九話 ゴールデンウィーク
ゴールデンウィークに入ったある日、俺は久しぶりに外に出た。課題は終わらせたし、家にいてなにかする気にはならなかったから。それと、母と父はそれぞれ実家に帰省しているため、母に買出しを頼まれたり、父とどこか行くということもないし、暇つぶしになるかと思ったのだ。
スマホと鍵と財布を鞄に突っ込んで、七分袖くらいの黒いシャツにズボンを着て、あてもなく適当に足を進めた。まだ五月だというのに、数分歩くだけで汗が噴き出てくる。
辺りは住宅街で、空は狭いし珍しいものもないし、そのくせ暑いし最悪である。俺は散歩なんてしてどうするつもりだったんだ。しかもクローゼットから雑に引っ張り出したせいで服黒だし。熱が集まってる。失敗した。
俺は耐えかねて、駅に向かい電車に乗った。幸い空いていて席に座ることができた。冷房が熱くなった頬を冷ましていく。
このままいけば学校に着いてしまうので、俺は数駅で降りた。部活中の奴と鉢合わせは勘弁だ。
駅のホームに自販機があったので冷たい缶コーヒーを買うと、近くにあったベンチに座った。開けて飲む。美味しい。
もう歩きたくない。面倒くさい。なんで俺は外に出たんだ。せめてジムとか、室内の娯楽施設にしておけばよかった。
缶の熱が伝わって冷えた手を首に当てる。冷たい。涼しい。
天井を仰ぐ。
……ここの近く、なんかあったかな。
頭の中にあるはずの周辺の地図を呼び起こす。
書店、服屋、レストラン、……。
あと、楽器店があった。そうだ、ギター買ったとこ。すげー広くて、品ぞろえが抜群にいい。
……行くか。
缶コーヒーを一気に飲み干すと、俺は立ち上がってゴミ箱に投げ捨てた。
後悔して帰ってたまるか。せっかくここまで労力をかけたんだ。ちょっとは楽しみたい。
……まあ、労力ってほど大したことしてねえけどさ。
その楽器店に、俺はあっさりとたどり着いた。
手前には試奏できる楽器が置かれている。やっぱり楽器の種類が豊富だ。
ピアノ、ギター。ベース、サックス、トランペットにクラリネット。メジャーな楽器を手前に置いてこそいるものの、奥には俺も名前が分からない楽器も揃っている。
……あ、バイオリンだ。奥、壁に上品な佇まいで、いる。
その瞬間、感電したみたいに脳裏に生々しく音が蘇ってくる。
とびきり明るくて華やかで、かと思えば繊細に表情をころころ変えて。上品で、艶やかな魅力がある。
ずっと聞いていたい。
自然と笑みが浮かんでいた。
途端、不協和音が割り込んでくる。耳が痛くなるくらいの不快な音。
聞くに堪えない。聞きたくない、と思った。
そう思ったら、俺の聴覚を支配していた音色は消え失せていた。周りの話し声や、放送の音楽、人の歩く音、機械の動く音なんかが戻ってくる。
思い出そうとしていた回路が焼き切れたようだ。
それでいい。
俺はほっとして、再び楽器店に目を移した。
音楽に関するものが、いろいろある。見ているだけで音が聞こえてくるようだ。
俺は店内をひとしきり眺めた。
心の中が満たされていく。
だけど、なんだろうな。俺はなにを求めてるんだろうな。
足が縫い付けられたように動かない。
満足した感触がしても、足は歩こうとしない。立ってると疲れるだろ、速く帰ろう、そう思っても、子どもがいやいやするみたいに、体が反応しない。
仕方がないので、店内をもう一度見渡す。
バイオリンが目に入る。
右手が弓を持った感覚を、左手が弦を押さえた感覚を思い出す。意味もなく、左手を首の方にやった。
どうしようもなく、怖い。
また、ああなるのが怖い。また、好きなことを見失うのが。
一度そうなってしまった自分が、大嫌いだ。
俺は自分への失望を形にするみたいに、ため息を吐き出した。
足はするりと動いた。
よし、帰ろう。今度こそ帰ろう。
俺はそう決意した。だというのに、俺は神に嫌われてでもいるのだろうか。
俺が一歩足を踏み出そうと右足を浮かせた、その一瞬あと、背筋が凍り付くような声を聞いた。
「……弦也?」
だん、と力任せに足を戻す。俺は努めていつも通りに振り返った。
そうだと思った通りの奴がいた。聞き覚えのある声だったから。
「え、弦也だよな?!」
やけにテンションの高いそいつは、近づいてくるなり馴れ馴れしく話しかけてきた。
全力で顔を逸らす。
「久しぶり! めっちゃ雰囲気変わったじゃん!」
明るい茶髪。やけに大ぶりな仕草。苦手だ。
「それ何色? ていうか、高校の校則は? 茶色ってより金髪! すげー! 派手だ! 不良みたいだっ!」
あーもううるせえ。
だからこいつは苦手なんだ。
キラキラしてて無邪気な目が苦手だ。にこやかな顔が苦手だ。
こいつの持つ全部が苦手だ。
顔をしかめそっと後退した俺を見てなんと思ったか、彼は俺が後退した分まで距離をつめて、
「もしかして今急いでる? だったらさ、連絡先だけ――」
「悪いなんもやってねーわじゃあな」
早口で答えて通り過ぎようとした。
「えっマジ? いやちょ、待ってよ」
無視する。
俺は、それを一秒後、悔いた。
「俺、Tコン出るから! また夏会おうぜ!」
なにも答えなかった。
気分は最悪だった。
……星野勇気と会うなんて思ってなかった。あいつ、ここ周辺に住んでたのか? フード付きだったから、バイオリン関連じゃねえだろうし。
襟元がすっきりしてないと、バイオリン、演奏できないから。
というか、髪を染めてるから万一会ってもバレると思わなかった。コンクールでほんの数回、いや、一回だけか? それくらいしか会ったことないのに。
もうこの辺来れねえな。
外に出るんじゃなかった。
ぐるぐる考え事をしながら、俯いて歩く。
そうしてるうちに、さらに俺は知り合いと鉢合わせた。
見慣れた制服姿。ブレザーは着ずに白いワイシャツだけ。あと胸元のリボンもない。
部活動にも所属していないはずなのになぜかそんな暑そうな服装の彼女は、俺を見かけるなりこう言った。
「こんにちは、市川くん。奇遇ですね。…………怖い顔をされていますが、どうかなさいましたか?」
静かで平坦な温度の声が、不思議と耳に馴染んだ。