うんこっころっころっころ
介護士が駆けつけたとき、橘さんは、壊れた柵の手前に、車椅子から落ちた状態で倒れていた。橘さんは、とっさに車椅子から降りたと言った。
廊下から4R号室に入ると、通路があり、通路の左側に4R号室Aの個室10室が並び、右側にトイレや浴室、ちょっとした談話スペース、介護士ルームがある。介護士ルームは、ミーティングや休憩、資料や鍵の保管に使われている。通路の先に4R号室の半分、4R号室Aの9人が集う、広いメインスペースがる。
各号屋には出入り口が2つ。A用とB用。
もう一方の出入り口にも通路があり、4R号室Bの個屋10室があり、トイレや介護士ルームがあり、通路の先に4R号室B9人のメインスペースがある。
AとBの部屋は4R号室内で通路によって繋がっている。そこは、厨房から運んだ配膳車を置くポジション。
個屋のベランダは建物のデザイン的なもので、ベランダへの吐き出し窓を開けるには、通常の施錠以外に、別に保管されている鍵が必要。橘さんは、介護士ルームからその鍵を持ち出して開けたらしい。疑わしい。認知症で車椅子の人がそんなこと自分でできる? 人数は認知症>車椅子。車椅子の人はほぼ認知症。
「橘さんって、認知症?」
訊いたのはミナトだった。
「それは訊ける雰囲気じゃなかった」
だよな。
ーーー殺人鬼の仕業かもしれない。
ベランダの柵が壊れていたことに関しては、老朽化していて、橘さんの部屋以外も壊れている。使用しない前提だからなのか、修理はかなり先。3月からの予定。
ベランダの鍵は、各部屋の介護士ルームの保管から、1階事務所の保管に変更となった。
「いろいろ聞いてきちゃった」
「マイマイー。お腹減った。まずお昼食べよ」
ねぎまは、早く報告をしたそうだったけれど、ももしおがブロック。
本日のお昼は、オムライス、サラダ、クラムチャウダー。
ももしおのばーちゃんの飯、美味っ。
「日本人形、あったよ。手形は出てなかった」
喋りたくてたまらない、フォークが止まったままのねぎまと、ひたすら食べることに専念するももしお。ももしおは、ぺろりとオムライスを食べ、持参のパンを齧り始めた。
「目黒さんといっぱい喋っちゃった。ちょうど4階へ手形見に行ったときに目黒さんがいて。聞いたんだよねー。で、聞いてるときにすっごい音がして。目黒さん、忙しくなっちゃって」
ももしおは、事故よりも目黒恋。
4階から車椅子が落ちるなんて、施設職員は大変だろう。
いやその前に。4階に目黒恋がいた!
想像する。目黒さんが介護士ルームから鍵を持ち出し、橘さんの部屋のベランダの窓を開ける姿。橘さんが乗った車椅子をゆっくりとベランダへ押す。部屋に冷たい風が吹き込み、カーテンや毛布が舞う。
「女の人の声は、目黒さん、聞いたことないって」
声は夜中。施設職員は9時から17時までの勤務のはず。だったら、家に帰る施設職員は知らない。
「でねでねでね、目黒さんがね♡、手形は出たり出なかったりするって。ちょっと困ったようなあの顔、めっちゃ美し」
出たり出なかったり。それ、怪奇現象確定じゃん。
「宗哲クンが、車椅子を止めたときに手形を見たって話したの。そしたら、首傾げてらした。ね、シオリン」
「ね、マイマイ」
ももしお×ねぎまは、顔を見合わせて首をこてっと傾ける。
「怖っ。オレ、もう4階行きたくねー」
血の手形は4階。暴走車椅子は4階。首の向きが変わる日本人形も4階。車椅子が落ちたのも4階から。
ドクン
心臓が嫌な音を立てた。
先日亡くなった池田さんは4R号室Bだった。池田さんも4階。巽さんは4R号室A。橘さんも4R号室A。4R号室Aと4R号室Bは繋がっている。
「ねぎまちゃん、それって、4階だけ?」
「じゃないかな。4階だけ、壁が汚かったんだよね」
「「汚い?」」
ミナトとオレは聞き返す。
「うん。薄暗くて分かりにくいけど、他の階の壁はもっと白い気がする。シオリンと私が見たときは、手形はなかったよ」
「屋上があるとかって言ってたじゃん。あれは?」
ねぎまが独り言のように呟いていたのを思い出した。
「一応、エレベーターのボタン、押し間違えたふりして行ってみた。あーゆーとこって監視カメラついてるから、エレベータの中からちょっと覗いただけ。物置くらいはありそうな雰囲気。他の階とは違って、天井が低くて、『屋上』って感じだったよ」
「ふーん」
「エレベーターの正面に、外に出る扉見えた」
「日本人形は?」
ジェントルマンミナトはデザートの入れ物を開け、果物用フォークを置いてくれている。
