八話 関わりたくない人間
なんと言おうか迷っている隙に、一条は淡々と語った。
「そもそも、ジョハリの窓、なんて言葉があるように、自分では自覚していない自分がいます。ですから、自分とは、という質問は答えるのが難しい、いえ、答えがないに近しいものです。そのうえで、今までの人生経験から、私は一条静乃と関わりあいになりたくありません」
「……なんでだ?」
率直に聞いてみることにした。一条には気遣いとか配慮とかで柔らかくした言葉より、こっちの方がいい気がしたのだ。
「……」
一条は難しそうに目を細め、
「どうしてか人とうまくやれないのです」
彼女は周りを見渡した。
「ゆっくり話すには時間も場所も適切ではありませんね。放課後にでもお話ししましょう。今は、楽しい話でも」
一条にとって、自分の話は楽しくないのか。口外にそう肯定しているのが、少し気にかかった。が、俺は特に言及しなかった。藪蛇な気がしたからだ。
彼女は授業について話しながら移動教室の場所へと向かっていった。
放課後にでも、という本人の言葉通り、昼休みは一切このときの話を持ち出さなかった。俺の推測ではあるが、言葉を吟味していたように思う。ただでさえ少ない口数が、いつもよりも少なかったから。
――放課後、学校を出て人のいないあたりまで歩くと、一条はふうと息をついた。
「自分を関わりたくない人間、とする理由でしたね」
先導していた一条は、振り返った。それほど力を入れた様子もなく、肩にかけた学生鞄を握っていた。独特な静けさのある仕草。
「どれほど努力しても、自分が集団から浮くのを感じとるのです。正確には、ぼろがでる、といいますか」
「ぼろ?」
春の日差しが降ってくる中で、黒く縁取られた瞳が真っすぐにこちらを射抜いてくる。ただどこか、苦笑するような、自嘲の混ざった苦しい柔らかさを感じた。
ふと、去年の自分を思い出した。
羨望と諦め。
「ええ。緊張したり、楽しくなると、好奇心が抑えられなくなって」
心当たりはある。初めて会ったとき、突然なぜバイオリンを辞めたのか聞かれた。
今の発言を鑑みるに、あれは、つい出てしまった疑問だったのかもしれない。俺を傷つける意図はなく。しかしまあ、それを理性で抑えられないのはどうかと思うが。
「……私は空気を壊し、人を壊すのです。ですから、私が集団から追放されるなんて、当然です」
どこか淋しそうだった。
でも、否定はできなかった。実際に初日、確かに古傷をえぐられた感覚はあったから。あれを誰にでもやっていては、そりゃあ、周りから人もいなくなる。
仕方ない。悪いのは自分だ。
その気持ちがちょっとわかって、心臓が跳ねた。
「一条静乃はそういう人間だと、私は考えています。私はそんな人と関わりたくなんてありません。……これで、貴方のご期待に沿えた回答になりましたか?」
さっきの変に苦しい空気は離散していた。平常通りのテンション感の彼女に、俺は気持ちが落ち着かないならがらも、これだけは言わなくてはと思った。
「……ああ。その。……ありがと。答えてくれて」
人と関わる経験値が不足しているものだから、かける言葉がこれでいいのか自信がない。
彼女はすうっと目を見開いたあと、朗らかな雰囲気で頷いた。
「いえ。構いません」
一条が踵を返す。それで話が終わった。
ふと気になって、その背中に問うた。
「なんで俺のこと知りたいの?」
俺は、あまりに鋭い言葉を初対面の奴に放ってくるのが面白くて知りたくなった。そのことに気づいて、面倒がっている場合じゃないと思った。だから自分から動いたんだ。
じゃあ、一条はどうして俺のことを知りたいと思ったんだろう。
「言いませんでしたか?」
一条はまた、くるりと顔をこちらに向けた。
「貴方が演奏している動画を見て、ヴァイオリンを心から愛されている方だと思ったのです。あと、その演奏している姿が綺麗だと思ったからです」
「……ああ、中学入ってから、一回だけ賞取れたときの」
「ええ、そのときのものでしょうね」
「……あ。いや、ちげえ。そうじゃなくて、……」
なんていえばいいんだ? なにか、自分が聞きたいこととはズレているんだ。それがなにか分からないうちに、一条は俺に返してきた。
「……なにかあれば、そのときにまたお聞きください。いつでも何でもお答えします」
「……おお」
会話が止まった。一条がまた歩き始めた。俺はその隣に並び、だらだらと周囲の景色を眺める。
……まあ、自分がなにを聞きたかったかなんてそのうち分かるだろ。それが分からないからって、別に今不便はないわけだし。
俺は忘れることにした。
一条は駅の前でスマホの画面を覗くと、駆け足で改札口に向かっていった。
ではまた、と俺に挨拶するのを忘れずに。
俺はすぐ視線を外し、辺りに目を走らせた。
部屋でやることもないから、時間をつぶしてから帰ろう、と思ったのだ。
俺は近くにある適当な古本屋に入った。小説も漫画も好きだが、なによりも店内の雰囲気が好きだ。ごちゃついているのに統一的で、それが心地いい。優れた曲を聞いているのと似た気分になる。音程も音色も全部バラバラの音が、曲という形になってまとまりを帯び、気持ちいいところに気持ちいい音が乗ってるときみたいな。
しばらく店内を見回り、俺は二冊を厳選して購入した。一条と別れてから一、二時間は経っていた。
……そういえば、一条の趣味はなんだろうな。今度聞いてみるか。
いい気分で、俺は古本屋を後にした。