婚約破棄
舞踏会が開かれている王宮の大広間で、まさに今、美しい令嬢が王太子に婚約破棄されようとしている。
周囲の好奇な視線に晒されている気の弱そうな令嬢を、冷たい表情で見つめるウィンガルド王国の王太子と、その横に寄り添い勝ち誇った顔をしている可憐な令嬢。
だがこの物語の主人公は、この気の毒な令嬢でもなければ、王太子の横で不敵な笑みを浮かべている令嬢でもなければ、勿論王太子でもない。
大広間の片隅に、竪琴を抱えるように持ち、片手でワイングラスを持ってワインを飲み干している吟遊詩人の女。彼女がこの物語の主人公である。
(宴はここまでね。今のうちにワインを飲めるだけ飲んでおこう。こんな高そうなワイン、もう飲める機会もないだろうし)
飲み物をトレイに乗せたまま、大広間の中央で起こっている揉め事に呆然としている給仕係からワインを勝手に取り、女はもう一杯急いでワインを飲み干した。
女の名はリヴェラと言う。まるで夜空のような深い青がグラデーションになっている神秘的なローブを身に着けている。真っすぐな長い黒髪は艶があり、その瞳は紫色だ。見た目だけならミステリアスで美しいと言えなくもない。
リヴェラはこの夜会に招待された吟遊詩人である。普段は町の酒場などで竪琴を弾き、歌を歌って客を楽しませるのが彼女の仕事だ。彼女の奏でる竪琴は美しい音色で人々を魅了する。もっとも彼女の客は平民ばかりなので、王宮のような場所に彼女がいること自体が珍しい。
ならばなぜ、吟遊詩人がこの場にいるのか。彼女を夜会に招待したのは、第二騎士団所属の騎士ライナードだ。ライナードは彼らの近くに立っていて、事の成り行きをじっと見守っている。
「ウィンドグレース家のメルフィナ嬢! 私は今夜、この場でそなたとの婚約を破棄させてもらう」
「……何故なのでしょう? ダルシオン殿下」
メルフィナが静かに尋ねると、王太子ダルシオンはフンと鼻で笑った。
「その理由はそなたが一番よく知っているはずだ。それなのに、よくもそんな態度でいられるものだな。私はそなたではなく、そなたの妹であるアリシア嬢と結婚する!」
ダルシオン王太子は寄り添うように立つアリシアと目を合わせる。アリシアはダルシオンを見つめた後、冷たい目で姉を見た。
「残念だわ、お姉様。あなたの行いが殿下を傷つけたのよ。悪く思わないでちょうだいね」
「……行い、とは?」
メルフィナは表情を変えず、気丈に二人に聞き返した。その様子に苛立ったダルシオンは顔を歪める。
「まだ認めぬというのか? 今ここで、全て話してもいいと言うのだな? ならば望み通りに話してやろうじゃないか」
ダルシオンが声を張り上げたその時、メルフィナのそばに立っていた騎士ライナードは、離れた場所でダルシオン達を見ている吟遊詩人リヴェラに視線を送った。
(今?)
(今だ)
(今すぐ?)
