28.エピローグ
7年後の冬。都心に珍しく雪が積もり、交通機関が大きく乱れる中、小さな商事会社に勤める翔は、普段より一時間以上もかけてマンションの自宅へ向かい、ドアホンのボタンを押した。
「はーい」
ドアホンから、若い女性の声。
廊下を小走りに走る音が、中から聞こえてくる。
その間に、全身と鞄の雪を払う。傘の雪は、マンションの入り口前で払ったが、ここでも少し。
鍵が外される音。
扉が開く。暖気と夕飯の匂いと笑顔のミナコが出迎える。
「お帰りなさい」
「ただいま」
玄関に入ると、外との温度差で、頬と両手がチリチリする。
「大変だったでしょう?」
「うん。バスが長蛇の列で、雪の中をかなり待たされた」
「まだまだ積もるかしら?」
「みたいだね。明日、会社に行けるかな?」
翔は、雪がこびりついて残る傘を、傘立ての中へ入れ、鞄を廊下に置いて、濡れた靴を脱いだ。
「加奈子、寝てる?」
「うん。ミルク飲んで、ぐっすり」
「夜中、起こされるな」
「たぶんね」
生後4ヶ月の加奈子の夜泣きを今日も覚悟した二人は、苦笑する。
「ねえ、A書店大賞の結果、見た?」
「見たよ。教子さんと傘行さんの姉弟ダブル受賞」
「それと、『誰でもスター』で、彼の作者名がバレたこと」
「うん、知ってる。早速、その投稿サイトに行ってみたよ」
「あれ、おかしいと思わない?」
「思った。僕らは、彼が書いていた時期を知っているからね」
脱いだコートはミナコが預かり、彼は洗面台で手洗いとうがいをした後、ダイニングへ向かい、テーブルの自分の席に座る。
「脱がないの?」
「雪の中を疲れたから、まずは休憩」
「その格好、暑いって」
「……言われてみると、暑くなってきた」
頭を掻いた翔は、上着を脱ぎ、ネクタイを外す。
「コーヒーでいい?」
「うん」
ミナコは、コーヒーの準備をしながら、
「なんで、高校時代の作品が削除されたのかしら?」
「非表示にしただけだと思うけど、有名になって、見られたくなかったんじゃない?」
「黒歴史?」
「そんな感じ」
「あんだけのことを言うから、どんな作品を書いていたのか、読みたかったわ」
「クラスの誰もがそう思うよ。だから、消したんだと思う」
ミナコが淹れてくれるコーヒーの良い香りが、鼻をくすぐる。
「今度の長編、また手直しした方がいいわね」
「そうだね。前回が良すぎたから、読者には期待外れなのかも知れない。昨日からアクセスがサッパリ伸びないし、読まれているページも、最近は1ページ目ばかりだし。読者の心をつかみきれていないんだと思う」
「今日、反省会する?」
「うん」
翔は、窓の方へ目をやり、ベランダに積もる雪を見る。
「前回の作品、佳作には、入りたいなぁ」
「今でも人気だし、二次選考まで行っているから、大丈夫じゃない?」
「どうかねぇ……」
「入賞して、出版社から声かかったら、どうする?」
「もちろん、OKと言うと思うけど……職業作家には、なれないだろうなぁ」
「どうして? 上を目指そうよ」
「今回の作品の不出来を思うと、一発屋で終わりそうで……」
「二人なら、なんとかなるって」
「…………」
「ね?」
「…………」
「自信を持って」
翔は、ミナコが淹れてくれたコーヒーのカップを両手で包む。
暖かい。
実に暖かい。
「…………」
翔は、カップの中で揺れるコーヒーを見つめる。
このまま、会社に勤めながら、趣味で書き続けるのもいいなぁと思っていたが、それは、自信がないことを隠すための言い訳だったのではないか。
思い起こせば、短編を書いていた頃は、誰かに読まれることが楽しかった。
それが、ミナコと出会い、遅ればせながら、もっと多くの人に読まれたいと思うようになった。
彼女のお陰で、いくつもの作品を公開してきたが、どういう訳か、「小説家になるぞー」という気構えがないからか、大学受験が忙しい、バイトが忙しい、仕事が忙しい、と言い訳を探す日々が続く。
逃げ腰だった僕は、彼女の激励を受けて、筆を執る。
(何をやっていたんだ、僕は)
今更ながら、自問する。
自分は、本当は何をしたかったのか?
古い記憶を掘り起こすと、最初の短編を書いたとき、作家になりたいなと思っていた自分がいた。
やはり、そうだったのだ。
しかし、最初の作品を公開した後、読者の冷たい反応を見て、誰かに読まれることが楽しいと、自分に思わせたのではないか。
それから、毎週、ひたすら、短編をアップした。作家の夢を封印して。
今、改めて、作家になりたい、と思うと、心の中でポッと暖かい光が灯る。
ミナコは、自信を持て、と言う。
踏み出そう、一歩を。
「……うん」
「そう来なくっちゃ」
翔は、向かいに座っている笑顔のミナコに向かって、微笑んだ。




