1. 練習試合の後に
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北海道の春は、遅い。
道央に位置する過疎の町、栗川町では、五月のゴールデンウィークも終わりに差し掛かっているが、一週間前にようやく桜が咲き始めた処だ。もう数日で満開になるだろう。
道立栗川高校野球部は、練習試合――今春開幕戦、つまり俺たち一年にとっては高校デビュー戦――を終え、陽が傾いた舗道を三人、帰途に就いている最中だった。
俺は、穂波加南。ポジションはピッチャーで、今日は二年エースの北野さんの後を受け、リリーフした。
そして鶴舞福朗。日赤病院の先生の息子で、中二の時に札幌から引っ越してきた。ポジションはキャッチャー。
ツルでフクロウなので、ツッコミどころ満載のネーミングだが、文武両道のイケメンなのでからかうヤツはほぼ皆無。そんな事すると、一年女子ほぼ全員のフクローファンが、おそらく黙っちゃいないだろう。
野球部でも久々の期待の新人で、打順は3番、試合もフルでマスクを被った。
そして俺とフクローの真ん中でちょこまか歩いている小っこいのが、間柴香奈。
俺とは小学時代以来の腐れ縁で、ポジションはピッチャー。
女子なのに野球ひと筋の変わったヤツで、俺が野球を始めるきっかけも、こいつにほとんど無理やりやらされたからだった。
ちなみにカナも今日の試合は出場した。
と言うより栗高野球部は、一年の五人が入って部員数がようやく10名なので、全員に出番があった。
最終回の2アウトから投げ、三人めでようやくアウトに出来た。
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カナが少し、頬を赤らめて息を弾ませている。試合の興奮がまだ治まらない、といった感じだ。
「先輩たち、嬉しそうだったなー」
何しろ過疎の田舎町では、生徒数そのものが少ない。
一学年で30~50人、全校生徒が男女合わせて130人。
道立栗川高校は、弓道部が全道大会常連の強豪校だが、その弓道部を含め、どの部も軒並み部員数は多くて10名ちょっと、野球部にしても他部の応援を頼んで、やっとこさ試合が出来る有様だった。
この時期に練習試合が出来るなんて、ここ数年なかったらしい。
「しかも勝ったもんな」
昨年までは歯の立たなかった岩見沢の高校に7対4、多少のミスはあったが内容も悪くなかった。
「でも最後、キンチョーした……ボクのせいで負けるんじゃないかと、冷や冷やしたさぁ」
カナがリスのように頬を膨らませる――というより学校一小さなカナは、仔リスそのものだった。
身長は非公表と言い張っているが、147cmだと同学年の女子が教えてくれた。
俺とちょうど、40cm差だ。
そのくせバストは75cmだとか、自分の貧乳ネタで豪快に笑っているから、良く分からない性格をしている。
「まあ、よく投げたよ、カナは」
フクローが爽やかな笑顔で、キャッチャーらしくフォローする。
カナは右のオーバースローで、すごく投球フォームが綺麗だし、なかなか良いカーブを持っている。
しかし――ストレートが100km/hちょいだと、高校野球レベルでは打ち頃の走られまくりであると、残酷にも今日の試合では証明されてしまった。
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カナとは、少年野球の頃から一緒に投げてきたライバルだったが、中学入学あたりから、俺が出番を奪うようになってしまった。
おまけに俺はどんどん背が伸び出し、中三で180cmを突破。
中学時代には、俺がエース。カナは公式戦には、中二の秋に一度登板したきりだった。
「したっけ(=じゃあな)、また明日」
フクローが自宅近くで、手を振って歯を見せる。
「フクロー、今日は公園まで遠回りして、桜見るけど、一緒に行くかい? ――カナン、お前は行くよなっ」
カナがそう言って、俺を肘で小突いてくる。
「あっ、そだなぁ……俺は別に、いいけど……」
良いも何も、俺の自宅は町営公園とは目と鼻の先だ。
先月末やっと雪もなくなり開園したばかりで、桜の名所になっている。
むしろ駅前通りに住んでいるカナの方が、かなりの遠回りというか、道草を食う事になるんだが。
「桜、かぁ……いやあ、今日はゆっくり休むさ」
空を仰いで少し考えていたフクローだったが、軽く首を振って爽やかに笑った。
カナが明らかに残念そうな顔をする。
「そっかぁ――したっけ、また明日」
「おう、お前らもゆっくり休めよ」
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駅前通りを突っ切って、ちいさな川に架かった橋を渡る。
町境を南北に流れる夕張川に注ぎ込む小川で、ガキの頃、カナと一緒に泥だらけになって、ドジョウを獲った――あの頃から俺は、カナに引っ張り回されてたんだな……川を渡る度に、そんな事を思い出す。
「なあ、カナン」
例によって、カナの唇が尖っている。
カナがこんな顔をする時は、決まって俺のピッチングに注文を付けるんだ。
「カナン、また悪いクセ出てた。ビビってカウント悪くして、ボール置きに行って、打たれて……」
分かってる。また弱気の虫が顔を出した、て言いたいんだろ?
