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君に幻滅されたくないんだ


濡れた坂を下る。こんな、何の変哲もない坂に、血が流れ、小指が転がる様を想像したなんて、ウケるし。



「聖母浜部、大丈夫かな」



ミナトが心配する。



「大丈夫だろ」


「マジで目黒さん、怪しくね?」


「んー。違うんじゃね?」



努めて、へらへらと笑った。

心の中に、ズシンと聖母浜部の死の推測が沈む。



「これで、ももしおちゃんは外国株できるようになるわけじゃん? ラーメンぐらい奢ってもらお」


「だな」







ももしお祖父母邸での昼食は、猪鍋だった。近くの猟師さんから貰ったってことだから、ミナトとオレが見た、白い影を出したヤツかもしれない。


聖母浜部がいないという話をももしお×ねぎまに伝えた。

屋上の目黒さんの部屋へ探しに行ったことは、喋っていない。

聖母浜部と目黒さんの手首掴み事件があってから、目黒さんの話題は、暗黙の緘口令が敷かれていた。


アパート退出。荷物を船に運ぶ。干物など、たくさんのお土産を貰い、ご挨拶。



「記念に写真撮ろ」



船を離岸させていると、スマホに記念写真が届いた。進行方向が定まってから、写真ホルダーの保存し、何気なく写真をスクロールする。


4R号室Aの食札の写真が目に留まった。(たつみ)、橘、神酒(みき)、三枝、東海林(しょうじ)御手洗(みたらい)東雲(しののめ)。なかなかな苗字のオンパレード。他の2人は田中と山田。


今日、配膳のときに話しかけてきた杖のじーさんは東海林さんと呼ばれていた。朝食が和食。


巽さんと橘さんも朝食が和食。巽さんは認知症が治ってきたと話した。加えて「橘さんも治ってる」と。


東海林さんは美人の「おらんようになった人」がお気に入り。その人が電話をしていたと訴えた。あのときの3人は、しっかりと会話が成り立っていた。


他の部屋の様子と全く違った。他の部屋では介護士と入居者が会話をする。入居者同士ではあまりない。ほとんどの人が認知症。認知症どうしでは会話が成り立ちにくいからだと思う。


4R号室Aの朝食が和食の人は、認知症が治っているかもしれない。


対象者は6人。巽、橘、東海林、御手洗、東雲、山田。敬称略。



聖母浜部が4R号室Aを担当して1年未満。橘すゑさんは、七夕のころに認知症が改善した。


10月、朝食を洋食から和食に変更した巽奇稲田姫さんは、認知症が改善しつつある。


今日の3人、東海林さん、御手洗さん、東雲さんの会話は全て信用できる気がしてきた。


「おらんようになった人」は聖母浜部。いつも優しい聖母浜部は電話のとき怖い顔だった。コソコソ電話をしていた。門の前で会う約束をしていた。ドラレコに記録を残さないためと言っていた。


門の前で誰と会う予定だった? 

「ドラレコ」は車に付いているドライブレコーダー。ドライブレコーダーはエンジンをかければ自動的に記録してくれる。記録を残さないためには、車を動かしてはいけない。


介護施設の徒歩圏に聖母浜部がいる。恐らく、死体で。


聖母浜部を気に入っているじーさんは、伝えるべき大事なことだと判断して、オレに託したんだ。誰も聞いてくれなかったから。




船から介護施設を見ると、後ろの山の斜面に、水色のショベルカーが見えた。



「あれって、警察じゃね?」



紺色の制服を着た人が見える。



「ホントだ。警察まで来てっじゃん」


「浜部さんを探してるのかな」


「……」



ミナトとねぎまが話す横、ももしおは無言で双眼鏡を覗いていた。それ、オレの。いつの間に。


事件なんて全く起きそうにない平和な場所。暇だから、すぐに出動できるんだろーな。

介護施設の周りを捜索しているように見える。



「昨日じゃなくてヨカッタ。危なかったね、シオリン」



ねぎまは胸を撫で下ろす。

未成年が濃塩酸と濃硝酸を混ぜて遊んでいた。補導案件。



「昨日?」



昨日だったら、何がどうマズかったん?


ももしお×ねぎまは、濃塩酸と濃硝酸の大量空瓶の処理に困った。祖父母宅に置いていけないから。

昨日は、ももしお祖父母が不在だった。昼食は宅配ピザ、夕食はUberEats。ミナトとオレは、ももしおが冬休みの課題に専念すると聞かされ、夜、2人に会っていない。


2人は、祖父母が不在なのをいいことに、ふらふらと空瓶を捨てる場所求めて彷徨った。1月初旬、17時前に辺りは暗くなる。危険。



「ちゃんとラベルは剥がしたよ」



ねぎまがどーでもいい報告をする。夜の徘徊と不法投棄の言い訳にならねーし。



「処分してもらえそうなとこに置いてきちゃった。漁師さんの小屋っぽかったよね、シオリン」



ねぎまが話しかけても、ももしおは心ここに在らず。双眼鏡を顔にくっつけたまま、下唇を噛み締める。

目黒さんに失恋したのが、そんな悲しい?


