浜辺美波激似アラサー聖母
「ん? あ、幽霊? はははっはっはは」
天堂さんはまたまた豪快に笑う。
「あの、来る時に白い影みたいなの見ました。オレら2人とも見たんです」
オレは今朝見たことを話した。
「ふーん。じゃ、そーかも。昨夜1人亡くなったし。来た時、お見送りしてたでしょ?」
「……」
そう言われて、オレは1台の黒い車に向かって深々と首を垂れて静止していた人達の姿を思い出す。あの車は遺体を乗せていたのか。
「ここは、1年に10人くらいあの世に逝くからねー。でもね、私だったら、こんなとこに出るんじゃなくて家族に会いに行くわ」
さっすが御年75歳。オレ達よりも天国が近いせいか幽霊の気持ちを分かっていらっしゃる。
「天堂さんは怖くないんですか」
ミナトが質問すると「ぜんぜん」と返って来た。
幽霊のせいで人が辞めたんですか?―――とオレが確認しようとしたときにエレベーターが4階に到着した。配膳は上の階から行う。
エレベーターを降りるとやや広いエレベーターホールがあり、そこから右に行く廊下と左に行く廊下がある。
教えてもらった通りに配膳車を運ぶ。オレは左の4L号室へ。ミナトは右の4R号室へ。
4L号室の大きな引き戸の前に車椅子に乗ったばーさまが1人。
「おはよーございます」
挨拶をすると、ばーさまは、
「おはようございます。よしみちゃんは?」
と挨拶を返しながらオレに聞いてきた。ん-っと、認知症?
「あ、おはようございます」
ぱたぱたと天堂さんが駆けて来て、ばーさまとグータッチ。
どうやら「よしみちゃん」は天堂さんのことらしい。
「あらー。男の子が入ったの?」
「この子は短期のバイトなの」
「まぁ。大変だろうけど頑張ってね」
「頑張ります」と返事をしながら配膳車と共に4L号室の絨毯の通路を歩いて行く。通路の右側に入居者さんの個室が並び、左側にはトイレ、キッチン、休憩スペースなどがある。
あー。ダメだ。臭いが。
マスクをしていても排せつ物の臭いがする。トイレの臭い、そして使用済みのオムツの臭い。
臭いはエレベーターを降りたときから感じていた。4L号室の扉を開けたとき一層強くなった。
生きているのだから仕方がない。頭で分かっていても臭うものは臭う。
背後からは2人のBBAの会話が聞こえてくる。
「若い子が入ってヨカッタじゃない」
「そーよー。昨日の女の子2人、可愛かったでしょ?」
「びっくりしちゃった。歌って踊る子達みたい」
「今日は男の子2人。もう1人、あっちの部屋に配膳に行っちゃった子がイケメンなの」
へーへーそーでしょーよ。オーバー75でイケメンとか気にすんなよ。
通路の先には広い談話室があり、車椅子に座った入居者さんが食事を待っている。テレビを観ている人、介護士にエプロンを着けてもらっている人、口を開けたまま眠っている人、様々。
「お食事でございます。宜しく願いします」
介護士に告げて配膳車ごと置いてくる。
臭いに耐えながら通路を戻ると、扉のところでは、まだ2人のBBAが会話をしていた。
「誰か気づいてる?」
「やっぱ無理かも」
「そっか」
「脳に刺激って言ってもねー」
「難しぃねぇ」
「アタシはね、よしみちゃんと話せるのがすっごい楽しみ。それが刺激かも」
「あっらー。嬉しいこと言ってくれますねー。私も」
「じゃねー」
2人のBBAは手を振り合う。
「天堂さんのお友達なんですか?」
廊下を歩きながら聞くと、「そ、ここに来てから」と答えた。そして天堂さんは続けた。
「ここね、ほとんどの人が認知症なの。だから、さっきの方は普通に会話できる相手がいなくって。で、喋るようになったの。ときどきお嬢さんと外食なさってるけど、それ以外はずーっと部屋の中で退屈って」
エレベーターの操作には暗証番号が必要。入居者には知らされていない。確かに脱走されたら危険だろう。転倒、事故、行方不明。入居者を守るためには行動範囲を制限するしかない。
でもさ、生活範囲が部屋と廊下だけってキツイだろーな。
エレベーターホールでミナトと合流し、3階に下りる。エレベーターには、すでに、調理師が1階から送った3階の配膳車が届いている。無駄がない。
3階で、天堂さんはエレベーターホールに留まり、ミナトとオレは3L号室、3R号室へ配膳した。
2階。エレベータホールにお爺さんがやってきた。
「最寄り駅はどこ?」
エレベーターの扉が開くと、よぼよぼと歩きながらお爺さんがエレベーターに乗り込もうとする。え、脱走?
