二話 不器用な二人の会話
あのあと家に帰り、真っ先に母に向かってサボってごめんと早口で謝ると、まあ勉強があるわけでもないんだし、いいんじゃない?とあっさり返ってきた。
昨日のことを思い出しながら制服に袖を通す。時計は午前六時ぴったり。美味しそうな目玉焼きにつられてリビングに出ていくと、母が朝ご飯を用意して待っていた。
「今日は行けるの?」
「おお」
返事をしながら席について、そっと手を合わせた。
「いただきます」
「その無愛想、クラスメイトにやるのはやめなさいよ」
箸を手に取り、食べ始めようとしたところで、母から言われた。目線の先には俺の顔。お茶碗に箸を置いて、キッチンの母に顔を向ける。
「……笑顔」
手で無理矢理口角を上げて、悪い目つきを、見開くことでマシにして見せた。
「……間違ってたのはお母さんの方だったかも」
元の顔に戻す。
まあ高校生になったからって急に表情筋が変わったりはしないよね、などと呟く母に、
「だろ。それに、俺以上に無表情で人間味ない奴もいたから」
「それ、本人に絶対言わないようにね」
「さすがに分かってるわ」
俺が白米を口に運ぶと、母は俺に話しかけてこなくなった。
朝食は、白米と目玉焼き、味噌汁に適当なおかずをつけたものだ。大抵は夜の残りか、父親の昨晩の肴。
それらを全て平らげたら、席を立つ。
時計を見る。片道四十五分、朝のHRが八時十五分開始らしいから、最低でも七時半、できれば七時十五分に出たい。
現在は六時十分だ。
要するに、時間は余りまくっている。
我が校は初日からがっつり授業があるタイプであるから、春休み中に復習は済ませておいた。
とすると、やるべきことはなにもない。
自分の部屋の扉を開けた。目に飛び込んでくるのは、勉強机。机の上に付箋が挟み込まれた本がいくつか並べられている。
それから、ヘッドフォンや温度計、湿度計が目立つ位置に置いてある。
机の右隣りには、バイオリンケースの乗った長方形のテーブル。その傍にスタンドで立ったギターがあった。
俺は真新しい靴下でいつも通りの部屋を抜けていき、そのギターを手に取った。
前、どこでやめたんだったか。そうだ、この曲のワンフレーズが――。
やり始めるとなかなか止まらなくなり、気づけばもう登校時間。いい暇つぶしになった。
勉強机の左脇にあった引き出しを開ける。手入れ用品やらチューナーやら、音楽関連の物が雑多に出てきた。
クロスで汗や手垢を拭き取る。弦を一本一本拭くのは、別に嫌いじゃない。むしろ楽しい。自分の物だ、という感じがして。
あとは、一応弦を緩めておく。
バイオリンケースにはちらりと目をやったけれど、使っていないし、念のため手入れは入学前にやっておいたし、触れる用はない。
玄関に向かい、鞄を持って、母に一声かけると、家を出た。
歩いて五分もかからないほど駅に近いマンションなので、それほど労力はない。その代わり、ローンはかなりかかったはず。日々働いてくれている両親に感謝だ。
電車についても三十五分程度なので全然普通である。できるだけ楽したいから、通学時間は負担のないようにした。
イヤホンをつけて、高校の最寄り駅を降りる。徒歩五分程度なので、こちらも駅近だ。
ちらほら同じ制服の奴を発見した。いかんせん入学式に参加していないので、顔見知りもなにもいたもんじゃないが。
後ろの席の人と知り合えたのは、単純に彼女が変わっているからという紛れもない奇跡だ。とはいえ、その奇跡になにか救われることなどないだろうが。
と、考えているうちに速攻学校につき、門をくぐる。一年の昇降口を見つけて入り(昨日わざわざ電話で担任の先生が教えてくれた)、自分の場所に靴を突っ込み、上履きを履いた。
階段を上がり、扉を開ける。教室には半数程度人が揃っていた。俺としてはかなり早めに来たつもりだったのだが。
一瞬クラスの人に注目された。が、知り合いじゃないと分かると、すぐに目線を外された。
俺は教室に一歩踏み入れた時点で、それ以上動けなくなってしまった。黒板には席が書かれているわけでもない。クラスと出席番号を教えてくれた担任の先生の姿は見当たらない。
俺の席は、どこだ。
考えるのを後回しにして、ひとまず邪魔にならないよう扉の前からはけた。教室を見渡す。
まだ二日目だからか、どことなく落ち着かないような、緊迫した雰囲気だ。ただ、既にクラスの人間関係が構築されつつあり、大抵の人間は誰かしらと話している。
しかし一人の生徒もいる。たとえば、一人で机に向かってペンを走らせている見知った顔の奴とか。昨日会った、一条静乃だ。
無事に自分の席を特定することができたので、俺は席に近づいていき、鞄を机の上に置いた。
ご丁寧に自己紹介してくれたものだから、俺の席が一条静乃の前の席だということは分かっていた。だから俺は、一条を見つければ自分の席を見つけることができたというわけだ。
案外奇跡も馬鹿にならない。
俺は鞄から、必要な道具一式を取り出した。入学式のときに配られた書類や教科書類は母が受け取ってくれたし、不便はない。
準備を終え席に座ると、タイミングを図ったように一条が話しかけてきた。
きた、と思った。
期待していた、とは違う。俺はわざわざ話す労力に見合うほど、人間関係に価値を感じていないから。
確信していたんだ。こいつは絶対に面白いことをやらかすぞ、と。
面倒だし、能動的に動くことはしないが、提供されるのなら楽しみたい。俺の一条に対する感覚は、その程度だ。
俺は、彼女が昨日見せた好奇心の塊みたいな目をして、おかしなことを話すことを信じて疑わなかった。
そう、疑ってなかった。逆に、自分から行動を起こすこともしなかった、怠慢もある。
振り返った俺に、一条静乃はこういった。
「部活動、なにに入りたいですか?」