ゆ…つめざかの…たりだべ
7時50分。30代の現場責任者が出社。
「昨晩1人亡くなられて、変更ありました。4R号室Bの池田様です」
天堂さんから変更の報告を受けた現場責任者は、天堂さんに数枚の紙を渡した。
「こちら、今日の変更分です。亡くなられた方の変更も加えてください」
「はい」
天堂さんは、数枚の紙を見ながらホワイトボードの数字を直していく。
「えーっと、ソフトのハーフがマイナス1だから……」
ホワイトボードの縦横の数字を計算してうんうん頷く。
紙は5枚。本日の変更は5人。亡くなった人の分は既に修正済みのようだった。5名分のホワイトボードの表修正は、15箇所弱。
次に、その横にあったお粥の表を数箇所直した。更にお粥の表の下にある、ミキサー粥を作るときのお粥とお湯の分量を直す。
今度は10メートルほど離れた場所にある巨大冷蔵庫の扉にあるボードの飲み物の表を変更している。そこでも縦横の数字を計算してうんうんと頷く。
その後、巨大冷蔵庫横の戸棚の扉にある紙に、横線を引いたり、名前を書き加えたりしている。数を数えてうんうんと頷く。
なんてアナログな。
天堂さんが様々な数字を直している間、ミナトとオレは、後片付けと掃除。それが終わると、やーっと食事。バイトはまかない付き。
8時から休憩を30分取って、11時まで働く。
インゲンのささ身フレーク和え、ポトフ、食パン、ポタージュスープ。
「「いただきます」」
ポトフからはほんのりとバターの香り。それがくたくたの玉ねぎと共に舌の上で広がる。ジャガイモは煮崩れる直前で角が取れたちょうどいい柔らかさ。
「美味しいです!」
「ははははっはっは。あの調理師さんは元フレンチのシェフだったからね。冷凍食材でこの味、大したもんだろ?」
調理師は、かつては自分の店を持っていたが、経営困難になって現在の食事サービス会社に就職。会社には、そういったシェフや板前が何人もいるらしい。
人生色々。世間は荒波なんだろな。
入居者の中で何人がこの味に気づいているんだろうか。殆どの人が認知症。それでも、美味しいって感じて、気分が上がってくれればいい。
がちゃ
介護施設職員休憩室のドアが開いた。
エレベーター前ですれ違ったイケメン職員が、食べ終わった食器の載ったお盆を洗い場へ持ってきた。
「ご馳走様でした。いつも旨いっす」
「はっはっははは。美味しーって。ありがとーございます」
天堂さんは離れた場所にいる調理師に大きな声で伝えて笑った。
「お、新しい人じゃん。へー。君ら、もう遭った? 怪奇現象」
職員は寒い12月に、更に寒くなるようなこと言う。やめて。
「今朝見ました」
とミナト。
「へー。どんな?」
「白い影みたいなの見ました」
オレの答えに、なんてことない口ぶりで「それな」と笑顔のまま。
待て待て待て待て。怖いと思わねーほど日常的なことなのかよ。
「参るよねー。オレは見たことないけどさ」
職員は他人事。
「やっぱいるんだ」
思わずオレは独り言を漏らした。
対して職員は平気な顔で更に様々な怪奇現象を教えてくれた。
・夜中にどこからか女の声が聞こえる。
・誰もいないのに自動ドアが開く。
・壁に血の手形が現れる。
・夜中に4階の日本人形の首の向きが変わる。
ぞーっとオレの背筋を冷たいものが走った。てんこ盛りじゃん。
「あんまり脅かすんじゃないよ。可哀想に」
天堂さんが職員を窘める。
「ちなみに、人がいないのに開く自動ドアはこれだから」
職員は配膳車を出入りさせる用の大きな自動ドアを指差した。
ひえ~っ。
あかん。
塩盛っとこ。
お札貼っとこ。
バイト辞めたい。
でも、カノジョを失うわけにはいかない。頑張れ、オレ!
「あの、そのせいで働いてた人が辞めたって聞いたんですけど」
オレは恐る恐る、エレベーターの中で聞けなかったことを口にした。
天堂さんはやっぱり笑った。
「ははっははは。違う違う。学校の冬休みで小さい子のお母さんのパートが休んでるだけ。ま、辞めた人もいるけど」
いるじゃん。
「天堂さんがこき使うからっすよー。はは」
職員は笑いながら休憩室に戻った。
「まーったく。口の減らない。もともとこーゆー職場は人が動くの。どこも基本人手不足で辞めたってすぐ次の仕事が見つかるから」
天堂さんは業界あるあるを教えてくれた。
ぶぶー
ポケットでスマホが振動した。ねぎまからメッセージが届いていた。ハートいっぱいのおはようスタンプと一緒に。
『バイトがんばってね』
にへら〜っと顔が緩む。可愛いなぁ。休憩のタイミングを見計らって送ってくるとか、どんだけオレのこと考えてるんだよ。よっし。めっちゃ頑張れそう。
『りょ』
そっけない返しをする。心のまま送ったら、『可愛い』と『好き』とハートで画面が崩壊するだろう。
ん?