「そだなぁ、今日は高校入って初登板だから、緊張しちゃったな」
「理由になんないっしょ」
カナの唇がますます尖って、まるでアヒルだ。
「立ち上がり、ふわふわしてたから、ボールに指が上手く掛かんなかったべ」
「で?」
「ストレートに自信なかったからコントロール重視で、クサいコースを突こうと思って――」
「何だよもう、はんかくせぇー(=バッカじゃないの)」
カナがスタタッと駆けて俺の前で仁王立ちになった。
精いっぱいに怖い顔をして、カナがぎろりと俺を睨む。
「カナンさ。こんだけデカいナリして、そーいうのいい加減、やめろ? 自信持って投げれば、もっと速い球、放れるっしょ」
「同じピッチャーなら、そんなゆるくないって、カナも分かってると……」
「走り込みが足んないんだ? だから手投げになって、フォームも安定しないし、それに――」
つくづく思うんだけど、どうしてこいつは俺にだけ、こんなに厳しいんだろう。
「俺走ってるベ? 最低でもダッシュを30本に1500を2本……」
「ボクがカナンだったら、その倍は走ってるさっ!」
ああ結局、また出た。
もし自分が男だったら、高身長だったらの、無いモノねだりと無茶振り。
「――分かったよ……」
口では絶対勝てない俺は、カナから目を逸らした。
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「いーや、分かってねえっ! もう、いいっ!!」
カナはまたもや精いっぱいの怖い顔で俺を睨むと、くるりと回って公園に向かって駆け出した。
ここから町営公園に行くには、車の多い国道を横切る必要がある。
折しも、走り出したカナの先に、車が結構なスピードでやって来る処だった。
「カナッ! 危ねえっ!!!」
肩のバッグを放り出し、ジャンプ一番、カナに飛びつく俺。
車の激しいブレーキ音。
カナを抱きかかえ、そのまま反対車線に飛んで行く俺――
尻の辺りにそれなりの衝撃が走り、俺はカナを抱きかかえたまま、ポーン、と面白いくらい高く、上空に跳ね飛ばされた。
無我夢中だった。
俺はどっちが天でどっちが地かも分からないまま、カナを抱えて全身を小さく丸め、着地に備える。
運良く着地したのは、舗道脇の草むらになっている、軟らかい地面だった。
背中に感じた衝撃は思ったよりも少なく、しかし勢いがついた俺たちはふたりで、何回転もごろごろと転がっていった。
*
――――いっ、てててて……
声を出そうとして出なかったのは、俺の唇に何かが塞がっていたからであり、手足を動かそうとしても動かなかったのは、大きな何かが、俺の身体の上にのし掛かっていたから。
俺の唇に乗っかっていたのは、他人の唇だった――という、事は……
あっちゃあ……偶然とは言え、カナのファーストキス、奪っちまったかあ。
これじゃこの先、何言われるか分かったモンじゃねえなぁ。
そう思いながらモゾモゾと手足を動かしてみると――何だか気配が、変だ。
そして俺の上には、山のような大男が居て、その顔は……俺だった。
「カナ? カナ? 大丈夫かい?」
声を出してみると、どう考えても女の声だ。
「カナン、ごめんなあ……背中と尻は痛むけど全然動ける……えっ?」
カナも俺たちふたりの異変に、気付いたようだった。
「なしてボクが、ここにいるのさっ?!」
そう言う声は間違いなく、男の俺のそれであった。
そう。
俺、穂波加南と、彼女、間柴香奈。
ふたりの身体が、丸ごと入れ替わってしまっていた。
お蔭で俺は、自分自身とファーストキスをするという、普通では考えられない経験をしてしまったのだった。