そして、そこから心にさらなる深い喜びが生じるのです。」(エゼキエル書34章16節:ルター聖書日課)。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」との主イエスの答えにとまどったニコデモは、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」(ヨハネ3章3,4節)と言った。それほどに、私たちは自分の罪と悲惨、特に「霊的死」に対して無自覚。
2
「それゆえ、イスラエルの家よ。」とは、自分の罪を父祖の罪のせいにし、その責任を他者に転嫁する者たちに、なおも、主なる神が、ご自身の契約において、神の民を呼ばれる声。「わたしはお前たち(あなたがた)ひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。」さらに主なる神は、「悔い改めよ、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。」と命じられる。始祖アダムにおける全人類の堕落において、わたしたちは罪についての連帯責任を負っていながら、個別の罪について、主は、各人の歩みを公平に裁かれる。主イエスは、ニコデモとの対話の中で、「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである」(ヨハネ3章18節)と言われた。すべての人が、罪とその束縛から解放されるただ一つの道は、一度十字架につけられ、神の裁きの死を負われた御子を信じ、キリストと共に生きる、永遠の命を得ること。洗礼は、キリストの受難と復活の命による誓約と献身の印章(ローマ6章)。
3
「お前たち(あなたがた)が犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。」とは、「肉から石の心を(取り)除き、肉の心を与える」(エゼキエル11章19節、36章26節)主なる神の御業による本当の悔い改め。主イエスが、「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることができない」(ヨハネ3章5節)と言われたとおり、ただ、聖霊の恵みによる新生と回心によって、死から命に至る、本当の悔い改め道を歩み始めること。「「わたしはだれの死をも喜ばない。お前たち(あなたがた)は立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。」主なる神は、すべての人が救われて真理を知ることを望み、特にご自身の民、教会の悔い改めを忍耐しておられる(テモテ一2章4節、ペトロ二3章9節)。
おわりに
わたしたちが、キリストの受難と復活の御業において、「神の大きな愛」を知り、各人への神の裁きを認めるとき、「以前は自分の過ちと罪のために死んでいた」と認める。キリストの王国に生きる一市民として、今日、主の愛を生き励もう。
思記〜「使徒の記」より〜
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普段、余り女の子が言わない事を言うって子は、やはり可愛いものである。存在とか、哲学とか、文学とか、創作とか、創造とか、極意とか、宇宙とか…その他まぁいろいろである(状況により、少し背伸びをして居るようにも思えるものだ。女の子・女性はもともとハイヒールで背伸びをして居る生き物だから)。
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太宰治と一度、動物園に行って見たいものである(植物園では駄目だ、動物園である)。芥川と一度、海や水族館に行って見たいものだ。面白いだろう。
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又吉直樹氏が本当に太宰治と出会ったら、もしかすると、本気で喧嘩するかも知れないね。そう言う事はよくあるのだ。俺は間違いなく太宰となら、ずっと一緒に居る場合、一度は必ず大喧嘩すると思う。それも相手の人格を否定し合う程の(意見・考えが違う等の単純な理由で)。でも必ず後で仲直りしたい。女性の場合はどうだろうか。喧嘩しないだろうか。飲み仲間になるだろうか。腰掛け程度で付き合うか。それとも本気で惚れるか。まぁ女に成った事は無いし、分からない。
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大抵、一人の男と喋っている時、女が割り込んだり絡むともう駄目である。その男か女、どちらか一人と喋らねば駄目だ。その空間を作らねば駄目だ。そんな事が良くあった。自ずと派閥が出来るからだ。もちろん人によるが、大抵の場合がそうである。
文学に経験させる事により、読者の落ち着ける許容を見出す。
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何かを断言した後に、いや何かそういう感じがするじゃないかと言うのは、何かに縋り付きたくなった時だ。
お祈りをする時は、神様に向かって、はっきりとした言葉で祈るべきである。
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発狂して罪に問われた人。でも大事な事は、その人の周りに何も無い状態、まるで無の状態の時にその人が何をするか?だだっ広い平原に一人居た時、その人がどうして居るか?これが問題である。その時に怒り狂って居る人、これなら犯罪者と呼ばれて仕方が無いかも知れない。でも平然として平和と戯れ、自然と戯れ、それを愛する人なら、それがその人の本性。そう言う見方である。
雨がドジャーーーッと思いきり降ってくれれば、全てを洗い流してくれる様で確かに爽快になる事がある。
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外国人が日本に来て、日本語でそこに集まった日本人等と喋る。これが討論なら尚更だが、そんな状態・条件で、真面な討論・議論になど成る筈が無い。普段使って居る母国語でなければ、自分の思う処を思うように細かに隅々まで、相手に伝え尽る事は出来ない筈だ(どうでもこう考えてしまう)。まだ通訳の方が良い。或いは機器に頼り、言語自動変換機でも在ってくれたら良い。日本人が日本語で話すなら、外国人にも母国語で話せる状態・条件を与えるべきだ。でなければ、平等・対等・当然の対話は成らない。「日本に来てるんだから日本語で話せよ!」なんて問答は通らない(そんなのは人への礼儀を忘れた幼稚が言う事だ)。日本人だって逆の立場なら素直にそう思うだろうに。その事への意見が非難めいて悪口に変われば、発狂すらするくせに。
