11:魔王さまと臨死
夢の中で、まゆ子は薄闇の世界にいた。
目の前には果てのない大河。その河の向こう側には、巨大な山がそびえ立っている。
振り返れば、きらきらと輝く門戸が見える。
「なんとも見覚えのある光景、であるな」
はて、いつのことだったか、と彼女が首をひねっていると、木の軋む音がした。同時に、水の波打つ音もする。
改めて大河へ視線を戻すと、粗末な木製のボートが接岸していた。
使い込まれた櫂を巧みに操るのは、灰色のフードを目深に被った男。
彼は慣れた調子で岸へ降り立ち、ややがに股気味に肉薄して来る。
この男にも、どこか見覚えがあるような……と考えていると、彼はフードをわずかにずらした。
紅茶色の眠そうな瞳と、真正面から目が合う。
途端、まゆ子の喉がひぃっと鳴った。
「まだだ! 我はまだ、死んではおらぬぞ!」
腰が抜けてへたりこみながら、まゆ子は声を振り絞る。
一方の、本業の出で立ちに着替えたウルリッヒは、フードを全て脱いでニッと笑った。
「遠慮するなよ。安全運転で、冥府まで連れて行ってやるからよ」
口元は笑っているのだが、目は笑っていない。捕食者の眼差しである。
──我にはまだ、なさねばならぬことがある! 志半ばで、二度も果てるわけにはいかぬのだ!──
涙をこらえるまゆ子の脳裏で、魔王は蒼白になりながら首を振っていた。
まゆ子も必死に、代弁する。
「我はまだ……し、死ねぬのだ!」
「通算五十年以上生きてるだろ? もう十分じゃないか」
「今の平均寿命は八十年だ!」
「細かいこと言うなよ。大して変わらないって」
大きな櫂を肩に乗せ、ウルリッヒは呆れ顔だ。
ぶんぶんぶん、と遠心力にて吹き飛びかねない勢いで、まゆ子は首を振る。
「否! ま、まだ、ツェラー市名物のタルトも! リースリング市のオニオンスープも! 我はまだ、一口とて食しておらず!」
「女子か、君は」
ウルリッヒは半笑いである。前世の半裸姿を知っているのだから、仕方ないかもしれない。
死にたくない一心で、恥も外聞も捨ててまゆ子は叫ぶ。
「今は正真正銘の女子! 我は女の子である!」
そして脱兎のごとく、光る門戸めがけて走った。門の柱には「一切の記憶を捨てよ」と、あのキャッチコピーが彫られていた。
「我は死ねぬのだぁぁぁぁっ!」
絶叫と共に、まゆ子は蘇生した。
乏しい腹筋を最大限に使い、寝転がった体勢からガバリ!と、上半身を起こす。
そしてその額が、心配そうにのぞき込んでいたクロディーヌの顔面へ、正面衝突する。
「うぎゃっ!」
澄ました容姿に似合わぬ悲鳴を上げ、クロディーヌはのけぞった。
両手は顔面を覆っており、指の間からは、涙ぐむ青い瞳も見えている。
「そんなっ、勢いよく、起きなくてもいいじゃない!」
うわずった声と同時に、鼻血も一筋流れる。
彼女とは犬猿の仲であるまゆ子も、思わず罪悪感に襲われた。
「す……すまぬ」
珍しく、素直に謝るまゆ子であった。
魔王時代にも経験のないことだ。