Unstoppable Rain
私は昔から人のものが欲しくなってしまう。
親の食べているもの、兄弟が遊んでいるもの、友人が身に付けているもの……相手のものが輝いて見える。欲しいと駄々をこねれば、同一のものを買い与えられた。同じものが欲しいと言ったが違う、それじゃない。今、目の前にあるモノが欲しい……小さい頃からそんな衝動に駆られてしまう日々だった。
「君は昔からそうでしたものね」
核心をついた言葉。本当ことだが、正直、他人にだけは言われたくないというワガママな自分がいた。
「司祭さま、私はどうしたら良いのでしょう??」
友人の夫を愛してしまった。しかも誠実でいつも妻を大事している彼もどうやら私に気があるみたい。
他人の大切なモノが欲しい。
しかしそれは駄目だという事くらい、いくら私でもわかっている。私のことを大事してくれている大切な父に母……両親たちに顔向けも出来ない。
「マリア……やまない雨はありません。きっと良い方向に進みます。神は貴女の懺悔を聞き入れるでしょう」
「司祭さま……」
お祈りをすると、遮られた壁の先にいる見えない司祭にお辞儀をした私は懺悔室からゆっくりと出る。そのまま通い慣れた馴染みの教会を後にした。
来る時に降っていた雨は止んでうっすらと光が差している。
「やまない雨はない……か」
雲の間から流れる光のすじに導かれながら私は家路を急いだ。
「おかえりマリア。大丈夫だったかい??」
「お父さま……。はい、雨はすっかり止みましたので」
優しい表情をした父が家の前に出迎えてくれていた。母も飛び出してきて私を見つめた。
温かい家庭……この環境を壊したくない私と、意思を貫きたい自分がいる。
私はどうするべきか……たしかに友人の夫は愛しているが、大切な全てを投げ出してまで欲しいとは思わない。友人の事もあるが、それ以上に欲しいモノがあったから……。
最近、刺さるような視線をたびたび感じる気がする。もちろん誰かはわからない。もしかして私と彼の関係に気付いた友人なのでは……と考えもした。
しかしそれならそれで仕方ないし、言い訳を取り繕おうとも思わなかった。ただその事実が親の耳に入る事だけは避けたかった。
ある日その思いとは裏腹に、村から友人夫婦の姿が忽然と居なくなった。『引っ越したそうだ』と耳にした。友人とは一緒に別れを悲しんだりお別れ会をするほど親しくはないが、彼は多少なりとも心を許した仲だ。一言欲しかった……といえば贅沢だと思うし、友人に余計な勘ぐりを入れられても困るので、何も言わずにいなくなってもらえた方が安心ではある。
「きっぱりと諦められた気がしました」
「……そうですか。しかし過ちを犯した罪を忘れてはいけませんよ」
「はい、司祭さま」
教会の片隅にある懺悔室で司祭に報告をしていた。
罪の意識って何だろうと悩むこともある。私が彼を愛したことは罪なのだろうか? 愛する人がいるのに好きになることは罪なのだろうか? 『いけない』と思ったという物事が罪になるのだろうか。
ただ、どんな理由であろうと倫理に反していれば、それは罪という名を枷を負わされるのだろう。
「マリア、貴女は罪深い方だ」
「司祭さま……」
司祭の言葉が私を見透かし貫いているように聞こえた。
不思議な視線の事を話した方がいいのか……それとも神にも言えていない秘め事か。
「私は司祭さまに何も話せていない……」
「ええ……話したくなったらで構いません」
お祈りをしてその場から立ち去ろうとした時、『神は全て見ています』という声が微かに聞こえてきた。
友人夫婦が引っ越してからも感じるあの視線は神さまなのだろうか。
外へ出ると雨が降り始めていた。雨具を持っていないので、少し足早で帰ろうと帰路につく。
「マリア」
「お父さま……」
その身体中が温かくなる声に私は転びそうになりながら駆け寄った。
いつものように家の入り口で待っていてくれる父。優しく頭を撫でられると私の顔は綻んでいく。
「おかえり」
顔が近付いてきて耳元で言葉を口にしたと同時に私の腕を掴むと、勢いよく部屋に引き入れられる。そのまま倒れ込んだ私の上に父は覆い被さった。
「お父さま……お母さまは?」