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大学で皆、同じように学ぶとは、皆が夫々の環境で共に学ぶと言う事である。これが学びに於いて何よりの祝福である。皆、この事を神様に感謝せねば成らない。そして大学とは実は、皆のプライベート(日常生活)にも在るのだ。以前にも記したが、学生の大半は大学の外で学ぶのである。
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=_9qvQ5alv_Y
大学で学べた事は、誇りと言うよりも、感謝である。教授の方々と関われた事、いろいろ教わる事が出来た事、学生と触れ合えた事、友達も出来た事、詰り経験全てが糧に成る訳で、だから感謝なのである。神様に感謝せねば成らない事である。
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日本に比べて外国のエリートの方がしっくりと来て、言う事・する事に於いて納得行くものがある。何か簡単なのだ。俺にとってそうなのである。理解できる納得できると言うのはそう言う事であり、日本のエリートとか称される者達のゴチャゴチャとした理詰め・理論建て・考え方について全く共感も理解も追い付く形でしか臨めないそれに比べ、外国の彼らの行動はやはりしっくり来るものがある。合うのであろうか。昔からの事だ。外国のトップ達が述べるエリートの筈の難しい理論や行動にしても、日本のそれより道理が簡単であり、理屈が解り易く、その簡単な欲望と理想・愛・主義主観の下に為されて居る、それが繰り返されて居るようで、日本よりも簡単なのだ。俺が日本人だからか。そう思う事も果して今まで多かったが、相性の合う合わないが大きく影響して居るようにも思えるのである。キリスト教がベースに入って居る外国、そうではない日本またはアジア諸国、その違いが大きいのかも知れない。しかしそう言いながら、日本以外の韓国や北朝鮮、中国等の理屈・主義感情にしても、日本のそれよりは納得し易い、そう思う事もある。これは直感で覚えるものだ。日本人はどうも理屈っぽい。言葉尻を論う事ばかり考え(更に感情的にも成り易い)(無論全ての人ではない)、理詰め・論理の組み立て・主張を最後まで聴いて行くと、初め共感出来ても途中から脱線して行き(時には大きく脱線して行き)、結局は何にも納得出来ない、初めの物言いだけで留めて置けば良かった(なら納得出来た)とするものが果して多く、ずっとそう言うのを見て居ると、なんだか「それなりに格好を付けて更なる優越にでも浸りたいのか?」と変に疑える印象すら与えて来るのだ。下手に情報を盛り込み過ぎ、あれもこれも(無関係とも思える)理屈を並べ過ぎ、それ等を一挙に解決しよう・させようとし過ぎ、これ等もその理詰め・論理立ての窮屈・曖昧・退屈に見て取れようか。このようなコミュニケーションに於ける変妙な傾向が、おそらく九十五年頃から日本人の性質に顕著に見えて来た。どうにも理論・対話が進まない。通じ合わない。詰り理解し合えない壁を相手が造り上げて居るようで、もうその時点で会話を止める、この言動に落ち着くのである。これは日常から得たものである。その経験からこう語る。しかし又そう言いながら昔の日本に流れていた流行や風潮、その世情に生きて居た日本人の主義主張や考えや理論・理屈・理詰めそう言ったものには共感でき、理解を示し易いものがあったのだ。詰り特定の現代日本人と合わないものか。或る程度話して行けば思考の壁が出来上がり、俺の世界に付いて来れない・相手の世界に付いて行けない、そんなものがある。今はこの辺りに留める。
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昔の日本を見て居ると、どうしても第二次世界大戦前後がその境目となる。詰り戦前の映像を見て居ても、結局、二次大戦に無謀な突入をして行って、あんな馬鹿な壊滅を引き寄せ齎せ、お上の連中はその後のうのうと手の平返したように(日本の)犠牲者を見捨て、アメリカに擦り寄るのが第一の正義とし、その変わり身の速さ、蒼天成るが藻屑の如し、全く馬鹿で幼稚な戦争をしたもんだ、どんなにレトロで暖かく、優しく懐かしい涼風が吹いて気持ちが良くても、結局それ等の不味い事・悲惨過ぎるほど無様で阿呆らしい事をその頃の日本人はしてしまったのだと、そのレトロも暖かさも優しさも懐かしさも全て台無しにして仕舞える詰まらなさ、どうしようもない壁を想うのである。
https://www.youtube.com/watch?v=aKkNIzMZy2Q
『銀河鉄道999』の歌で、途切れた線路から列車が宇宙へ向けて飛んで行くあの場面。あの瞬間から、子供の夢が始まるのである。舞台を宇宙にした理由は、子供の夢が無限である事を表す為だろう。
【日本キリスト改革派 男山教会】
https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/
【最寄りの教会検索用】
https://www.rcj.gr.jp/
Table Caffe〜
榎本保郎牧師 ミニ説教19 「イエス・キリストを身近に」
https://www.youtube.com/watch?v=MCyjy8BuIIw&t=2s
「SEIZE THE DAY / 今を生きる」
https://www.youtube.com/watch?v=A7Aobi9nmWM
イエス・キリストの生涯をたどる旅 II (1)
https://www.youtube.com/watch?v=vPB9SBXalPA
ハーベスト・タイム・ミニストリーズ
https://www.youtube.com/@HarvestTimeMin
不思議のパルプンテ
https://www.youtube.com/@不思議のパルプンテ/videos
(お暇な時にぜひどうぞ)
少しでも楽しんで頂き、読んだ方の心の糧になれば幸いです。
サクッと読める幻想小説です(^^♪
お暇な時にでもぜひどうぞ♬