嫌な噂
リヴェラの姿はこの日、町の酒場にあった。
用事が無ければ自由にしていいとライナードに言われているが、彼はリヴェラが町の安い酒場で歌うことにあまりいい顔をしない。ライナードは貴族にリヴェラの名を売ることを諦めていないのだ。それを格好も化粧も違うのだからばれないだろうと、リヴェラは押し切った。リヴェラはそもそも、上流階級向けの吟遊詩人になろうとは思っていない。彼女の居場所は最初からこの雑多な酒場や、町の広場にあるのだ。
それでも念のため、リヴェラは少しだけ変装をすることにしている。黒髪を隠すために髪をまとめ、スカーフで頭を覆って隠した。気休めに近いが、少なくとも街を歩いている限りは目立つ心配がなさそうだ。
今日もいくらかの銅貨を客からもらい、リヴェラは店のカウンターに座る。彼女の本当の目的はここからだ。顔なじみの酒場の主人に声を掛け、リヴェラはエールを一杯もらう。
「ありがとう。ねえ、何か最近面白い噂はない?」
彼女の大事な仕事の一つ、情報収集だ。町の客は飽きっぽく、古いネタは嫌がられるので常に新しい話を探さなければならない。今は建国記念祭の真っただ中なので、新鮮な貴族のゴシップが聞き出せるいい機会なのだ。
「リヴェラが喜びそうなネタをちょうど今日、仕入れたばかりだよ」
主人の男はリヴェラにニヤリと笑う。
「どんな話?」
「……今回の話はでかいネタだよ。ガルシア中に広まるのも時間の問題だろうね……なんたって王の庶子に関係するネタなんだから」
「王の庶子?」
平静を装って尋ねるリヴェラだが、内心はどきりとしていた。
「王太子の婚約者がいるだろう? 王の庶子があの婚約者と深い仲だって噂だ。なんでも王の庶子は頻繁に、婚約者がいる屋敷に通っているらしい」
「……それ、本当なの?」
ライナードがウィンドグレース家の屋敷を訪ねたのは、間違いのない事実だ。そこにはリヴェラも同行していたのだが、リヴェラの存在はなかったことになっているようである。アリシアのことで屋敷を訪問したことが、逆に二人の仲を誤解されるはめになってしまったようだ。
(……でも頻繁にだなんて。ライナード様は二度訪ねただけ。おまけに私も一緒だったのに)
噂とは恐ろしいものである。尾ひれがつき、事実でないことがまるで本当にあったことのように広まっていく。リヴェラはその噂を広める立場なので、そのことをよく知っている。だからこそリヴェラは、真偽不明の噂は扱わないように気をつけていたつもりだ。
(だけど、私が広めた噂だって、本当のところはどうだったかなんて分からない……)
噂を扱う者として、複雑な思いを抱えながらリヴェラは主人の話を聞く。
「本当かだって? さあね、俺には分からんよ。だがこんな面白いネタ、他の吟遊詩人も放っておかんだろうね。今ごろ広場で早速歌ってるんじゃないか? ほら、いつも広場にいるあいつだよ」
リヴェラはその瞬間、背筋がゾクリと冷えた。なんといっても今は建国記念祭の真っただ中だ。ウィンガルド中から多くの旅行客がやってきている。広場の吟遊詩人が歌えば、それを多くの者が耳にするはずだ。
(まずいわ、噂が国中に広まる)
「……でもいくらなんでも、王の庶子が王太子の婚約者に手を出すなんて、あり得ないんじゃない?」
主人はガハハと大声で笑った。
「あの男は王の愛人の子だろ? いつもすました顔をしてるが、腹の中じゃ王太子のことをどう思ってるか分かったもんじゃない。王太子の婚約者を奪ってやろうとでも考えていたのかもな」
リヴェラは苦笑いを返しながら、まずいエールを喉に流し込んだ。王太子の婚約者と、異母兄との噂は町の人々にとって魅力的なゴシップになるだろう。
「ありがとう、面白い話だった。私はもう少し他の酒場を回ってくるわ」
「もう帰るのか? 他にも面白い話があるんだが……」
「また後で聞かせて。それじゃ、またね」
リヴェラはそそくさと酒場を出た。外はもう日が傾いていて、もうじき夜になる頃だ。夜になると中央広場の芸人達は仕事を終えるが、この時間ならまだ芸人達がいるはずだ。リヴェラは中央広場へと急ぐ。
広場に到着したリヴェラは、いつも同じ場所で歌っている吟遊詩人を見つけて近づいた。吟遊詩人は中年の男で、歌も竪琴も決して上手いとは言えないが、目立つ場所を陣取っているせいかそれなりに聴衆はいた。彼は普段からここを占有しているので、リヴェラのような新参の吟遊詩人は広場で歌うことができない。
(今日も下手くそ)
心の中で悪態をつきながら、男の歌をじっと聴いていた。曲が終わり、パラパラと拍手が起こった後、男は新曲だと言って別の曲を歌い始めた。
それはライナードとメルフィナのことを歌ったものだった。歌の内容は、ライナードとメルフィナは道ならぬ恋に溺れていて、二人で駆け落ちをしようとしているというだいぶ誇張されたものだった。
「本当なのかしら?」
「ライナード様は独身でしょう? きっとメルフィナ様のことを陰で想っていたに違いないわ……」
