6:魔王さまと父
人であろうと魔であろうとミジンコであろうと、死ねば冥府へ送られる。
死者の魂は「浄化の山」を登ってその身を浄め、最後に山の頂上にある「忘却の泉」の水を飲む。
そしてきれいさっぱり、穢れも記憶も抜け落ちて真っ白になった魂は、再び転生するのだ。
だが魔王は、己が志を捨てぬため、制止する「境界の川」の渡し守を川へ突き落し、「忘却の泉」の水も飲まずに現世へ舞い戻ったのだ。
客観的に考えて、冥府の連中から恨まれても当然であろう。
件の渡し守が、現世まで追跡して来ても、仕方ないかもしれない。
彼女なりの全速力で逃げたまゆ子は、家に入った途端へなへなと座り込んだ。
眼鏡も斜めになっている。
「助かった……」
荒々しい息の合間に、それだけ呟いて扉にもたれる。
猫だましおよび、父直伝の催涙術が功を奏して、ウルリッヒから何とか逃げ切れた。
鈍足の彼女としては、かなりの僥倖であろう。
「これはすなわち……我に生きよと、世界を御する絶対存在が示しているのだろう……フフフ」
乱れた黒髪もそのままに、まゆ子はおどろおどろしく言った。
そして大きくのけぞり、天へ向かって高笑いをする。
「絶対存在すらも、我に恐れをなしているか! フハハハハハ!」
なおこれは、魔王時代からの悪癖だ。
おかげで勇者に居場所を知られ、一対多数のリンチに遭い、最終的に殺された。
「おや、まゆ子。帰ってたのかい?」
今も台所から顔をのぞかせた父が、高笑いで娘の帰宅に気付いた。
ぼっさぼさの頭で哄笑している姿を見られ、まゆ子の頬がさっと色づく。ずれた赤いフレームの眼鏡を整え、すまし顔で立ち上がった。
「う、うむ」
「足が笑っているけど、走って帰って来たのかい? 何かあった?」
父の指摘通り、まゆ子の足は生まれたての小鹿状態であった。カクカクの、内股気味に揺れている。
男手ひとつで娘を育てている父・将造は、存外聡い。黒縁眼鏡の奥の目が、心配そうにまたたいている。
まゆ子は危うく舌打ちをしかけて、ぐっとこらえる。
「何でもない……野良犬に遭ってしまっただけだ」
「大丈夫かい? 噛まれなかった?」
「逃げ切った。案ずるな」
丸いお腹を揺さぶって心配する将造を、右手を挙げて制する。
「ところでパパよ。今日は早いな」
こんな口調であるが、父親を基本的に「パパ」呼びである。魔「王」と呼ばれるだけあり、育ちは良いのだ。
将造は身にまとっていた、ボーダー柄のエプロンをつまんで広げ、うふふ、と笑う。
「取引先から、直帰出来たんだ。今日はパパが、腕によりをかけてご飯を作るからね」
「ほどほどにな」
冷めた娘の言葉にも、将造はウィンクをしていそいそと台所へ戻る。
まゆ子はそれを黙って見送ろうとしたが、ふ、と言葉が転げ出た。
「パパよ」
「うん、どうしたんだい?」
「犬を巻く際、催涙術が役立った。感謝する」
手短に礼を言うと、将造の表情は太陽のように輝いた。
扱いやすい奴め、と心の魔王は呆れる。
──そんな調子だから、いつまで経っても後妻が見つからないのだ──
だが今や、魔王も文字通り人の子。
父に酷く言えないし、文句を言いつつ料理も手伝ってしまうのであった。