施設職員イケメン目黒さん
「「お先に失礼します」」
11時、勤務終了。
手書きの勤務管理表に退勤時刻と何時間働いたかを記入。
勤務管理表は、月の出勤日数、合計勤務時間、オール手書き。令和とは思えないアナログな世界。
施設の外は、すっかり日が昇って明るい。
来るときは真っ暗で見えなかった景色を見た。建物の後ろにある雑木林は見事に枯れていた。赤茶色の針葉樹が斜面に並んでいる。地上部分があれだけ枯れているということは、根っこだって枯れているだろう。あれ、放置したら危ないんじゃないんじゃね?
疲れた足をアスファルトに置いたときに違和感。朝は所々凍っていた坂道が濡れている。
へとへとに疲れ、アパートの一室に帰った。徒歩3分程度。
6畳にバス・トイレ・キッチン付き。布団と折り畳みのちゃぶ台つき。全く同じ部屋でミナトと隣同士。ドアはデジタルロック式。オレの部屋の暗証番号は、ねぎまの誕生日。
ももしお×ねぎまはオレの部屋で寛いでいた。
「おかえりー」
「おかえりなさい」
ねぎまが爽やかな笑顔を見せてくれた。癒される。めっちゃ仕事、キツかった。
でも、ももしお×ねぎまも同じ仕事をしているのだから口には出せない。自分のカノジョも頑張っているんだと思うと、頭を撫でてやりたくなる。ってか、どっちかってーと撫でて欲しい。
「ぜんぜんお洒落なバイトじゃねーし。カフェかと思った」
オレが不満を漏らすと、ももしおは
「飲食系としか言ってませんー」
だって。確かに。
「宗哲クン、慣れた?」
ねぎまの優しいタレ目がオレの顔を覗きこむ。ああ、なんて柔らかい声。天使。
「まだ2日目だけど、最初の日よりはマシだったと思う」
一昨日、初日は作業の流れもどこに何があるのかも分からず、天堂さんがめちゃくちゃ大変そうだった。調理師が自分の仕事を止めて天堂さんを手伝っていたっけ。
「バイオリンより重いもの、あり過ぎだけど。ま、頑張るし」
ミナトは浜辺美波激似を見つけてからやる気を出している。
1つのお皿は軽くても、たくさんあるとそうはいかない。例えば籠に入っている陶器のお皿は1枚約300g。しかし1つの籠に60枚以上入っている。1籠約20kg。
食べ物も同じ。1人分125gのポトフも110人分+ミナトとオレと天堂さんの3杯分、予備も加えると15kgを超える。
バイオリンより重いものだらけだというのに。浜辺美波激似は尊い。
「シオリンのためにありがと。ミナト君、宗哲クン」
ねぎまが首をこてっと傾けて微笑む。癒されるー。
ん?
「ももしおのため?」
聞いているのはももしおの親から紹介されたってことだけ。オレの怪訝な顔に答えるようにももしおがちゃぶ台に突っ伏した。
「米国株も空売りもやりたいって言ったら、親が『仕事の厳しさも知らないくせに手を広げるな』って」
出た!
これこそがももしおの最大のドン引きポイント。株ヲタク。
決してかわいい額じゃない。母親の口座を使って10万単位を1円感覚で転がす。あまりに儲けるから家では大切にされ、やりたい放題。学校では授業をサボって株トレードをする始末。
コイツ、日本の株じゃ飽き足らず、アメリカの株にまで手ぇ出そうとしてたのか。
そりゃ、親としては止めるよな。
「ももしおちゃん、空売りも? それは心配するって。『買いは家まで売りは命まで』って言うもんね」
ミナトは、伏せているももしおの頭をとんとんと人差し指で突いた。オレは株に詳しくない。それでも、ももしおが危険水域に行こうとしていることは分かる。
「資金効率とか、今後のこと考えたら、必要なの。今まで空売りなしでやってこれたのは相場がよかっただけだもん。どーんと円高に動いたら日本株ブーム終了。海外投資家が資金を引き上げて日経平均急降下。海外投資家の比率は3割。つまり現在4万円弱の日経平均1.2万円分。日経平均が3万円を切ったら、日本人だって日本株を投げ売るよ。極端な円安だって危険だと思う。日本円が価値を無くしちゃったら、阿鼻叫喚。地獄の日本経済幕開けなわけ」
怪奇現象よりも怖いことを語るももしお。
そしていきなり、
ばっ
ももしおは顔を上げる。
「ふっふっふっふ。そんなとき、空売りでがっつり儲ける! なのに」
宙に向かって鋭い眼光を飛ばした後、再びちゃぶ台に突っ伏した。
「しょうがないよ、シオリン」
ねぎまがももしおの頭を撫でる。幻のうさぎの耳がだらりんとへたれて見える。
だんだん
だんだん
ももしおは突っ伏したままテーブルを拳で叩いた。そしてくぐもった声で不平を垂れ流した。