「おかしいと思っていたのよ。あんなに素敵な方なのに女性の噂ひとつないんだもの。駆け落ちを考えるほど、思い詰めていたのね……」
歌を聴きながら、ひそひそと勝手な憶測をしている女達がいた。リヴェラは女達を冷たい目で見ながら、静かにその場を離れた。
(早くライナード様に知らせないと)
人混みをかき分けながら、夕暮れの中リヴェラは屋敷へと急いだ。
♢♢♢
夜になり、ライナードとユアンはようやく屋敷に戻ってきた。
「お帰りなさいませ。ライナード様、リヴェラ様が至急話したいことがあるとおっしゃっておりますが」
出迎えたメイドのニーナがライナードに伝える。
「リヴェラが僕に話?」
ライナードとユアンは顔を見合わせる。
「ライナード、すぐにリヴェラを呼んだ方がいいな。あの女がお前を呼び出すなんて、何かあったに違いない」
「そうだね。ニーナ、リヴェラを一階に呼んでくれるかい?」
「かしこまりました」
ニーナは頭を下げ、すぐにその場を離れた。
部屋の中は暖炉の炎がちらちらと揺れ、ぼんやりと暖かい光が辺りを照らしている。暖炉の前に置かれた大きなソファ。テーブルの上にはニーナが淹れた暖かい紅茶が置かれ、テーブルを挟んでライナードとユアン、それとリヴェラが向かい合っていた。
「……そんな噂が?」
リヴェラから話を聞いたライナードは眉をひそめ、ユアンの顔をちらりと見た。ユアンはライナードよりも更に険しい表情を浮かべている。
「ご存知じゃなかったんですか?」
「いや、初耳だよ。僕達は今日、朝から明日の馬術大会の準備で闘技場に行っていたんだよ」
「馬術大会?」
リヴェラが尋ねると、ライナードは頷きながら説明を始めた。
「そうだよ。毎年騎士団が開催していて、騎士が馬術を競ったり、馬上試合の演技をしたりするんだ。大会には王族も招待されていて、陛下を始め、王太子とメルフィナ嬢も来る予定だ。僕は出ないけど、ユアンが出場するんだよ。ユアンは馬術の名人だからね」
ユアンは腕組みをしながら頷いた。
「ああ。俺達は朝から晩まで闘技場にいたが、そんな噂が流れている様子はなかったな。騎士団ではまだ知る者がいないということだろう」
「町の酒場から聞いた噂か……」
「しかも広場の吟遊詩人が歌っていたんだろう? 明日にはもっと広まるぞ。王宮に噂が届くのも時間の問題かもしれない」
ライナードはユアンの話を聞いているのかいないのか、顎に手を当てながらじっと前を見つめていた。
「ライナード? 聞いてるのか?」
「え? ああ、ごめん。王宮に僕の噂が流れるのは良くないね」
ハッとしたライナードは無理矢理笑顔を作った。
「……一体誰が噂を流したんでしょうね」
リヴェラは独り言のように呟いた。ライナードとメルフィナが会っていたことを知っている人物は、ウィンドグレース家の屋敷にいた人物か、サージャー家の屋敷にいた人物か、そのどちらかしかない。
「うちの使用人が噂を流すとは考えられないけど、念のため彼らから話を聞く必要があるね」
「そうだな。通いの使用人だけでなく、ニーナやサムにも話を聞いておこう……俺はニーナとちょっと話してくる」
ユアンはさっと椅子から立ち上がると部屋から出て行った。彼らの動きの速さにあっけに取られているリヴェラに、ライナードは笑みを向けた。
「リヴェラ、教えてくれて感謝するよ。君が城下町に行かなければ、僕はこのことを知らずにいた」
「いいえ。でも……私が町で歌うことに、少しは意味があったでしょ? 町は情報の宝庫ですから」
ライナードは苦々しい笑みを浮かべたまま、カップを口に運んだ。
「参ったな……確かに、君の言う通りだ。でもリヴェラ、多少見た目は違うとはいえ、どこで誰が見ているか分からないんだ。少なくともアリシア嬢のことが片付くまでは、あまり目立たないで欲しいな」
「分かってます。だから、馴染みの店にしか行かないことにしてます」
「仕方ないね……ところでリヴェラ、明日の馬術大会だけど、良かったら君も来てくれないかな?」
「私が?」
リヴェラは紅茶に伸ばした手を止め、ライナードに目をやった。
「さっきも話したけど、大会には王太子とメルフィナ嬢も招待されてる。他にも多くの貴族が見に来ることになってるから、ひょっとするとアリシア嬢も来るかもしれないんだ」
「ああ……そうですね。確かに」
「王太子とアリシア嬢が、こっそり会うかもしれない。転生者であると気づかれる前に、アリシア嬢は王太子との婚約をなんとしても叶えたいはずだ。君に疑われた以上、アリシア嬢ものんびりはしていられないと思う」
「そうですね……でも私が現地にいることがアリシア嬢に知られたら、面倒なことになりそうですけど」
ライナードは頷くと、ぐいっと身をリヴェラに乗り出した。
「だから、申し訳ないけど君にはまた変装をお願いしたい。衣装はこちらで用意する」
「またですか? 別にいいですけど……」
面倒臭い、と顔に書いてあるリヴェラを見つめながら、ライナードはにやりと笑った。
「ごめんね。でもその方が動きやすいだろうから」
何かを企むような顔で、ライナードはリヴェラに微笑んだ。




