5:魔王さまと探偵
噛まれる、というか食われる、とまゆ子は考えた。だが、体が動かない。
精神は数多の修羅場を知っているものの、体は殴り合いすら知らない乙女である。強面の犬相手に竦んでも、仕方がないというもの。
「きゃっ」
ために魔王は、実に女の子らしい悲鳴を上げて、目をつぶるしか出来なかった。
その小柄な体に魔界の犬歯が食らいつく、と思われたが、実際は違った。
黒妖犬の巨体を蹴り上げる足が、横から現われたのだ。
腹を蹴られ、魔獣はギャウン、と一鳴きして転倒した。
縮こまったまま、まゆ子は目だけを動かして足の主を見る。
足の主は、ロングコートを着込んだ無精ひげの男だった。
うらぶれた外見だが、表情は意外に人懐っこい。
先ほどの一蹴りによって乱れた、灰色がかった金髪を撫でつけて、まゆ子へ笑いかける。
「あんた大丈夫? 生きてる?」
眠そうな鳶色の瞳を見上げ、まゆ子はホッとすると同時に、不覚にもキュンとした。
慌てて、心の魔王が否定する。
──我は男であるぞ! 漢の中の漢、魔王であるぞ! 誓って、同性愛者であるわけがない! 我は孤高! 愛などいらぬ!──
心中で絶叫しつつ、礼儀として一応頭を下げる。
「仔細ない。助太刀、感謝する」
「なんか堅いな」
男は屈託なく笑う。まゆ子は少し、いや結構ムッとした。ドキドキを返せ、と心の乙女部分がプンスカする。
だが文句を言う前に、空気が変わった。
倒れていたはずの黒妖犬が、低くうめきながらも身を起こしたのだ。さすがは魔界の生物、ナイスガッツである。
男は笑いをひっこめ、腰を落とす。
しかし今度は、まゆ子の方が早かった。
両手を広げて術式を構築し、すぐさま黒妖犬へぶつける。
乾いた音が鳴ると、黒妖犬は物も言わずに倒れ込んだ。
その光景にキュッと、男の唇が引き結ばれる。
「殺したの?」
「まさか。睡眠術を施しただけだ」
魔王はすなわち魔界の王。同族を無闇に殺すわけがない。
まゆ子の即答に、男は白い歯を見せてホッと笑う。
「そりゃ良かった。出来れば生け捕りにして欲しいって、依頼されたもんで」
「依頼?」
今度はまゆ子が眉を潜める番であった。
眠る黒妖犬のそばにしゃがみ、その様子を確かめ、男は再び彼女の方を見る。
「俺は探偵のウルリッヒ。こいつを逃がした飼い主から、一般人を襲う前に捕まえてくれって頼まれてね」
「捕まえて、どうするのだ」
「さあ。売るんじゃないかな」
「なんと傲慢な」
まゆ子が顔をしかめれば、ウルリッヒも微苦笑する。
「探偵なんざ、仕事が選べる立場じゃないもんで」
人当たりのいい顔の割に、なかなか胡散臭い稼業を営んでいるようだ。
悪い人物ではなさそうだが、関わるべきではないだろうと判断し、まゆ子は再度頭を下げる。
「どちらにせよ、感謝する。それでは、犬を頼んだ」
簡潔に礼と、黒妖犬への気遣いを述べて、まゆ子は踵を返そうとした。
「ああ、ちょっと待って」
しかし立ち上がったウルリッヒが、さり気なく肩を叩いて制止する。挙動は素っ気ないが、その腕は巌のようにガッシリと、まゆ子を押さえつけた。
先ほどの蹴りといい、少し危ない輩かもしれない、と魔王の部分が警戒した。降ろしたままの右腕を軽く動かし、こちらもさり気なく術式を組み上げる。
眼光鋭くなったまゆ子を気にした様子もなく、ウルリッヒは空いた手を中空でひねった。
「あんたさ、これに見覚えない?」
おそらく魔導を使ったのだろう。彼の手の中に突然現れたのは、使い込まれた木製の櫂だった。
ボートを漕ぐどころか、まともに泳げないまゆ子に、見覚えなどあるわけがない。
「くだらない質問をする──」
んじゃない、と続けようとして、彼女は櫂の柄部分に彫られた文章を見とめ、硬直した。
『Abandon All Memories』
その文言は、嫌と言う程見覚えがある。
これは冥府の入り口や立て看板、あるいは役所のポスターにまで掲げられているものだ。
頬を引きつらせるまゆ子を見下ろし、ウルリッヒはにいっと笑う。
「やっぱり。術式を組み上げる正確さといい、魔獣の言葉を知っていた点といい、間違いないと思ったけどさ」
「貴様は、一体誰だ」
「見覚えないか、俺のこと? 本当に? ちょいと数百年前に、会ったじゃないか」
西日を受けて紅茶色に光る双眸が、じっとまゆ子を見据える。
恐々と、その顔を眺めて。
げっ、と彼女は一声うめいた。
冥府と現世を隔てる、「境界の川」へ突き落した、冥府のお役人。
水中で犬かきしながら烈火のごとく怒っていた、渡し守に間違いなかった。