アリアは思い悩む
アリアは兎にも角にも自分の思考への気恥ずかしさを紛らわせるために下らないことを考えることにした。
自分がニウニに抱いている家族愛のような感情は、父性によるものだろうか、それとも母性なのだろうか。感情の面で、より長く親しんだ男性として感じ取っているのか、今現在の性別である女性として感じ取っているのか。
庇護欲、とでもいうのだろうか? なんとなく守りたいなどとは確かに思う。同時に、守る必要などないくらいに育って欲しいとも思う。触れて、話して、褒めて、育てて、兎に角、彼女が生きていくことに関わりたい、傍にいたい。
母性とも父性ともつかないこの心持は何だというのだろう。そして、僅か一月ばかりの触れ合いでしかないというのに何故そんなことを思うのだろうか? まさか記憶が繋がる限り繋げれば、丁度生前の娘がニウニと同年代程度だからだとでもいうのか。生前に未練がないなどと言えば嘘にしかならないけれど、今こうして生きている自分と共にいる少女にその面影を重ねているのだろうか?
言葉にするなら、言いようもない親愛をニウニに抱いているのは確かではある。だが、その感情は前世に残してきたそれの代替物だとでもいうのか? アリアには、もしそうならニウニに抱いているこの感情が彼女を酷く辱めているように思えてならなかった。
自分は、彼女自身ではなくその向こうに遺してきた妻子の姿を思い描いているのだろうか? アリアは珍しく苦悶する。自分に対して、得も言えぬ不信感を感じて。
確かに切欠は自覚もなく心に引っかかったそれだったのだとしても、アリアがニウニに感じる親しみは紛れもなく彼女自身に対してのものである。そしてそれとは別に、それと同じように生前の妻子に対しても思慕を抱き続けていた。もう届くこともないその想いが、寂寞とそれでも強く彼女の心を囚えて放さないからこそ思い悩む。
彼女は自身を高潔たる聖者などと思うことはできず、どちらかというと我欲に塗れた俗物だと思い込んでいる。だからこそ、ニウニ自身に抱いている想いに気付かずにいた。純然たる切愛に目を向けることもなく、それを覆い隠す自己の浅ましさを幻視しながら。
なればこそ、アリアはそのような感情を表に出すことがないよう努めることにした。
例えるなら仮面であろうか。清廉な心根に気付くこともなく、その上に覆いかぶさる身勝手な幻想を覆い隠そうと親愛の仮面を作り上げる。
アリアはニウニを盗み見る。既に魔術を学ぶことに思いを馳せているのだろうか、何かを思い描くように浮ついた言葉を口にする少女と今更距離を置くようなことはできないだろうと考えながら。
この屋敷での生活に期待を抱いていても、新たな環境に不安を覚えないはずがない。今は上手く期待が上回っていたとしても、ここで自分が急に距離を置こうものならその均衡は容易く悪い方に傾くだろう。
アリアは考えながら、改めて決意する。ニウニに対する好意を嘘にはしない。仮に今感じているそれが生前の家族に向けた偽りのものだったとしても、同じだけの親愛をニウニにも注ごう。ただそれだけを考えながら、ニウニの言葉に相槌を打つ。白い精霊がその姿を不思議そうに眺めていることにも気付かないまま。
「っと、そろそろ時間だね。食堂行こうか」
時刻は夕食の二十分ほど前。それに思い至りアリアは思索を中断した。今から食堂に向かえば込み合う前にテーブルの席につくことができるだろう。
「私もついていって良い?」
アリアの言葉に白が反応する。アリアはバスケットを取り出して開いた。
「もちろん。でも、ここから出てもあんまり喋ってもダメだよ? それでも良いなら一緒に行こう」
「わかった。他の子たちと話してるね」
白がアリアのバスケットに滑り込む。掃除用の道具が入っているそれは、食堂に持って行っても何ら不自然ではない。
ただ、バスケットを持たずにエプロンドレスへと掃除道具を忍び込ませている使用人が大半であった。掃除道具はマス・ミエットとクロス数枚のみで、他の仕事道具を持っていなければわざわざバスケットを持ち運ぶほどの大きさでもないからだ。