オレはエレベーターの前に立ちはだかった。行く手を阻まれたお爺さんは顔に怒りの色を浮かべた。それでも脱走はまずい。
「おはようございますぅ」
天堂さんはにこやかにそのお爺さんに挨拶をした。そしてお爺さんの手を取って歩き始める。2L号室方向へ。
「最寄り駅は? ちょっと行きたいとこがあるんや」
お爺さんが天堂さんに話している。
「そうなんですね」
天堂さんは歩きながらうんうんと首を縦に振っている。
「ひ孫が男の子で。こいのぼりを。街中じゃ尻尾が隣の家に入る。おらンとこなら大丈夫だ」
今は年末。こいのぼりではなく門松を立てる季節。
「そうですかぁ。ひ孫さんがいらっしゃるんですねぇ」
お爺さんの言葉に相槌をうつ雪だるまのような天堂さんの後ろ姿。それを見ながらオレは配膳車を押した。
ほとんどの人が認知症。
9割の人が車椅子。
固形物が食べられない人多数。
排せつ物の臭い。
……人生の最終章は切ない。
ふと、曽祖母の最期を思い出した。癌だった。
辛そうだった。管に繋がれた痛々しい姿を覚えている。
頭はしっかりしていた。もう歳だからと治療を嫌がった。オムツを嫌がった。オムツをすると排泄ができなくて、尿管に管を繋いだ。男性の看護師による世話を拒否した。早く死にたいと言った。
その時のオレはまだ幼くて、曽祖母の気持ちを想像もできなかった。
今だって人生のペーペーだ。それでも思う。
ある程度の認知症は、人間が最後の時を生きていくために必要なことなのかもしれないと。
切ない気持ちになっていたというのに、厨房に戻るとき、ミナトはオレの耳元でほざいた。
「浜辺美波みたいな介護士いた。オレ、このバイト続ける」
なんでも浜辺美波激似の介護士は4R号室A担当。
あまりの色気に、ミナトは思わず帽子とマスクを取って挨拶したんだそうな。おい。それって、単に自分のイケメン具合をフル活用したかっただけじゃね? つーか帽子とマスク取るって衛生的にアウトだろ。
他の部屋へ配膳に行っても、中まで運ばされるのに、4R号室は入り口まで配膳車を取りに来てくれたらしい。
「気が利く。やべぇ。ポロシャツ、胸で盛り上がってたし」
めっちゃセクハラ発言。ちなみにポロシャツは介護士の制服。
「へー」
どこにやる気が転がってるのか分かんねーもんだなー。
「結婚指輪してなかった。バツイチくらいかな」
この男、そんなとこのチェックまで抜かりない。
「ただの未婚じゃね?」
オレの言葉に、
「いや、あれは男に言い寄られすぎて一人が気ままって感じ」
と。何想像してんだよ。
「へー」
「浜部って名札だった」
「マジかよ」
「美波って名前ですか?って聞いたら、笑われた」
「早っ」
既にナンパ済。お見事。
推定年齢30歳。薄化粧で陶器のような肌だったとか、淡い色の唇がぷるんぷるんだったとか、柔らかそうな髪が後ろで一つに結ばれて項が色っぽかったとか。当たり前だろ。老人ホームで厚化粧するわけねーじゃん。髪だって仕事の邪魔にならないように結ぶ。
笑い方が控えめで聖母のようだったらしい。
「マジやべー」
ミナトはテンション上がりまくり。
「オレも見たい」
「無理。これから、4R号室は全部オレが行くから」
「あっそ」
どーでもよー。
でもま、ミナトが続けるって言ってくれてほっとした。
オレはカノジョが紹介してくれたバイトを途中で放り出すわけにはいかない。それが小さな綻びとなって奇跡的な相手を失うことになったら、オレはここにいる入居者さん方もついでに天堂さんもすっ飛ばしてあの世に逝ってしまいそうだから。それくらい、カノジョはオレにとって大きなウエイトを占めている。