双眼鏡を下ろしたももしおを見ると、悲しいとは別の表情。海を渡りたい因幡の白兎のように陸を、介護施設を見つめる。幻のうさぎの耳がぴんと立ち上がっている。



「私。やっぱ、、、」



何かを言いかけて、口を噤むももしお。



「どしたの? シオリン」



ねぎまが心配して、ももしおの顔を覗き込む。

ももしおは、ふいっと視線を逸らした。オレンジ色の帽子のぼんぼんが揺れる。



「……」

「……」

「……」

「……」



沈黙戦に勝利したのは、ねぎまだった。



「塩酸が、置きっぱ」



は? 塩酸?

ももしおの告白に、3人はムンクの「叫び」みたいな顔になる。



「それ、どこに置いたの? シオリン」


「屋上」



ももしおは、親の名前で濃塩酸と濃硝酸を購入した。巽家に伝わる戦のための物を溶かすために。


しかーし、ももしおには、常日頃からやってみたいことがあった。濃塩酸に水を入れること。塩酸を薄めるときは、必ず、水に塩酸を加えると習う。逆はNG。


なので、こっそり、実験分も注文した。


介護施設に宅配で濃塩酸と濃硝酸が届いたとき、実験分を外の非常階段に下に隠しておいた。


ももしお祖父母宅へ持ち帰る訳にいかない。ねぎまにも内緒。


最初は介護施設の外についている非常階段に置く予定だった。誰も使わない、4階からR階へ行く部分に。R階手前には頑丈な扉があり、鍵がかかっているらしい。


しかし、運んでいるとき、物音で、奇稲田姫さんに気づかれてしまった。奇稲田姫さんは、親切に、内側から4階非常階段の扉を開けて、建物の中にももしおを招き入れてくれた。そこで、ももしおは屋上に保管することにした。



見つけた人が「濃塩酸」と気づかず、火傷をする可能性がある。



「戻るぞ」



船をUターンさせた。


オレだって、言わなきゃいけないことがあるんじゃないのか? エンジン音が響く中、自問する。


平凡で平和な日常を愛する男。厄介ごとには関わりたくない。けれど、行方不明者についての情報を託されたのはオレ。


知らぬ存ぜずを通すこともできる。


ねぎまは、きっと、そんな人間を許さない。

知ったら、「そんな人だったの」と(なじ)りもせず、静かにオレから離れる。



「あのさ。」



オレは、今日、4R号室Aでじーさん&ばーさんが話していたことだけを伝えた。



「宗哲、それって、ここから徒歩圏内に聖母浜部がいるってこと? 誰かに呼び出されて」


「もし、3人が言ってるのが本当だったら」


「普通に考えて、不倫? ドラレコに証拠残したくないって、離婚で裁判になったとき、不倫ってバレると慰謝料取られるからじゃね?」



ミナトが知らない世界を教えてくれた。


オレは旦那を疑っている。計画殺人。証拠を残したくなかった。理由は分からない。



「怖い顔で電話してたって話だから、不倫相手じゃない気ぃする」



夫婦関係が拗れている相手かもしれない。



陸に戻っては来たものの、ももしおは、介護施設に行くことを躊躇していた。警察がいるから。4人とも、ゆっくりとした波を感じながら、操舵室にいた。



「奇稲田姫さんに、ちょっと今の状況聞く」



ももしおは電話する。



「スマホあんの?」



びっくり。

奇稲田姫さんはスマホを持っているらしい。オレの目の前で使っていたはずだとねぎまが言う。思い出せん。介護施設へ入るほどのご高齢。スマホを使うなんて、確実に認知症が治っている。あの枝みたいな指で、スマホの画面が反応するのか疑問。


ももしおは、なん言か言葉を交わし、丁寧に御礼を言って、通話を終了した。



「奇稲田姫さんの話ではね、警察が4R号室まで来たんだって。ンで、入り口のとこにある浜部さんの写真を見たら、『ストーカー事件かもしれません』って、警察増えたって。今、施設の門のとこにも警察が立ってる」


「浜部さん、綺麗だもんね」



大して時間は経ってないのに、状況が悪くなってるじゃん。美人が裏目に出たか。「門のところにも」ってことは、玄関やロビーの辺り、事務所にもいる。

ももしおは付け加えた。



「今日までバイトしてた、ミナト君と宗哲君、容疑者」



はあああああ?!



「ストーカー……」



ねぎまが顔を強張らせた。



「どした?」


「昨日、空瓶捨てる場所探してたとき、男の人と女の人見たの。ぴったりくっついて。小屋みたいなとこに入ってったよね、シオリン」


「うん」



こんな季節にカップルが。夏でも観光客が来る場所じゃない。あるのは病院や介護施設。カフェも定食屋もない侘しい土地。



「暗くてよく見えなくて。ふらふらな女の人が、運ばれてる感じ」


「だった」


「灯りは漏れてたけど、中、見えなかったよね、シオリン」



覗いたのかよ。



「建物、ボロくて揺れてた」



ミナトの顔が険しくなった。たぶん、オレと同じ想像をした。強姦。



「どこだよ」



地の底から響くような声を出すミナト。

ももしお×ねぎまが、びくっと固まる。いつも穏やかなだけに、ビビる。


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