(今だ、すぐ行け)
二人は視線で会話を交わした。早く行けと急かすライナードに、戸惑いながら竪琴をしっかりと持ち直し、リヴェラは意を決したように大広間の中央へと向かう。
「えーと、お取込み中すみません、ちょっといいですか?」
突然大広間に響き渡るリヴェラの声に、周囲の視線が一斉にリヴェラに集まった。ダルシオンとアリシアは揃って眉を吊り上げる。
「何だ。今我々は大事な話をしている。吟遊詩人は下がっていろ」
「そうよ。ここはあなたのような者が入れる場所じゃないの。今すぐ外に出なさい」
「そうしたいところですが、私も大事な用がございまして」
「下がっていろと言ったのが聞こえなかったか? 無礼な旅芸人め。おい、こいつを外に追い出せ」
ダルシオンが近衛騎士に命令をした所で、騎士ライナードが止めに入った。
「殿下、この吟遊詩人の話を少しは聞いてやってもいいのでは?」
「お前がこの私によく口を出せたな? ライナード。お前にも後でじっくりと聞きたいことがある」
じろりとダルシオンがライナードを睨むと、ライナードは気まずそうな顔で引き下がる。
「ダルシオン殿下、用はすぐに済みますので。殿下とアリシア様の前で、ぜひお祝いに一曲弾かせていただければと」
「ならば話が終わってからでいいだろう」
話の腰を折られ、すっかり不機嫌なダルシオンに構わず、リヴェラはおもむろにその場に座り込み、竪琴を構えた。
「いいえ。メルフィナ様を侮辱する為にこの場を利用し、メルフィナ様に恥をかかせようというその企みは、何としても止めさせていただきます」
リヴェラは先程のへらへらした態度から一変し、強い視線でダルシオンを睨みつけた。
「な……どういうことだ? お前はメルフィナと知り合いなのか……?」
ちらりと上を見上げ、リヴェラはメルフィナと視線を交わした。メルフィナは小さくリヴェラに頷き、リヴェラもメルフィナに頷き返した。
「どういうことよ」
アリシアは気味悪そうな顔でリヴェラを睨んだ。その表情には不安が浮かんでいる。
「この歌を……アリシア様に捧げます」
リヴェラは竪琴に指を添え、撫でるように演奏を始めた。繊細で柔らかな音はとても美しく、どこか物悲しい旋律が流れた。音に合わせてリヴェラの歌が始まる。その場にいた全員が、まるで穏やかな子守唄のような彼女の歌に引きこまれた。
いや、正確にはその場にいたただ一人を除いて。
「アリシア? どうした?」
ダルシオン王太子は、隣で真っ青になっているアリシアに尋ねた。アリシアは顔面蒼白で、全身ガタガタと震え、今にも崩れ落ちそうだ。
「アリシア!」
慌ててダルシオンが支えようとするが間に合わず、アリシアはその場にへたり込んだ。
「いや……いやよ……私はこの身体から出て行きたくない……」
涙を流し、頭を振りながらアリシアは呟いた。
「出ていく? アリシア、君は何を言って……」
その時、大広間からどよめきが起こった。アリシアの身体が青白く光ったかと思うと、アリシアから半透明の女がずるり、と出てきたのだ。
(出たわね!)
リヴェラは演奏を続けながら、不敵な笑みを浮かべた。
「な、何なのだ、お前は一体……!?」
驚いて腰を抜かすダルシオン。メルフィナも驚愕の表情で妹から出てきた幽霊のような女を見ていた。大広間にいた他の招待客達はすっかり大騒ぎだ。悲鳴を上げて倒れる若い女性や、女性を押しのけて我先にと逃げだす太った男がいて、周囲は騒然としていた。
そんな中、騎士ライナードは冷静にアリシアから出てきた女を見ていた。
「リヴェラ。彼女が『転生者』なんだね?」
ライナードがリヴェラに尋ねると、リヴェラは歌をやめた。
「ええ。彼女がアリシア嬢の身体を乗っ取り、彼女に成りすましていた、異世界から来た転生者です」
半透明になった姿の女は、この世界では見かけない服を着ていた。ひらひらとしたシャツ一枚に、膝から下がむき出しのスカートを履いている。顔はアリシアよりも老けていて、可憐な彼女とは似ても似つかない。
オロオロしながら周囲を見回している女をリヴェラはじっと見た後、女に語りかける。
「私の役目は『魔法の竪琴』で、身体を乗っ取り人の人生を奪う『転生者の魂』を浄化させること。今歌ったのは『見送りの歌』よ。さあ、空の向こうにお帰りなさい――」
リヴェラは再び竪琴を鳴らし、歌い始めた。
「待って、お願いやめて! ようやく全部手に入ると思ったのに。行きたくない、ここにいたいの!」
「これは一体どういうことなんだ。転生者とは何だ!?」
ダルシオン王太子は事態を飲み込めずに呆然としていた。メルフィナは驚いた顔のまま、事の成り行きを見守っている。
異世界から来てアリシアの魂を乗っ取った女の身体は、次第に強く光り出した。
何故吟遊詩人リヴェラが王宮に招かれ、転生者の魂を浄化することになったのか。事の始まりはひと月ほど前に遡る――
主人公リヴェラが持つ竪琴は現代のものを参考にしています。有名なものでは千と千尋の神隠しの主題歌で使われているそうです。素敵な音色です!
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