アリアは白の言葉の意味を推し量る。精霊同士の会話はイメージや感情の交換だという。そういった手段で物音を立てずに会話するということだろう。
「うん。お願い」
もし可能そうなら、精霊の言葉を聞き分けるような方法を探っておいた方が良いだろうか? アリアはその思い付きを評価しながらニウニの様子を見た。アリアと同じくバスケットを持ち、準備ができたようだ。
「行こう。早くしないとまた行列ができそうだしね」
「うん。早くご飯食べに行こう」
変わらず食い意地を張った様子のニウニに苦笑しながらランプを消して、三人で部屋を出る。
アリアは頭の中に精霊の言葉を聞けるようになるメリットを並べた。精霊の意思を感じ取るということ、その意味である。
まず第一に、音や声を発さず会話ができるようになることだろうか。これができるようになれば、人目のある場所でも精霊たちとの会話が可能になる。
更に精霊の記憶にあるイメージを見ることができたなら、過去の出来事や周囲の状況を動くことなく探ることができるようになるかもしれない。もしそうでなくても、潜り込むということにこれ以上ない適性を持った斥候を手に入れることができるはずだ。
精霊に物理的な干渉は不可能である。仮に見つかっても脱出も突破も容易い。もし今後本当に逃亡の必要に駆られるような事態に陥れば、その目はこれ以上ない助けになるだろう。
最後に、少し前に考えた通りそれが魔力で精霊にイメージを渡すという行為と同等の会話手段なら、精霊の会話を聞けるようになれば人の魔力から何か情報を得ることができるようなるのではないか? 少し突拍子もない思い付きではあるが、そう的外れなことだともアリアには思えなかった。
「お、アリアちゃんとニウニちゃん。仕事はどうだった?」
不意に背後から声が掛かり、アリアは思考を中断した。
振り向いた先には、アリアたちと同様に普段着に着替えたリノアの姿があった。そのウサギのような耳は興味を押し隠すように先端が僅かに身動ぎしている。
「こんばんは、リノアさん。仕事は……なんとか無事に済ませられました」
「こんばんは。難しかったですけど、リアに手伝ってもらって」
アリアの後にニウニが続く。その様子にリノアが頷きを返した。
「そう。多分裁縫だよね? あれは苦手な子が多いから。ニウニちゃんは大変だと思うけど、あれができるようになれば後はそんなに難しい仕事ないから頑張ってね」
「はい!」
「ありがとうございます」
話しながら足を進める。
「次の週は、今度はアリアちゃんが大変かも。ニウニちゃん、助けてあげてね?」
リノアの言葉にアリアは休み明けの仕事を推測する。体力仕事、それも恐らく荷物運びの類だろうと当たりをつけた。
「もちろんですよ」
「荷物運びか何かですか?」
「どうかな? それは始まってからのお楽しみということで」
リノアはアリアの質問をはぐらかしながら悪戯っぽく笑う。
アリアはざっと重労働に分類されるだろう仕事をリストアップした。荷物運び、浴場の掃除、洗濯、庭仕事、その辺りだろうか。確かに体力には不安があるが、だからといってそれだけで逃げ出すようなつもりはアリアには一切ない。
アリアが少しばかり覚悟を決めていると、いつの間にか食堂まで到着していた。
そのままリノアを含めた三人でカウンターに並ぶ。アリアは予てからの疑問をリノアに問うことにした。
「そういえば、リノアさんは一人部屋なんですか?」
「うん、私は一人部屋だよ。相部屋だった子が嫁いじゃってね」
この屋敷にも結婚退職のようなシステムがあるらしいとアリアは意外を見つける。そもそも、ここまで閉鎖された空間から嫁ぐというのもなかなかにエネルギーを使うことではないだろうかと思いながら。
「アリアちゃん、意外そうだね?」
「はい。ちょっと意外でした」
リノアは面白そうに耳を揺らせ、アリアを覗き込んだ。
