畝摘文
畝摘は異様な光景に愕然とした。机に伏す生徒、床に倒れこむ生徒、それが教室内にも廊下にも散見されたのである。親しいクラスメートに寄る。
「アナムネ」
アナムネの体躯を纏う包帯から血圧計、脈拍計を取り出し、血圧と脈拍とを計測する。脈拍七四、血圧一二七/七三。さらに包帯の中から非接触型電子体温計を取り出し検温三七.八度。畝摘のアナムネは迅速に動く。瞼を開いて瞳孔を確認する、異状なし。ふくらはぎを擦る、むくみなし。発汗もしてない。畝摘のアナムネが消える。
「いい? 先生呼んで来るから」
クラスメートは息苦しそうに軽くうなずいたのみだった。
保健室に向かう最中、階段を降りたところで救急搬送される様子を見た。それは見知った姿が担架に担がれていた。清瀬だった。
「容体は?」
問うたところで一生徒に詳細を詳らかにする救急隊員はいない。
「急ぎます!」
すげなく断たれて、清瀬を乗せた救急車は出発してしまった。
「太陽を浴びるとなんだか気持ちいいですよね、植物が光合成したくなる気分が分かる気がします」
なんて暢気なことを言うような子が、何一つ言葉を発せられず、運ばれて行った。
気を取り直してすぐに保健室に駆けこんだ。てんてこ舞いになっている保健教諭。
「先生、一体どうなってるの? 私のクラスも……」
「医療センターにはもう連絡してある。けれど、これだけ多いと搬送も順次になるから、どこから手をつけたらいいやら……村純先生にも連絡したのに」
言葉を遮られた畝摘はゴクリとつばを飲んだ。それから室内を見渡した。友人たち、同級生、上級生、下級生、アナムネを発現させられれば事態打開になるかもしれない生徒もいるというのに、今は苦しんでいて、それどころではない。なぜ、自分は平気でいられるのか? という問いは、今は詮索している場合ではなかった。
畝摘には、夢がある。医者になる。それは向宇市でなければ不可能なのだ。彼女の指はもう動かないと医学的に認められている。治療はなされた。けれど、彼女の両方の四指は硬直し進展に力が必要でしかも時間を要し、痛みも出る。彼女はその手でメスを握るどころか、教科書をめくることさえスムーズにはできないくらいなのだ。それでも畝摘は揺るがない。医者になりたかったなんて過去形とか諦念とかは言わない。だからここにいる。ここで夢を叶える、医者として治療をすると彼女は決意・決断したのだ。それは存続の意だ、断定の意だ。彼女とて、初めてその四指がもう動かないと聞かされて、しばらくは絶望に打ちひしがれた。治療があった、リハビリがあった。なんのために、治るかどうかわからないことのためにどうしてこんなことをしなければならないのかと、投げやりになったこともある。担当医だった村純は優しく治療に当たってくれた。指がかすかに動かせるようになった。ある時村純がしばらく出張に行った時がある。帰って来てから試験段階だがと言いながら、ある治療を施してくれた。指が動いた。それは数分で戻ってしまったが、畝摘には奇跡のように感じられた。彼女は村純に訊いた。いや、それはもはや尋問とか問い詰めるとかの勢いだった。畝摘が向宇市を知ったのはその時だった。そして、医者を志したのも同じ日だった。
――私のような絶望を他の人にはさせないために!
「アナムネ!」
畝摘のアナムネが顕現した。けれども、動き出すことはない。いるのは患者である。原因不明に苦しんでいる。彼女の夢は医者である。治療する、患者の笑顔、医者の目指す先である。それは今も変わらない。「けれども」、アナムネは微動だにしない。いや、畝摘を見れば、そこは「だから」と言い直さなければならない。医者は科学者でもある。科学者の基本は観察である。畝摘本人が見えなくても、アナムネが観察しえるものがあるはずである。彼女が算出したのはいわゆる西洋医学ではなかった。漢方、東洋医学で言うところの経絡と経穴、いわゆるツボを見抜いた。保健室内にある限りの、いわゆる磁気治療的なテープやシールを出して、一人一人の経穴に貼った。軽症の生徒にはそこをやんわりと指で押すように指示した。
救急搬送の勢いが静寂したのはそれから一時間後のことである。