吟遊詩人の秘密の約束
――これは、リヴェラと吟遊詩人トリヴィアスの話である。
孤児院から引き取られたリヴェラは、トリヴィアスの弟子となり、日々吟遊詩人としての修行に励んでいた。
すっかり大人になったリヴェラは、冬のある日トリヴィアスに散歩をしようと言われ、二人で森の中を歩いていた。道を抜けた先には小さな湖があり、トリヴィアスはここで休もうと言った。
「静かでいいところですね、お師匠様」
「そうだな」
辺りに人の気配はなかった。真っ白な雪の上に着いた足跡はリヴェラとトリヴィアスのものだけだ。木の枝から時折雪の塊がばさりと落ちる音がする他は、とても静かだった。
「リヴェラ、今日はお前に大事な話がある」
「何ですか?」
キョトンとしているリヴェラに、トリヴィアスは自分の竪琴を差し出した。
「これは……?」
「お前を孤児院から引き取った時に話したことを覚えているか? 私は自分の跡を継ぐ者を探していると」
「はい、覚えてます」
不安そうな顔で、リヴェラは頷いた。
「今日までお前はよく私についてきてくれた。私はお前にこの『魔法の竪琴』を譲ろうと思う」
リヴェラはしばらく無言のまま、じっとトリヴィアスの顔を見ていた。彼女と出会った頃からトリヴィアスは既に老人だったが、近頃はますます老いが進んでいた。指が動かせなくなり、声もあまり出なくなったので、ここ数年はリヴェラが代わりに歌っていた。
皺だらけの手で差し出した竪琴を、リヴェラはようやく受け取る。
「お師匠様。ありがとうございます」
「うむ。お前も知っての通り、この竪琴には不思議な力がある。お前ならば、この力を正しく使ってくれるだろう」
「お師匠様の期待に応えるよう、努力します」
竪琴を抱きしめるように持っているリヴェラを、トリヴィアスは穏やかな笑みを浮かべながら見ていた。
「リヴェラ、お前にもう一つ、伝えなければならないことがある」
「はい」
トリヴィアスは遠くを見つめながら息を吐いた。長い白髭から白い息が煙のように伸びた。
「私は、転生者だ」
その言葉を聞いたリヴェラは、トリヴィアスの言葉を聞き違えたのかと思った。
「……え? どういうことですか?」
「言葉の通りだよ。私は前の世界で死に、この世界に転生したのだ。だが私は他の転生者とはどうやら少し違っていたようだ。なぜなら私の身体は普通の人間ではなく、魔法使いだったのだ。しかも私の身体には持ち主の魂が同居していた」
ポカンとしているリヴェラに、トリヴィアスは話を続ける。
「彼は……『本物のトリヴィアス』は私を追い出さなかった。そして私に魔法の扱い方を教えた。彼は私に、転生者に乗っ取られて苦しむ人が他にもいる、だからお前は彼らを救えと言った。それがお前を身体から追い出さない条件だと。私は彼の言うままに、この魔法の竪琴を作り上げた。そして吟遊詩人となり、王国を旅するようになった。転生者に乗っ取られた者を救う為に」
リヴェラは無言だった。トリヴィアスの告白は、リヴェラが想像もしていなかったことだった。だが彼が何故転生者の魂を送る旅に出たのか、ようやく今その理由を理解できたのだ。
「私はずっと……一人で旅をしていた。だが、長生きと言われる魔法使いの身体でも、さすがに永遠に生きていくことはできない。もう一人のトリヴィアスは、命の火が消えつつあるから後継者を探せと言った。その時に出会ったのが、お前だった」
トリヴィアスは目を閉じる。彼の脳裏に浮かんだのは、ボサボサの黒髪につぎはぎだらけの服を着て、顔も薄汚れている幼いリヴェラの姿だ。