さっきから、天堂さんはスープを丼で飲み、食パンを食べ、ポトフをお替わりし、大盛のインゲンのチキンフレーク和えを食べている。というか、既に食べ終わっている。それどころか、持参のおにぎりとタッパに入ったトマトまで。天堂さんは「あー、美味し」とポトフの3杯目を器に入れた。
生命力が漲ってる。すっげえBBA。
関心して眺めていると、天堂さんは箸を止めた。
「あ。2人とも背ぇ高いよね」
「「?」」
「怪奇現象の1つ、直して」
「え? 怪奇現象って直るんですか?」
首を傾げるオレ。
「自動ドア、上に埃詰まってるだけだから」
なんと、忙しすぎて隅々の掃除までは行き届かず、自動ドアの上の部分に埃が溜まっていて動作が超絶遅いのだとか。自動ドアは、手で「押」印の部分を押すと開くタイプ。
まず、1回押す。が埃でなかなか開かない。で、2回3回とチャレンジ押しする。そうするころ、やっと1回目を感知した分が開く。扉には、人や配膳車が通ってるときに閉まらないよう、センサーがついてる。人や配膳車が通り終わって1回目が閉まる。その後、2回目とか3回目の分が、たっぷり時間をかけて開く。
2回目、3回目、それ以降のチャレンジ押しの分は、人がいないのに開いてしまったように見える。
そんなこと?
食後、掃除すると、スムーズに動くようになった。ごっつい埃がわんさか出てきた。動かないはず。
怪奇現象なんて、意外とこんなもんかも。どこからか女の声が聞こえるのは、誰かの寝言だろーし、日本人形の首は、ぐらぐらになってるだけかもだし、壁に血の手形は……ヤベー思いつかねー。白い影は、亡くなった人としか思えねー。
考えるのをやめよう。短期バイト。2週間を乗り切ればいいだけ。頑張れ、オレ。
9時20分。朝食後の配膳車を取りに行ったときだった。下膳というらしい。これも4階から。
4L号室前。オレはリノリウムの廊下で配膳車を押していた。節電でLED電灯を灯さない薄暗い空間。
「……たりだべ、……た、た、たりだべ」
老婆が何かを言いながら車椅子で向かってくる。スピードが凄い。超高速。
ガーガーガー
廊下を滑るように走る音。ヤバい。
このままだとオレを轢いて、廊下突き当りの非常階段へのドアにぶつかる。
「失礼します!」
オレは配膳車を廊下の脇に押しやり、老婆の上半身を背もたれごと抱きかかえるようにして踏ん張った。強い衝撃が体を駆け抜ける。
ピタッ
止まった。
手動車椅子。車輪を動かす手が離れて、止まったようだった。
「……りだべ。……た、た、……たりだべ」
髪を振り乱した老婆は枯れ枝のような指でオレにしがみついてきた。恐怖のせいか、がくがくと震えている。
つーか、オレの方が恐い。それでもオレは、勇気を出して老婆の目を見た。
「大丈夫ですか?」
かっと見開かれた双眸が凝視してくる。
痩せた頬、青白い顔。骸骨にかろうじて皮が残っているだけ。枯れ枝のような指が、めりめりとオレの腕に食い込んでくる。
「……た、た、……たりだべ。ゆ…つめ……ざかの……たりだべ」
視界に入る4つの手形。朝日がやっと届く薄暗い壁の中、こちらを見物している血の色に似た手形があった。
「たつみさん。どうなさったんですか」
オレの声を聞いた介護士達がやってきて、老婆に優しく話しかける。オレは、老婆が車椅子で暴走していたことを伝えた。
「ありがとう。君は大丈夫?」
介護士は、廊下に放置されていた配膳車をオレのところまで持ってきてくれた。
その時、ミナトが目の覚めるような美人と共に現れた。うっそ。マジで浜辺美波激似。
「すみません。注意が行き届いていませんでした」
開口一番、浜部さんは謝罪した。美しい眉を歪ませて「お怪我がなくてよかったです」とたつみさんの前に屈み、正面から手を取る。
暴走車椅子老婆は、4R号室Aへ連れて行かれた。
エレベーター内は聖母のような浜部さんの話題オンリー。
仕事の目まぐるしさと聖母浜部の存在で、暴走車椅子についての話題はなし。手形についても言いそびれた。
上司である現場責任者には、暴走車椅子の件を報告した。