吟遊詩人とある男の出会い
王太子とメルフィナの婚約破棄事件から、ひと月ほど前のこと。
ここはウィンガルド王国にあるグラセア領。中心部にはウィンガルドの王都があり、王宮の周囲は城下町が広がる。通りの一角にある一軒の小さな酒場は、今夜も多くの客で賑わっていた。
酒場の片隅にある椅子に腰かけ、竪琴を脚の上に乗せて演奏しているのは、吟遊詩人のリヴェラだ。彼女は王国各地の酒場を回り、竪琴を弾きながらその時々のゴシップなどを歌にして客を楽しませていた。
――見事なカツラが宙に舞う
カツラを追いかけ、伯爵は急いで馬に乗ろうと
馬は伯爵を置いて駆け出し、伯爵は馬を追いかけ――
客たちは大喜びでリヴェラのふざけた歌を聴いていた。彼らは酒に酔った顔で拍手を送ったり、手を叩いて笑ったりしている。彼女が歌うのは大体この国の貴族や王族についてだ。客たちが最も喜ぶのは貴族をこき下ろすような歌である。酔客はリヴェラの歌を肴に、浴びるようにエールをあおる。
客の中に、一人だけ雰囲気の違う男がいた。帽子を深く被り、首にマフラーを巻いて口元を覆い、顔をあまり見せないようにしていた。他の客と同様に男もリヴェラの歌を聴いていたが、彼は歌の中身よりも彼女の演奏に心を奪われていた。
竪琴は片手で抱えられるほどの大きさで、多くの弦が張ってある。リヴェラはその弦に両手で挟むように指を添え、なめらかな動きで弦を撫でるように弾く。その細い指の動きは美しく、艶のある黒髪がさらりと揺れた。
男がじっと見ていると、リヴェラはその視線に気づいたかのように男を見返した。紫色の透き通るような瞳で、口元にわずかに笑みを浮かべ、貴族を笑いものにする歌を歌いながらリヴェラは男を見ていた。
リヴェラが歌い終えると、客からぱらぱらと拍手が起こった。リヴェラは椅子から立ち上がって一礼し、木の器を持って客のところへ行く。客たちはそれぞれ器に少しの金を入れていき、リヴェラはお礼を言いながら客と挨拶を交わしていた。
「グラセアに来るのは一年ぶりか? リヴェラ。」
「そうなの。しばらくグラセアに滞在するつもり。また歌いに来るからよろしくね」
「良かったよ、リヴェラ!」
「ありがとう。また聴きに来てね」
笑顔で客と話していたリヴェラは、最後に帽子を被った男の席に来た。男は一人で来ているようだが、テーブルに置かれたエールは殆ど減っていなかった。
「ずっと見てましたよね? 私のこと」
男が顔を上げると、リヴェラがニコニコしながら立っていた。リヴェラは足元まで覆うゆったりした長いローブを着ていて、腰に細いベルトをしている。左手で竪琴を抱えたまま、右手に持っていた木の器をテーブルに置いた。器には多くの銅貨が入っていた。
「上手だったよ」
男は胸元を探り、小さな袋を取り出すとそこから金を取って、じゃらりと器に金を入れた。
「ありがと……」
礼を言いながら器に目をやったリヴェラの言葉が止まる。器には大銀貨が二枚も入っていたのだ。大銀貨一枚あれば城下町で豪華な食事をし、良い酒をたらふく飲んでも余るほどの額だ。それを二枚も入れたこの男を、リヴェラは警戒の表情で見た。
「……あなた、何者?」
こわばった顔で尋ねるリヴェラに、男は目を細めた。顔の殆どが隠れているが、グレーの瞳だけは見えた。皺のない目元からしてまだ若者と思われた。
「僕が何者か知りたいなら、僕と一緒に来て欲しい」
リヴェラの顔が険しくなる。
「……悪いけど、そういう商売はしてないのよね」
男はリヴェラの言葉を聞き、プッと吹き出した。
「変な意味じゃないよ。僕は二階に部屋を取っているから、そこで話を聞いて欲しいんだ」
リヴェラは警戒心でいっぱいの顔で男を睨んだ。
「何で?」
「理由は向こうで話すよ。君がもっと金を稼ぎたいなら、僕の部屋に来るといい。二階の一番奥、左側の部屋だ。待ってるからね」
意味ありげな視線をリヴェラに送り、男は椅子から立ち上がると酒場の奥へ行った。
「……何なの? あいつ」
リヴェラは呆然と男を見送った。普段なら男からの誘いなど無視するところだが、若いのに大金を惜しげもなくリヴェラに渡すあの男の正体が気になるのは確かだ。
(相当な金持ちなのは間違いない。顔を隠しているということは、見られたらまずいほどの大物……? だとしたら、護衛もつけずにたった一人で酒場にいるなんて)
リヴェラの好奇心は抑えられそうにない。
(確か、金を稼ぎたいならって私に言ってた。あの男は私に仕事を頼みたいということ?)
