34:魔王さまと小鹿
まゆ子はまるで
「足がガクガク震えちゃって……生まれたての小鹿だな、こりゃ。車椅子でも用意しようか?」
「黙れ小役人風情め! 我が覇道の前に、このようなナマクラ靴など敵では……っ」
言い終える前に体がぐらつき、咄嗟に前方のウルリッヒの胴へしがみつく。
一瞬、気まずい沈黙が流れる。
苦い顔を浮かべるまゆ子へ、ウルリッヒが振り返った。トレードマークでもある無精ひげを剃っているため、かなり若返って見えた。
「難儀してるようだけど、ハイヒールごときで」
ニヤリと見下ろされ、彼女は憤然と彼の脇腹を殴る。痛い痛い、とおざなりな反応が返ってきた。
それにもぷんすかしつつ、今度はぐらつかぬよう、腰を落とし気味に彼から手を離す。
続いてゆるゆると、召霊夜会場──学校のホールへと歩みを再開する。危うげな足取りに合わせて、オレンジ色の膝丈ドレスが揺れた。ドレスの下のパニエも、ゆっさゆっさとたわんでいる。
ウルリッヒもタキシードの皺を伸ばし、彼女の隣を歩く。これでも一応気を使っているらしく、時折彼女へ目配せをしていた。
召霊夜の決まり事として、パートナーはお揃いのコサージュを付けるというものがある。
まゆ子は手首に、ウルリッヒは胸元に、白いバラのコサージュを添えていた。
それを会場入り口で示し、中へと通される。
受付係の生徒が、眼鏡を外して着飾ったまゆ子と、軽く一回りは年上に見える男の組み合わせに、目を白黒させていたものの、見なかったことにする。
それより語るべきは、会場の様子。
有志の生徒によって飾られた場内は、見事、の一言に尽きた。
会場の高い天井からは、色とりどりの布が雲のように漂っている。浮遊の術式が使われているのだろう。
その間を、星明りを模した魔導が、縫うように飛び交っては瞬いている。
壁面は魔導で作られた木々や花で彩られ、床にはふかふかとした絨毯が敷かれている。
柔らかに明滅する薄明りの下、銘々着飾った生徒たちがダンスや、あるいはお喋りに興じていた。
きらきらとした光景に、まゆ子は呆けた。
──ほほう。かつて人間界で垣間見た、舞踏会のごとし──
乙女丸出しで見惚れていると、テーブル席に座っていた少女がぱたぱたと、勢いよくこちらへ駆け寄って来た。イルーネだ。
「マユコちゃんも来てくれたんですね!」
やや褐色気味の肌によく似合う、鮮やかなピンクのホルターネックドレス姿だ。黄色い小花のコサージュが、髪にあしらわれていた。
手を取ってはしゃぐイルーネの勢いで、また転びそうになりながらも、まゆ子は彼女の連れを見た。
椅子から律儀に立ち上がり、軽く会釈する眼鏡の青年だ。陰惨な嫌がらせやいじめとは、無縁そうな好青年に見える。
「いい奴そうじゃないか」
まゆ子の視線に気付いたらしい。ウルリッヒがこっそりと、耳打ちした。
小さく、彼女もうなずき返す。
「あれなら監視も必要ないだろう。俺も要らないな?」
が、こう続けられ、まゆ子はたじろいだ。大慌てでウルリッヒを見やり、会場を見渡し、もじもじとする。
──不要のはず、なのだが……──
内心の魔王も、たじろいでいる。
何せ今日は、普段はしないお化粧もばっちり決めている。いわゆる、おめかし状態なのだ。おまけにコンタクトだって装着している。
魔王にだって、「もったいない」の精神は、ある。
──そもそも、まだドレスを一言も褒められて……いや、脱線している場合ではないぞ、我よ!──
見れば早くも回れ右をしているウルリッヒの腕を、ぐいと引っ張った。今度はうっかりではなく、自主的な拘束である。
「マユコ?」
軽く目を見開いて、ウルリッヒは動きを止めた。
「……召霊夜は、死者の霊魂を慰めるための宴、と聞き及んでいる」
彼の問いかけには答えず、ぼそぼそと、きまり悪そうに言葉を紡ぐ。
「だから、今宵は、貴様も労ってやる。付き合え」
言い終わった途端、顔が真っ赤に染まった。
照れに照れている彼女を見て、彼も柔らかく吹き出す。
「ボートから突き落とした張本人が、よく言うよ」
「あれはその……悪かった」
「まさか、ウン百年越しに謝られるとは」
「ぐっ」
まゆ子が目を白黒させていると、言葉を切った彼の表情が、ますます柔らかくなった。
「でも、嫌な気はしないもんだ」
ほんのり苦笑を浮かべながらも、ウルリッヒは会場へ再び体を向けた。
だがまゆ子は、それどころではなかった。
柔らかで、色香すら漂う彼の笑みに眩暈を起こしていた。別の意味で、ウルリッヒのタキシードが手放せない。
真っ赤な顔で固まる彼女を、ウルリッヒは見逃さない。
たちまち、いつもの人を食った悪い笑みになる。
「どうした? 俺に惚れ直した?」
「そそ、そ、そもそも惚れておらぬわ!」
どもったので、その勢いは五割減である。
しかしそこへぐい、と第三勢力が割り込んだ。
イルーネである。一歩身を乗り出し、興味津々、と二人を交互に見やった。
「突き落したって、どういうことですか? マユコちゃんが、何かやらかしちゃったんですか?」
耳ざとい奴め、とまゆ子は顔をしかめる。
一方のウルリッヒは外面の良い笑顔で、ぺらぺらまくし立てた。
「そうそう。初対面で、二人きりでボートに乗ってる時にね。背後からドーン!と押されてさ。いやね、ほんと、あの時は死ぬかと思ったよ」
──冥府の役人なのだから、半分死んでいるようなものだろうが!──
「それが、マユコちゃんとウルリッヒさんの出会いですか?」
「うん。ベタベタなラブコメみたいだろ」
「はい、ロマンチックです」
出会った当時は筋肉だるまと小役人だったことを、イルーネは知らない。そして今後も、知らずにいるだろう。
傍目には和気あいあいとした三人を、会場の隅から見つめる視線があった。
それこそ亡者のような顔色をしたルロイが、三人──殊にまゆ子をじりじりと見つめていたのだが、それどころではない彼女は全く気付かなかった。