「息子のところへ行ったよ。二、三日は帰って来ないんじゃないか」
普段よりも少し低めの声音で話した父は、私の顔をゆっくり慈しむように優しく撫でた後、うってかわって貪る程の激しい口付けを求めてきた。
「しばらく人の目を気にしなくてすむ……」
「お父さま……私……」
顔を逸らせて汚れた体を見る。薄汚れた体をさらけ出してもいいものか。
「そのままでいい……そのままのマリアがいい。何があろうとも俺が全て綺麗にしてあげるよ。それに……もう我慢はできない」
私の髪を触りながら何度もキスをしていた父は、胸に顔を埋めるとスカートを捲り上げて中に手を入れてきた。小さな吐息が漏れた私は、そのまま体を預けていつもは出せない程の大きな声で喘いだ。
二人で幾度となく体を重ねてきた。しかし今日は今まで以上に強く求めてきた父を感じて、きっと友人の夫との関係に気付いていたのだろうと思った。
そんな父の思いを考えると、激しく壊れてしまいそうなほど痛いにも関わらず、私は恍惚感に浸っていた。
「視線?」
「ええ……よく感じるんです。確証はないんですけど」
視線は何者なのか……友人でもその夫でもない。父との関係を知った母かとも思ったが、彼女の不在中も見られているような気配があった為それも違うみたい。
もしかしてお父さま? だが刺さる程の痛い視線。それはない……今は違うと信じたい。
私は両親に溺愛されていた。しかし何故か、数年前に二人は離婚した。原因はわからないままだが、当時母が付き合っていたのが今の父になる。
その時からずっと感じていた父の視線……とろけそうになるくらいの熱い視線。この人は私に会うために母と結婚したのではないかと思うほどの……。
もしかしてこの人も人のモノが欲しいという感情になってしまうのだろうか。そう考えると親近感というより愛おしくなってくる。
別のモノに興味が移れば捨てられるかもしれない……母のように表面上だけの関係なるのかもしれない。それは私にも言える事……だから今はこのまま……。
「何を考えているんだい? 視線の犯人?」
「うん……気になって」
「犯人は俺なのかな? ……ずっとマリアを見つめているから」
優しい父の体に包まれた私は一抹の不安を伝えると、安堵したのかそのまま眠りについた。
空がどんよりと厚い雲に覆われた中、私は教会の前に来ていた。ここに来るのは久しぶりな気もするし、先日来たような気もした。よく覚えていない……私の記憶は曖昧だ。
ただ……数週間前父が死んで、数日前、後を追うように母も消えてしまった。
大切なモノが目の前から一度に奪われた。
何でこうなったのか……何が駄目だったの。何かを求めることは罪になるの??
何かを奪われることが罰になるのなら、もう何もいらない。何もいらない。いらない。
この後どうすればいいの? 先のことが脳裏を過るが薄ぼけて何も見えない。
私は知らない。何もかも知らない。これまでどうやって暮らしていたのかさえわからない。
もしかして欲しがっていたのではなくて、そうやって与えられていたのだろうか。私は動物のように本能のまま生かされていたのだろうか。
ぽつぽつと雨粒が降ってくる。空を見上げた私は 、喪失感に囚われながら教会の中へと足を踏み入れた。
誰もいない……司祭さまでさえ。
片隅の懺悔室に目を向ける。中にいるのかな……。
全てを話さそうと思い、私はその小さな箱の中へと足を入れた。
「司祭さま……」
「マリアだね。おかえり」
匿名で罪を告解する懺悔室……。小さな小窓はあるが、その先は互いに見えないようになっている。しかし司祭は私だということにすぐ気付き、そして言葉にする。声でわかるのかもしれないが、それならここで話す意味はあるのだろうか。
「司祭さま、私……」
「言わなくていいよ……辛いだけだからね」
その言葉に涙が溢れそうになる。『今まで辛かっただろう』『君だけが悪いわけじゃない』『全ての生き物は幸せになるべき』等という言葉を頂いたが、私の耳にはあまり入ってこなかった。
『罪を忘れてはならない』……その言葉だけが心に残っている。これは私への罰なのだろうか。
「ひとつ……聞いていただけませんか? 懺悔ではないのですが……」
「何でしょう??」