リヴェラは親に捨てられ、孤児院に引き取られた。まだ三歳にもなっていない頃で、親の記憶があった彼女は家に帰りたいと何度も泣いていたという。少し大きくなると今度は家出を繰り返すようになった。子供の足では遠くへは行けない為、当然すぐに連れ戻される。そうしているうちに、彼女はどんどん自分の殻に閉じこもるようになった。
「私が孤児だったから……?」
「それもあるが、お前を引き取ったのは不思議な巡りあわせだった。私はあの時お前に出会い、何故かお前を放っておけないと感じた。お前を引き取った後、初めてお前の歌を聴いて驚いたよ」
トリヴィアスがリヴェラを引き取った後、まずは彼女に簡単な歌を教えた。リヴェラの才能は天性のものだった。すぐに歌を覚え、竪琴もあっという間に弾けるようになった。
「私はお前を一人前の吟遊詩人に育て上げると、その時自分に誓ったのだ。これは私の使命でもあると」
「……お師匠様が何者でも、私にとっては大事な人です。私はお師匠様に引き取ってもらったおかげで、自分の生きる道を見つけることができたんです。お師匠様のしてきたことも、全て私が引き継ぎます」
リヴェラは顔を上げ、真っすぐに師匠の顔を見た。
「その言葉を聞けて安心した。では早速、リヴェラには初仕事をお願いしよう」
「今からですか? いいですけど、どこへ行くんです?」
首を傾げるリヴェラを、トリヴィアスはずっと笑顔で見つめている。
「場所はここだ。リヴェラ、お前の初仕事は私の魂を送ることだよ」
全てを察したリヴェラは、竪琴をぎゅっと胸に抱き、首を振った。
「嫌です」
「やるんだ、リヴェラ。私は長生きをし過ぎた。私の命はもうすぐ尽きる。お前も分かっているはずだ」
「嫌です」
リヴェラは首を振り、同じ言葉を繰り返した。その声は震えていて、瞳には涙が浮かんでいた。
「いいか、リヴェラ。私の魂をお前が送るんだ。それが私の竪琴を受け継ぐ者の使命でもある。心配しなくていい、私は新たな所へ行くだけだよ」
「……私はまた一人になるの? お師匠様、私を置いていかないで」
リヴェラはとうとう子供のように泣き出した。
「リヴェラ。泣くんじゃない」
トリヴィアスは細かく震える指を差し出し、リヴェラの涙を拭った。
「お前には大切な使命がある。その竪琴で多くの人を救いなさい。一人で何もかもやろうとしないで、誰かを頼りなさい。きっと多くの人たちが、お前を助けてくれるだろう」
しゃくりあげながら、リヴェラは何度も頷いた。
「いいかい? やり方は既に学んでいるはずだ。後は心を落ち着けて、見送りの歌を歌うんだ」
リヴェラは袖で乱暴に涙を拭い、深呼吸をした。そして竪琴を構え、指を弦にそっと添える。
彼女の美しい旋律が、音の風になってトリヴィアスに届いた。彼女の声が子守唄のように、トリヴィアスの耳を癒した。
やがてトリヴィアスの身体が青白く光り、彼の身体から魂が出てきた。
(さよなら)
涙をこらえ、リヴェラはトリヴィアスの為に歌った。
光が消え、リヴェラは歌うのを止めた。そこに残されていたのは、もう二度と動かないトリヴィアスの身体だった。
彼の「長生きをしすぎた」という言葉に嘘はなかったらしい。彼の身体を動かしていたのは、トリヴィアスの精神力のみだった。トリヴィアスの魂が出て行き、彼の身体は役目を終えた。
リヴェラは湖のほとりに彼の墓を建てることにした。彼の身体を埋め、小さな墓標を立てた。
(冬が終わり春になったら、建国記念祭が始まる。今年は一人だけど、行こうかな。今は人が多くて賑やかなところへ行きたい)
リヴェラは新たに一人で旅に出ることにした。目的地は王都ガルシアだった。
――リヴェラの過去を聞いた奈緒は、黙り込んだ。