「命金には手ぇつけないし。子供だから命金なんてないし。何を心配してんのかなー。日経平均株価はやっとバブルの時の最高値に戻った後横ばい。米国株は右肩上がり。為替リスクを考えたってお釣りがくるわけ。日本は、はっきり言って斜陽の国。人口増加を考えると中国とインドも視野に入れたいとこだけど。中国は政府の意向で何が起こるか分かんないし、インドの情報は少なすぎ。やっぱ、どれだけ政府でドルを供給しててもアメリカなわけ。S&P、オルカン、一生一緒にエヌビディアの次」
訳の分からない呪文はオレの右の耳から左の耳へ抜けていく。
「シーオリン、このバイト頑張ったら米国株もできるんでしょ? 頑張ろ?」
ねぎまが美しい友情でももしおを励ます。
空売りとやらは許してもらえないっぽい。
「汗水たらして働くことが美徳と思ってるなんて、プレロタリアかよ「シオリン、お口にチャック」」
人類の大半を敵に回しそうなももしおの暴言を諫めるのはねぎまの役目。
なんでも、介護施設の早朝バイトで労働の貴さを知った後、ももしおは晴れて、自分の株口座を開設して日本株取引をし、更には米国株に手を広げる許可を得られるらしい。
「ドル転! 60年以上連続増配! テンバガー! バフェット様!」
ももしおは自分の口座で円をドルに換え、米国株を買うと息巻いている。
完全に、ミナトとオレは利用されているだけ。
ねぎま、友達思いにもほどがあるだろ。
「そういえばさ、ももしおちゃんとねぎまちゃんは、怪奇現象、あった?」
呆れた顔の後、不意にミナトが聞いた。
「ないよ」「ぜんぜん」
2人は首を横に振る。
ミナトとオレは、今朝、4時45分ごろに見た白い影の話をした。
「きゃははははは。怖ーい」
笑い飛ばすももしおの横で、ねぎまは眉根にシワを寄せて考え始めた。
オレは人差指でねぎまの眉間をつんと触る。カレシの特権。
「どした?」
「え? 考えてたの」
「何を?」
「白い影は何か」
「昨夜亡くなった人の霊なんじゃね?」
オレが答えると、ねぎまはパタパタと目を瞬かせた。
「宗哲クン、理系なのに、何言ってんの?」
「いやいやいや。これ、理系とか関係ねーじゃん」
人非ざるものなんじゃね? 怖っ。
「絶対に何かある」
ねぎまはまだ考えている。
オレは暴走車椅子についても話した。
「……たりだべ、ゆ……つめざかの……たりだべって。あんま、よく聞こえなかったけどさ、『指詰め坂の祟り』なんじゃね? 怖すぎ。何かあるって」
うんうんとオレが頷く。と、そこにももしおが入ってきた。
「ちがーう! 宗哲君、ぜんぜん分かってないじゃん。マイマイは怪奇現象じゃない何かがあるって言ってんの」
これには反論させてもらおう。
「なんだよ。他にもあるんだって。人形の首の向きが変わるとか。あとなんだっけ?」
ミナトが補足してくれた。
「真夜中に女の声が聞こえるってのと、血の手形」
てんこ盛りなんだよ。
「それ、誰情報?」
とももしお。
「朝飯食ってた施設職「きゃーーー♡」」
いきなり、ももしおは黄色い声を出す。鼓膜破れるし。
「目黒恋! 目黒さんね。朝ごはん食べる人って、目黒さんだけだもん。毎朝なんだって」
イケメンチェックに抜かりのないももしおは、名前まで知っていた。
「よかったね、シオリン。目黒さんに詳しく聞こ」
ねぎまも一緒に喜んで、自分の肩をももしおの肩にとーんとぶつける。
「うふっ♡ 人里離れた海辺に、あんな素敵な人がいたなんて。もったいない。後ろから見た肩の形。きっと脱いだら筋肉質。座ったときにデニムに筋肉が浮かび上がる下半身。冬なのが残念。腰のラインを想像するだけで、嗚呼。いつもすっごく綺麗に食事を食べるんだって。綺麗に食べる人は、ベッドマナーがよくてテクニシャン。むふふふふ♡」
いつもだったら「シオリン、お口にチャック」が入るところなのに放置されたまま。ねぎまは眉間にシワを寄せ、再び考え中。
可愛いなぁ。もう1回眉間に触りたい。ついでに頬もつつきたい。垂れた眦も泣きぼくろも。うっかり視線は唇に行く。セーターに包まれた胸。それから……。
二人きりなら、もっと見放題なのに。一人暮らし、してみたい。カノジョを触り放題じゃん。
ももしおの言葉をBGMに、オレは一人暮らしに想いを馳せる。
「大人の男と1つ屋根の下。ここには個室もベッドもいっぱい。危険がいっぱい。むふふふふ♡ 危険なのは、目黒さんの隠しきれない魅力よね。公然フェロモン罪で監禁しちゃうゾ」