飲食系?
騙された。
草木も起きぬ寅の刻。凍てる坂道を上って行く。
晴天続きだというのに舗装されたアスファルトの上にはどこからか流れてきた水が凍結し、暗闇の中で足元を不安定にする。
シベリア寒気団がツラい。
「さぶっ」
オレはマフラーに顎を埋めた。
隣を歩くミナトはまだ目が半分しか開いていない。
「マジ、無理。返事したから取り敢えず今日はするけど、変わってくれるヤツ探してる」
朝が弱いミナトは既にギブアップ。
「ヤベー。4時45分じゃん。早朝じゃねーし。深夜だし」
「真っ暗」
外灯のない坂道の片側は駐車場。
始発電車すら走っていない時刻、車はほとんど停まっていな……っ
「うわっ、な、なん?」
駐車場の奥、雑木林の中に白いぼんやりしたものが見える。ポケットから手を出して、ミナトのコートをぎゅっと掴む。
「どした? 宗哲……」
オレの視線を辿ったミナトは、息を止めて走り出す。速っ。大急ぎで追いかけた。
アスファルトを蹴る音が暗闇の中に響き渡る。うわっ。凍ってるとこ、滑る。坂を登り切ると、オリオン座の下にシンメトリーの建物が鎮座。
建物正面玄関の前、1台の黒い車が静かに動き出す。
何人かが、その車を見送っていた。
街灯が、枯れた小便小僧の噴水を照らす。車は噴水の横をゆっくりと通り過ぎて行った。いつまでも首を垂れたままの人達の厳かな雰囲気に、ミナトとオレは足音を忍ばせる。
だけどさ、怖いもんは怖い。建物の脇、従業員専用口のインターホンを連打。
がちゃ
鍵が開き、中から扉を開けたのは、小さな雪だるまのようなババアだった。
「天堂さん、で、で、でたんです」
訴えるオレの横で、息をはあはあさせながら首をぶんぶんと縦に振るミナト。
「おはよーございます。昨夜、1人亡くなられたからね。それじゃない?」
天堂さんは、マスクの上の目をシワの中に埋もれさせて、悪戯っぽく微笑んだ。
やっぱ出るんだ。
「「おはようございます」」
ミナトとオレは、忘れていた挨拶を返す。
未だ震えが止まらない体で制服に着替えた。
カフェの店員とは全く異なる制服。どちらかといえば絵描き歌「かわいいコックさん」に近い。上半身は白、ダブルボタンの詰襟コックコート。ズボンは黒。エプロンは胸当てのある紺。黒のロングエプロンとは全く別物。そして、お洒落さが微塵もない白い給食当番のような帽子。マスク。
身支度をし、うがい手洗いをして厨房へ行くと、既に天堂さんはてきぱきと漬物を皿に盛っていた。
「「おはようございます。宜しくお願いします」」
大きな声で挨拶をし、教室のように広い厨房に足を踏み入れる。特大ボールいっぱいのインゲンをささ身フレークで和える50代の調理師が「おはよ」と笑顔で挨拶を返してくれた。
天堂さんは漬物を盛りつけながらミナトとオレに指示を飛ばす。「出た」ことを話す暇もない。
「食パンのお皿を25出して。食パン2枚が1人。1.5枚の人が2人。2つに切って。今日のジャムはピーナツ」
「「はい」」
朝食は、和食と洋食の2種類がある。和食希望の人には、米系と味噌汁。洋食希望の人には、パン系とスープ。
ミナトが切ったパンにオレがラップをし、その上に小さなピーナツクリームのジャムを置く。で、運ぶ。
運ぶ先は調理台と別スペースに置かれた、配膳車にセットされているお盆の上。
「夜中に亡くなられた4R号室Bの池田様のお盆は、もう退けてあるから」
「「はい」」
お盆1つにつき1人分の食事。
全てのお盆には食札と呼ばれる定期券サイズのネームプレートが1つずつある。そのネームプレートには、部屋、名前、食事形態、食事の量、アレルギーの有無、嫌いなものなどが書かれている。
配膳車は6台。全部でざっと110人分。
オレは食札の朝の部分を見て、「パン」と書かれているお盆にラップに包まれたパンを置く。
小さな食札の朝の部分を瞬時に読み取るのは想像以上にメンドクサイ。それを110人弱分見ていく。
「3L号室Aに1人ピーナツアレルギーがいるからね」
天堂さんから渡されたのは、いちごジャムと紙。紙には「佐藤様 ピーナツクリームの替わりにいちごジャムをご用意しました」と書かれていた。
