七話 一条静乃とは
おそらく、一条静乃という人間は、言葉を大切にしている。だからこそ、言葉を軽いものにする、理由のない嘘が嫌いである、ような気がする。
なぜ、そんな彼女の言葉が嘘っぽく、あるいは薄っぺらく聞こえたのだろう。
直接本人に聞くのは、一条を傷つけてしまう。となれば、自分で原因を探るほかない。
「……もうすぐゴールデンウィークだな」
横目で顔色を窺う。出会ってほんの少しじゃ、表情筋がほとんど動かない一条の感情なんてわからない。
「ええ。貴方はどう過ごす予定ですか?」
「特になんも考えてねえ。……お前は?」
見られているのに気づいてるのかいないのか、普段通りの声音だった。
「私はアルバイトをやろうかなと」
「……へえ。なにやんの?」
「コンビニです」
普通だな。いやでも、こいつに接客業できるのか。無表情だし妙なところで気遣いができないし、向いているとは思えねえんだけど。
なかなか失礼なことを思った。
それに、俺はやっぱりその発言に違和感を覚えるんだ。
「…………お前さあ、嘘って好きか?」
「嫌いです」
即答。まあ、普通の人ならそう答えるよな。
……全然一条自身のことについて知れてないみたいだ。借り物の言葉を嘘にならない程度に使われてる感覚。
会話がつまらない。
「……変なこと聞いて悪かったな」
「構いません」
俺が一人思考していると、彼女はあっと声を出した。
「もうすぐで昼休みも終わりですね」
昼ご飯を食べた後も、昼休みが終わる直前まで階段に座って、各々好きなことをやっている。
立ち上がった一条は荷物を持ち、俺にでは、と一声かけてその場から離れた。
俺はゆったり腰を浮かすと、のろのろと歩き始めた。
どうしようか。このままじゃ関わるのが面倒になっていくぞ。
……そういえば。
俺にも、もう一人しつこく話しかけてくるやつがいた。
ふと思いついた俺は、話す言葉を考えながら、少しだけ歩く速度を上げた。
翌日の朝、早速目当ての人物が話しかけてきてくれたのをこれ幸いと、俺は一条のことについて話し始めた。
俺が話をしているのは、黒井瞬。同じ班で、俺の左斜め前の席のやつ。
学級委員なんぞ面倒なことこの上ない仕事を引き受ける時点で俺と気が合うはずもないのだが、彼はなぜか俺にしつこく話しかけてくる。
教師には積極的に質問に走り、生徒には程よい距離感で接する。典型的なコミュニケーション強者。
人間としての魅力を生まれ持っている奴、というのが黒井に対する俺の印象である。
俺は黒井が苦手だ。自分自身がどうも変な風にひねくれた人間だからか、やつの明るさが気に食わない。冷めた目で見てしまう。ただ、同時に羨ましいとも思う。何事も、苦労を数えるより楽しみを数えた方がいいに決まってるんだから。
そんな優れた学級委員は、俺の話を聞き終えるなり、あっけらかんとした様子で言った。
「一条さんのことを知りたいなら、本人に直接聞いちゃえば?」
「……あー」
納得した。
「僕よりも市川君のが親しいだろうし、一条さんは自己理解ができてる人に感じるし……」
指折り数えた彼に、俺は頷きつつも、
「……一応。お前から見た一条って、どんな奴?」
すると黒井は軽く目を見開いて、腕を組むとうんうん考え始めた。
「僕は、ほんとに詳しくないから滅多なことは言えないことを前提に聞いてほしいんだけど」
「おお」
俺は黒井の言葉を、真面目に聞いた。
「まずはやっぱり、静かな人って印象が強いかな。それと、凄く気を張っている気がする。緊張してるときにする仕草をやっているのをよく見かけるよ。でも、常に瞳孔が開いてるから、好奇心は旺盛なんじゃないかなあ。……それくらいかな」
気を張ってる。それは思ったことがなかった。
「……緊張してるときにする仕草、ってたとえば?」
「唇舐めたり、あと、話してるときにずっと動きが止まってる、とかだったっけ? それから単純に動きが硬いよね」
「……へえ」
言われてみればやっていたような気がしなくもない。
俺は黒井の観察力に対する評価を上げた。素直に感心する。
「……あ、もうすぐ朝のSHRか。まあ、次の休み時間にでも話しかけてみたら?」
黒井がそう体の向きを正した。
俺も崩れていた姿勢を整えつつ、一条の方に視野を移した。
制服のブレザーが似合う後ろ姿だ。背もたれと背中に空間を残して、ぴんと背筋を伸ばしている。あれが一条の平常運転だと思っていたけれど、案外緊張しているだけなのか?
SHRが終わったあと、俺は早速一条に声をかけた。
「なあ、一条」
「…………え、はい」
一条は随分驚いた気配を見せた。なんでだ?
訝しく思ったがまあいい。
俺は椅子に座ったままの一条を見下ろし、見上げられた目をまっすぐ見つめて、問いかけた。
「お前にとって、一条静乃ってどんなやつ?」
俺のせいで陰になっていた顔を下にして、一条は顎に手をやった。
「…………あ」
はっきりと声に出した。
瞬間、一条は椅子から立った。当たりそうになって、思わずのけぞり、一歩後退した。
一条は俺の様子を構うことなく、綺麗に九十度、頭を下ろした。そして頭を上げると、大きく口を開けて、明瞭な発音で話した。
「申し訳ございません。私は、貴方に嫌われることを恐れ、正直者であることを忘れていました」
目が合う。瞳孔がかっぴらかれていた。
いきなり席から立つなよ、びっくりするだろ、なんて思う暇もないくらい迅速な行動だった。
ようやく感情の整理が終わり、遅れて発言に対する理解がやってきた。
ああ、なるほど、嫌われることを怖がっていたから、一条の答えが薄っぺらく聞こえたのか、と。
「……あー、別にいいから。…………その」
「はい」
本当にずっと目を合わせてくるから、居心地が悪い。俺はそっと目を逸らした。
「……俺は、一条がどんなこと言っても嫌いにならねえから」
彼女の使う言葉がちょっと尖ってるから興味を持ったのだ、とは言わないでおいた。
目を元に戻すと、一条は目に見えて嬉しそうにした。これまでの人生で、よほど嫌われたんじゃないか、こいつ。
普通に面白いと思うんだけどな。
「ありがとうございます。とても救われます。……では、私は、今後絶対に市川くんに対して誠実である努力をすることを約束します」
当たり前のように伸びてきた指切りの手。
俺は多少躊躇したが、自分の小指を絡めた。
少しひんやりしていて、なめらかな指だった。
不思議な気分で指切りげんまんで揺れる手を眺める。まさか高校生になって指切りをやる羽目になるとは思わなかった。
……あれ? もしかして、俺今初めて一条に名前呼ばれたか?
「……それで。私にとって一条静乃とは、ですね」
指切りを終えて手が離れていく。俺は右手の小指を左手で触った。本当変な気持ちだ。自分が、こんなに人と関わるなんて。
名前を呼ばれた。触れ合った。その程度のことが、なんか嬉しいんだ。
それだけ考えると、俺は手を下ろした。一条と目を合わせて、言葉を待った。
「少なくとも私の知っている一条静乃、という意味でなら、私は、一条静乃とはどこかズレた関わりたくない相手と答えます」
……予想外な回答が来たな。