stage:スコルピオン伯爵家別宅(地下牢)
現在第120代目の当主が継いでいるスコルピオン伯爵家別宅の地下牢は、過去に実際に使われていた。
黒ずんだ石の壁から、埃と土の匂いに混じって遥か昔の血の錆びたような臭いが漂っている。
蝋燭に照らされた一角、鉄格子の向こうに人影があった。
両手首を壁に貼り付けにされていて、体中の傷から流れる血が足元で黒く溜まっている。
しかし、そのわりには、すやすやと安らかな呼吸が聞こえていた。
「まさか……この状態で寝てるの?」
「起きてるよ」
アリベルがそっと窺うと、項垂れていた頭が持ち上がって黒い瞳がアリベルと、隣の車椅子に乗っているソフィアを捉えた。
「お前が、俺を呼んだ奴?」
アスピシオンでは珍しい濡れ羽色の髪と光を吸い込むような闇色の瞳。
数日間監禁され、仲間を殺された私兵団の私情による拷問をされていただろうに、その異邦人は至って軽い口調だった。
(『呼んだ奴』……ってことは、自分が招かれたことは理解してるみたいね)
アリベルは異邦人の言葉に頷くべきか躊躇した。
ソフィアに招かれたせいで、この異邦人は今の状態に陥ってる。
傷付けられて恨んでいる可能性もある今、後で当然教える事だとしても安易に肯定すべきではない。
そう考えて、アリベルは黙っていた。
一瞬沈黙が流れると、「どうでもいいけど」と異邦人が呟いて体を揺らす。
壁に括りつけられた手枷が擦れて、重い金属の音がした。
「この手枷、外してくれよ。いい加減肩が凝ってきた」
「ダメよ!あんたが危険人物じゃないってわかってから」
「ああ、そう」
アリベルが身も蓋も無い言い方をしても、異邦人は気にする様子は無かった。
異邦人が少し腕に力を込めると、バキリと音がして手枷が石の壁から外れる。
腕が自由になると、怪我も流れる血も気にせずに、普通に歩いて鉄格子に手をかけた。
ポキン、と木の枝を折るようにして1本折り曲げると、開いた隙間からそのまま檻の外に出て来た。
「今の……金属の檻よ!い、一体どうやって壊したの!?」
「さぁな?劣化してたんだろ」
アリベルはソフィアを庇って異邦人の正面に立ち、メイド服に腰に差していた剣を抜いた。
異邦人は剣の先端が首に刺さりそうな距離に近付いても、平気な顔をしていた。
「お前じゃないなら、後ろの子が呼んだとか?」
「はい、そうです」
ソフィアはアリベルの腕を抑えて剣を下げさせつつ、異邦人の言葉に頷いた。
「あれ?お前、目が悪いのか?」
「ええ、実はそうなんです」
ソフィアは瞳を閉じたまま目蓋を一度揺らした。
初対面の異邦人に侮られないように隠そうかと思ったが、この様子だとある程度は腹の中を晒した方がやりやすそうだとソフィアは判断した。
「勝手にソフィアに近付かないで!」
「アリベル、私が呼んだんです。まずは話を聞いてもらいましょう」
ソフィアはアリベルを落ち着かせて、異邦人の正面に向き合った。
アリベルは警戒して険しい表情をしていたが、ソフィアの言う事を聞いて身を引いて、服がボロボロになった異邦人の体がソフィアの目に入らないようにマントを投げつけた。
「私は、この世界の王の候補になってしまいました」
「世界の王?それは、何というか、大変そうだ」
「ええ、私の味方はアリベルだけです。世界中の人間は敵になってしまいました」
「へぇ、規模がデカすぎてウケるな」
「ですので、私とアリベルを守ってください」
ソフィアが言うと、異邦人は小さく唸りながら頭を掻いた。
話を飲み込めずに困惑しているよりも、面倒事を押し付けられて別の人間に押し付けられないか考えている様子だった。
「その仕事って、いくら?」
呑気な異邦人の問いにソフィアは答えようとしたが、痺れを切らしたアリベルがソフィアの前に立ち塞がった。
「金額の問題じゃないわ!この世界で異邦人の権利は認められてないんだから、ソフィアが助けなかったら殺されて豚の餌にされてもおかしくないのよ」
「口の悪い姉ちゃんだなぁ……」
「アリベル、少し落ち着いてください」
ソフィアは、異邦人とアリベルのケンカが始まらないように2人の間に割って入った。
異邦人は何を言われても怒った様子はないが、血の気が多いアリベルが手を出してしまうかもしれない。
「この世界でのあなたの衣食住は保証します。贅沢は出来なくとも、不自由はさせません」
「いいよ、ウチのモットーは清貧だから大丈夫」
「そして、もしも私が神王になれたのなら、あなたの願いを何でも1つ、叶えることができます。元の世界に帰ることも、大金でも」
「うーん……それってさぁ……」
ソフィアの言葉を聞いて、異邦人の瞳からすっと光が消えた。
「例えば、俺以外の狩刃の人間を全員殺すって言う願いも、あり?」
異邦人の言っている意味を、全ては理解できなかったがソフィアは頷いた。
「ええ、石の力をもってすれば可能でしょう」
神王になって賢者の石の力を使えば、人を殺すなど訳はない。例え異世界の人間でも、望めば何人でも殺すことができる。
ソフィアのが頷いたのを見て、異邦人が満面の笑顔を見せた。
「よし、乗った!えっと、お前は……」
「私はソフィアと申します」
「何だ?偽名か?」
ソフィアの名乗った時の僅かな違和感に気付いたのか、異邦人はすぐに見抜く。
その鋭さに驚いたのを隠して、ソフィアは微笑んで異邦人の手を握って取引成立の握手をした。
「表に出られない身分なので。どうぞよろしくお願いします」
「いいよ。俺は狩刃家三男の狩刃ルカ。よろしく」
ソフィアの細い腕を気遣いつつもぶんぶんと激しく握手をする異邦人は、18人を殺したとはいえ悪人には見えなかった。
首の皮一枚繋がったとソフィアは胸を撫で下ろす。
「そして、あの子はアリベルです」
「よう、アリベル!」
「うるさい。馴れ馴れしく呼ばないで!」
アリベルはまだ異邦人を受け入れる気になれず、鋭い声を出してソフィアを庇うように抱き締めた。