日本人形は4階のエレベーターホールにあるらしい。全く気づかんかった。50cm程の大きさ。花嫁の白無垢姿。透明のプラスチックケースに入っている。本日は、4L号室の方を向いていたらしい。
日本人形についての報告が終わると、ももしお×ねぎまは肩を震わせて笑いを堪える。
「どした? ももしおちゃん、ねぎまちゃん」
ミナトに尋ねられ、ももしおは背中を倒し、寝転んで腹を抱え、声を出して大笑い。ねぎまも「あはははは」と涙を拭きながら笑い始める。
そして、ももしおが一言。
「うんこ」
「「はあ?!」
いきなり何。
「うんこ。うんこだったし。あははははっは」
ももしおは「うんこ」を連発して笑い続ける。
ももしお×ねぎまは現場の雑木林へ足を踏み入れた。すると、新しく、かちこちになった猪のうんこがどーんとあった。
ミナトとオレが見たものは、隠れていた猪が吐いた息か、猪のフンの湯気か、あるいは、腹の中の物を出そうと踏ん張っていた猪の息だった。
「駐車場の奥、初めて見たし」
「いつも、シオリンのお祖父様が送ってくださるもんね」
なんと。ももしおにゲロ甘な祖父は「女の子が暗い道を歩くのは危険」と、介護施設の玄関前まで、車で2人を送る。帰りは、オレ達の分まである大量の昼ごはんのため、玄関前まで迎えにくる。
どーゆーことだよ。助っ人のオレらが寒い中、怖い思いして坂道歩いてんのにさ。端の方、凍結してんだからな。
「ももしおちゃん。オレらが目黒さんに白い影の話したとき、『よくあること』みたいな雰囲気だったけど。この辺、猪いっぱいいる?」
ミナトが危険を察知。猪なんていたら怖い。襲ってきたらどーすんだよ。
「目黒さんはね、丘の下にある家で飼ってる3匹の白猫のことだって言ったの。車で通勤してる人が化け猫とか言ってるんだって。一応、マイマイと確認に行って、びっくり。うんこあったから」
「ミナト君と宗哲クンが見たのって、白猫っぽかった?」
「ぼわっとしてた。オレら見たの、猫じゃなかった。猪の方だ」
うんこの湯気かよ。猪の息の方かも。
ももしおは、デザートを食べている前で、猪のフンの特徴を説明してくれた。やめろ。
大晦日朝、ミナトはライブチケットを聖母浜部に渡すと張り切っていた。
「勇気あるよなー」
「ダメもと。来ないことは分かってる。当日だし、大人だし。目的はアピール、かな」
その積極性、見習お。
朝食の配膳のとき、日本人形を見た。4L号室の方を向いていた。昨日はどっち向いてたって聞いたんだっけ。忘れたし。
「うんこっころっころっころ♪
うんこっころっころっころ♪」
誰かが口ずさみながら、手すりにつかまって歩いている。その人を追い越す車椅子の人も同じ歌を歌う。2人で合唱。
「「うんこっころっころっころ♪
うんこっころっころっころ♪」」
歌詞に問題がなければ、ほほえましい光景なのに。残念。変な歌、流行ってんなー。
配膳が終わって朝ごはんを食べ始めたとき、電話が鳴った。調理師が応対した。
「4R号室Aの人、お粥こぼしたって。200g。持ってってあげて」
「はい」
オレが返事をしたとき、すでに天堂さんは計りの上にお粥用の器を載せ、温蔵庫からボールに入ったお粥を出していた。なので、オレはすぐさま、配膳用のエプロンを着用し、お盆を用意。
「じゃ、米蔵君、よろしくね」
「いってきます」
オレはお盆にお粥の器を載せてエレベーターで4階に向かった。咄嗟に動いてしまったけど、聖母浜部がいる4R号室Aだから、ミナトに任せた方がよかったのかも。
そんなことを思いながらエレベーターを降りて右へ進む。
違和感。
なんだ。なんだろ。これ。なんか違う。
4R号室の扉を開け、中へ入ったときに原因が分かった。臭わない。
オレの苦手な排泄物やオムツの臭いがしない。
そんなバカな。生きてるのに。
4R号室の通路を進むと、4R号室Aには聖母浜部がいた。オレは、近くにいた外国人の介護士にお粥を渡す。
「お持ちしました」
「スミマセン」
カタコトの日本語で答えてくれた。
外国人の介護士をちらほら見かける。
配膳のときにエレベーターホールで見かけた人が、食事中なのに楽しそうに歌っていた。
「うんこっころっころっころ♪
うんこっころっころっころ♪」
掃除の仕方やゴミの捨て方で臭わないのかもしれない。
だったら、全部の部屋、4R号室みたいにすればいいのに。
厨房に戻って、「聖母浜部いたし」と言うと、ミナトは、
「廊下んとこまで来てくれただろ?」
と言う。