「視線が……ずっと視線を感じるんです」
前のめりになりながら小さく声に出した。
「気付いたんです。うっすらとした気配ですが、友人の夫と関係をもった時よりもずっと以前から感じていたみたいで……そして父が亡くなった今も」
徐々に声が大きくなると同時にビブラートをかけたように震えていた。
「この視線……司祭さま……あなたですか?」
息をのむとはこういうことなのか、私は息を止めて目の前の壁を見つめていた。
「そうだね。そうだと言えばそうなるだろうし、違うといえば違うのかもしれない」
「……どういうことですか??」
「マリア……君を責めるつもりはないが、何故見えもしない場所や人物に『司祭さま』が『そこにいる』と断定しているんだろうね」
体がこわばった。急に頭の中が真っ白になり、今までの出来事が黒く上塗りされていくようだ。
「司祭でなければ……あなたは、誰ですか?」
「そんなことより君は義父について疑問は抱かないのかい?? 急死してしまうなんて」
質問で返答されて言葉が出ない私は、ただただ目の前にいるであろう人の声を聞いた。
「マリアが好きで好きで堪らなくて、君に近付く人物を殺していたのか……それともマリアが憎くて堪らなくて、君の大切なモノを奪っていったのか……」
「――お、お父さまは殺されたって言うんですか!?」
「さぁ……ただ不可解な死だなぁ……って。義父か、実母か司祭か……はたまた……」
「何を言ってるか……わかりません!!」
言葉を言いきるより先に懺悔室から飛び出ると、静まり返った教会に足音を響かせて屋外へと駆け出す。
雨脚が強くなっていた。身体中に打ち付ける雨が痛い。しかし何も考えずがむしゃらに走っていた私は、ぬかるみに足を取られて顔面から転倒した。
「マリア!? 大丈夫ですか!?」
手を差し伸べられ、顔を上げた先には傘をさした司祭がいた。
戸惑っていると、司祭は手を引っ張り泥だらけで倒れる私を立たせた。傘の中に入った私を見つめながらハンカチを差し出す司祭。私はそれを反射的に受け取ってしまう。
「どうしてここに?」
それはこっちの台詞だ。この人には聞きたいことがたくさんある。ずっと私のことを見ていたのは司祭だったのか。父の死について何か知っているのか。懺悔室にいたのはあなたなのか……それとも別の誰かなのか……そしていつから入れ替わっていたのか。
脳裏には浮かんでいるのに言葉に出来ない……。聞きたい事が多すぎる以前に、司祭への不信感と目に見えない怖さのせいで口を開けなかった。
「一つの提案ですが……マリア、修道女になりませんか?」
「え……」
「君は信仰心がある。マリアさえ誓願をすれば……」
「――そんなの私なんかが無理に決まってるじゃない!!」
遮った言葉と同時に司祭の手を振り払うと、足場の悪い道を走り出した。
勧誘!? 修道女?? 何それ……こんな穢れた私が全てを神に捧げられるはずないじゃない! 司祭は何か企んでいるの!?
激しく降る雨の音がうるさい。
目の前から吹き寄せる風に乗った雨粒が顔を殴ってくる。今の私はそれが責められているように感じた。
父も母も私のせいでいなくなったの? 友人夫婦は私のせいでいなくなったの?
答えの出ない疑問に頭が痛くなりその場にうずくまる。
「マリアッ!!」
腕を引っ張られたと思った刹那の出来事だった。
次の瞬間には雨の音で聞こえづらかったのか、悪路で横転している馬車が目前にあった。大雨で道幅も狭く、ぬかるんでいる。これが事故というモノなのね。
転倒した馬……御者は微かに動いていて、荷台には積み荷しかなさそう。こんな雨の日に馬車で出かけるなんて……どこへ行くところだったのだろう。
事故現場を分析してみる。
後は……私の隣に傘が転がっていた。
けど、この後どうしたらいいの?
私は導かれるように懺悔室へと戻っていた。どんな不安があっても懺悔室いると心が穏やかになり安らぐ。狭いところが好きなのかな。
「おかえり、僕のマリア」
優しくて心地よい声。それは私の愛した父でも私の知ってる司祭のものではない。しかし何故か快然たるものだった。
「ただいま……お兄さま……」
教会の中では止む気配のない雨音だけが鳴り響いていた。