リヴェラは思い切って、男の部屋を訪ねることにした。
♢♢♢
男に言われた通りに酒場の二階へ上がり、一番奥の左側の部屋の前に立ち、リヴェラは緊張気味にドアをノックした。
少しするとドアが開き、さっきの男が顔を見せた。
「来ると思ったよ。さあ、中へどうぞ」
緊張を浮かべたまま、リヴェラは部屋に入った。酒場の二階にあるこの部屋は宿屋として使われているので、部屋の中にはベッドやテーブルなど基本的な設備が揃っていた。とは言え豪華な部屋とは程遠く、あくまで簡易的な宿泊所といった雰囲気である。
「そこに座って」
男に促されるまま、リヴェラは椅子に近づき、持っていた鞄をどさりと床に下ろした。そしてもう片方の手に持っていた、持ち手つきのケースをそっと傍らに置いて、椅子に座った。
男はようやく帽子を取り、首元に巻いていたマフラーを外し、リヴェラにその顔を見せた。
「自己紹介しよう。ウィンガルド王国騎士団、第二騎士団のライナード・サージャーだ」
肩の辺りまで伸びた銀髪と、少し長めの前髪から覗くグレーの瞳が印象的なその男の正体を知り、リヴェラは驚きながら彼の顔を見た。
ライナード・サージャーは国王の愛人の子として生まれ、王の親戚にあたるサージャー家の養子になったというのは有名な話だ。成人してからは王都に出てきて騎士団に入ったと言われている。
貴族の噂には人一倍詳しいリヴェラは、直接会ったことはなくても、ライナードの存在は噂として知っていた。
(そりゃ、顔を隠すわけだわ)
第二騎士団は王都を守っており、ライナードの顔は町の人々によく知られている。彼は愛人の子とは言え、国王の血を引く男である。おまけに彼の見た目は女性達が放っておかないときている。ライナードが顔を隠すのは当然のことだった。
ライナードはリヴェラの向かいの椅子に座った。
「来ると思っていたよ。君が僕に興味を持つのは分かっていたからね」
「そりゃ、場末の酒場で大銀貨を取り出す客なんていませんから。あなたが只者じゃないことくらい分かります」
「確かにそうだね」
ハハハとライナードは声を上げて笑った。
「それで、騎士様が顔を隠してわざわざ私を呼びだした理由は何です?」
「もう本題? 少し世間話をしてからでもいいんじゃないかな」
「長居をする気はないんですよ」
どうもライナードは、王の血を引く貴族にしては気取った所のない男のようだ。話している間、ライナードはずっと笑みを浮かべた顔で、こわばった顔のリヴェラを見つめている。
「そんなに警戒しなくても。まあこの後、僕の仲間が迎えに来るから、その前に話を終わらせておいた方がいいね……ではリヴェラ。僕が君をここに呼びだした理由を話そう」
「……はい」
なんとなく背筋を伸ばしたリヴェラに、ライナードは身を乗り出した。
「リヴェラ。君の正体を僕は知っている。その『魔法の竪琴』の力を借りたい」
「え……?」
リヴェラの顔色がさっと変わった。