「だから、私はあなたを送らなきゃいけない。転生者に乗っ取られた魂を……いえ、行く場所を無くした転生者を、正しい所へ見送る為に」
「……いつから、気づいてたの?」
ようやく奈緒が言葉を発する。
「あなたと初めて会った時かな」
リヴェラとアリシアが二人で話した時、リヴェラはアリシアに出身地を尋ねた。その時、アリシアの目が泳いだのを見て、彼女が転生者であると気づいた。それは殆ど勘に近いものであった。
「知ってたなら、さっさと私を追い出せばよかったのに」
奈緒がふっと笑う。
「そうしたかったけど、あなたの本性を掴めないと、あなたを引きずり出すのは難しくて」
「なるほどね。でも残念だけど私はアリシアに戻るから」
「あなたはもうアリシアには戻れないよ。みんなあなたがアリシアじゃないことを知ってしまったしね」
「そんなこと、どうとでも言えるでしょ。お父様だって昔のアリシアより、今の私の方が好きだもの」
「でもメルフィナ様は、本当の妹に戻って欲しいと願ってる」
再び奈緒は鼻で笑った。
「あの女。私に勝てないからって」
「違う。メルフィナ様はたった一人の妹を取り戻したいだけよ。私にはきょうだいがいないから分からないけど、それが姉妹ってものなんじゃない? あなただって分かってるでしょ? お姉さんは、あなたのことが大好きだったはず」
奈緒の瞳に動揺が浮かんだ。
「な、そんなはずない……お姉ちゃんは、お姉ちゃんは……」
(あれ? お姉ちゃんはそんな人じゃない。そうだよ……お姉ちゃんはいつも優しかった。私をいつも褒めてくれた)
「奈緒はいつも明るくていいね」
「奈緒は友達が多くて羨ましいな」
「奈緒、いつも仕事頑張ってるね。奈緒は頑張り屋だから」
奈緒の脳裏に姉の笑顔が浮かんだ。嫉妬に狂っていた頃は何故か思い出せなかった。振り返ってみれば、姉はいつも奈緒のことを可愛がっていた。
「なんで……なんで忘れてたんだろう? お姉ちゃんは、いつも私の味方だったのに」
奈緒はポロポロと大粒の涙をこぼした。
「アリシア様を、メルフィナ様に会わせてあげて」
リヴェラが優しく語りかけると、アリシアは涙を浮かべたまま頷いた。
――大広間の中で、リヴェラと奈緒の魂が大きく光り、その場にいた人々は眩しさで目を閉じた。
ライナードがようやく目を開けると、そこには魂はなく、リヴェラ一人が立っていた。
「リヴェラ!」
真っ先にライナードがリヴェラに駆け寄る。リヴェラはライナードに、にっこりと微笑んだ。
「終わりましたよ」
その言葉に弾かれるように、メルフィナは床に倒れるアリシアの元に駆け寄る。
「アリシア、アリシア……」
メルフィナはアリシアの頬を撫でながら、何度も声をかけた。
「メルフィナ様、アリシア様はじきに目を覚ますでしょう。心配はいりません」
リヴェラが声をかけると、メルフィナはようやくホッとしたように表情を和らげた。
ダルシオンはハッと気を取り直し、アリシアに近寄った。
「アリシア嬢を今すぐ別室に運ぼう。私が彼女を連れて……」
手を伸ばそうとしたダルシオンを、メルフィナは睨みつけた。
「私の妹に触れないでくださいませ!」
大広間にメルフィナの声が鋭く響き渡る。メルフィナがこのように声を荒げるのは初めてだ。ダルシオンは戸惑い、その場から動けなくなった。
「僕達が運ぼう。ユアン、手伝ってくれ」
「分かった」
ライナードとユアンがアリシアを二人がかりで抱え上げる。
「ライナード様、ユアン様。よろしくお願いいたします。私も一緒に参ります」
メルフィナがアリシアを抱えた二人と一緒に部屋を出て行くのを、周囲の人々はさっと道を開けて彼らを通した。ダルシオンは呆然としたまま、彼らの後ろ姿を見送った。