わざわざ説明を添えなくても。
このときはそう思った。事が起こったとき、この紙の重要性を知ることになる。
アレルギーで人は死に至ることがある。人を殺せる。
オレの横では、天堂さんがぽいぽいと迷いなく漬物を置く。その漬物は食事形態に合わせたもの。
食事形態が「普通」のお盆には普通のしば漬け。「一口」には1.5cm程に切ったもの、「刻み」は3mm程度、「極刻み」には1mm以下。固形物が無理な「ソフト」表示には梅びしお。
圧倒的な速さで置かれて行く漬物の小皿。もはやリズムに乗った雪だるまのダンス。
パンを置き終わると、インゲンのチキンフレーク和えの盛り付け。ほとんどの人は43g。半分指定は22g。2/3指定は29g。メンドクサ。
「適当でいいから。食べる人量らないから。はははっはは」
天堂さんは豪快に笑う。
ももしお×ねぎまが紹介してくれた飲食系のバイトというのは、介護施設の食事の用意だった。
午前5時始業のため、電車の始発が間に合わない。だから泊まり込み。でもって、ももしお×ねぎまは、ももしお祖父母の家に泊まる。くそっ。
時給を高くしても人が来ないはず。
最寄りコンビニは10分以上歩いた病院内。当然、病院の診察時間しか利用できない。普通のコンビニは最寄り駅近くで徒歩30分以上。
あの2人がなぜオレ達に紹介したのか。毎日やりたくなかったから。
ももしお×ねぎまの日、そしてミナトとオレの日がある。つまり、オレは愛しのカノジョと一緒にバイトというハッピーな時間を持てないってこと。まあ、この忙しさじゃハッピーな時間は生まれそうにないし、この色気皆無の職場じゃ女の子がナンパされる心配はない。
『女の友情壊したくないもん』
ももしおは言いやがった。女友達に絶対に紹介できないようなバイトって? どーゆーことだよ。
厨房の1番見やすい位置に大きなホワイトボードがある。そこには表があり、部屋ごとに食事形態の人数が一覧表になっている。
「鶏肉禁の人達んとこは調理師さんが別のもの用意するから」
入居者の嗜好に合わせて細かく対応するらしい。
慣れないから調理師1人、調理補助3人の体勢だが、通常は調理師1人、調理補助2人で行うらしい。3人で約110人分……。
広い厨房の端からホワイトボードの数字を確認し、食札に書かれた細かい文字を瞬時に読む天堂さんは御年75歳の熟女。身長は140cm程。目が衰えていないどころか頭もシャキシャキ。更には雪だるまのような体型でくるくると動き回る。
仕事は次々やってくる。
飲み物の用意。他に、希望者に栄養補助食品を載せる。また食札見て探すのか。超々メンドクサ。
朝食用意の仕上げはパンを希望する人へのスープ。
スープの人には、厨房であらかじめスープをカップに注ぎ、ラップをしてお盆に載せる。
7時20分、完了したときには、ミナトもオレもくたくただった。
ただ、どう見ても、仕事量と運動量は天堂さんがダントツ1番。
調理師のチェックが始まった。
「あ、君ら、味噌汁用意して」
ミナトとオレに、チェック中の調理師が指示を出す。
「「はい」」
味噌汁の入った鍋を配膳車の上に載せる。1台に鍋2つ。
やることがあり過ぎる。
出たとか出るとか、もうどーでもよくなる。
7時40分。配膳の時刻。
「「「行ってきまーす」」」
配膳車をエレベーターに乗せていると、隣のエレベーターから1人の男が降りてきた。20代後半。白いシャツに紺のカーディガン、グレーのスラックスという至って地味な服。それなのにイケメンオーラがエグい。
「おはようございます」
「おはようございます」
施設内では、全ての人に挨拶するよう言われている。
男は、介護士の制服じゃなかった。施設職員だろうか。事務所は1階なのに上から下りてくるなんて。こんな朝早くから仕事?
オレの横を通り過ぎた男は、厨房方面へ廊下を歩いていく。
「おはよーございます。お食事のご用意できてます」
背後で天堂さんが挨拶しているのが聞こえた。
エレベーターの中で、やっと何もしなくていい束の間の時間が訪れる。
オレは、
「天堂さん。ここって出るって本当ですか?」
と切り出した。