「休みの日なら外に出たりできるからね。それと、この屋敷の子って案外モテるんだよ?」
アリアは得心する。この屋敷の使用人なら教養も備えているだろうし、家事の類も完璧だろう。所作に文句の付けようもない。言ってみれば、庶民からすれば高嶺の花にすら思えるのかもしれない。
「ほら、可愛い子多いでしょ? 身嗜みにも気を使ってるし、モテモテだよ」
アリアは不意打ちを受ける。リノアが口にしたのは真面目に考えたのが馬鹿馬鹿しく思える回答だった。アリアは少しリノアに向ける視線がじとりと湿り気を帯びたようなものに変わっていくのを自覚する。
「珍しい目だね。大抵の子はこの話すると夢見がちさんになっちゃうんだけど」
リノアが悪びれた様子もなく言い放つ。確かに年頃の娘であれば殊更に好む話題であるかもしれない。だが、アリアの内面はそういうものに憧れるには成人男性の精神性が残りすぎていた。
「まだそういう年頃じゃないので」
「そうですよ。リアは私とずっと一緒です」
それはそれで誤解を生みそうなニウニの言葉に、アリアは咄嗟に振り返った。目に映るニウニの表情からは特に含むものが読み取れない。どう返したものかと考えあぐねているとリノアが先に口を開いた。
「ははは、アリアちゃんはここから出なくてもモテモテだったか。羨ましいね」
笑いと共に囃すリノアに向けた目は、やはりじとりとしているだろうなとアリアは他人事のように考える。
「今日のメインは牛の赤ワイン煮込みかな? うーん、ワインがもったいない」
面白がりながらもあえてアリアの様子に触れようとしないリノアが露骨に話題を変えてくる。アリアもこれ以上続けると致命傷にも似た傷を受ける気がしてその口車に乗ることにした。
「リノアさん、ワイン好きなんですか?」
「ワインだけじゃないけどね。好きだよ。飲むのも飲ませるのも」
自分の顔を覗き込んでくるリノアにアリアは警戒を強めることにしておいた。知らぬ間に飲まされるのも、飲まざるを得ない状況を作られるのも御免だ。
少々なら問題はなかろうが、未成年での飲酒が身体に与える影響というものを知らない訳でもない。そういう意味では、水が飲めずにアルコール濃度の低い酒を常飲するような必要がないこの国の風土は有り難かった。
アリアは少なくとも二次性徴が終わってしばらく経つまでは酒を飲む気にはならない。煙草など論外だ。煙が立ちそうな場所に立ち寄る気もない。
そんな訳で、隙を窺っているような様子のリノアを警戒対象として頭に焼き付けておく。特に酒好きな人間がいる家などでは、面白半分に子供に酒を舐めさせる大人もいるのだ。リノアからはそんな種類の匂いを感じ取った。
アリアは別段、生前に酒が嫌いだったという訳ではない。結婚するまでは誘われれば飲みに行ったし、休日には自宅に置いている酒を飲んだりもしたものだ。だが、分別を忘れる程に酒が好きだった訳でもない。少なくとも飲んでも問題がないだろう年齢まで飲酒は控えることに決めていた。
「私もニウも大人になるまで飲みませんからね?」
「お堅いねぇ。あんなに美味しいのになんで我慢なんてするの?」
「美味しいんですか?」
ニウニがリノアの言葉に釣られる。ニウニの耳が興味深げに探るようにリノアの方に向いていた。リノアは間違いなく遊んでいると確信しながら、アリアはニウニに釘を刺しておく。
「ニウ、大人になるまで飲んじゃだめだって決まってるでしょ? あと五年くらいは飲ませないからね」
「うん……」
少ししょんぼりと外に傾いたニウニの耳を見て、アリアはリノアに向き直る。
「それじゃリノアさん、また今度。あんまりニウを誘惑しちゃ嫌ですよ?」
「大丈夫、取らないから安心して。アリアちゃん、ニウニちゃん、またね」
「はい、また今度」
少しにやついているリノアを見送り、アリアもテーブルへと向かうことにする。
テーブルには既にエモニとホズンの姿があった。食堂の入り口には、カナルがルイナの手を引いてカウンターへと向かう姿が見える。カウンターには行列ができ初めていた。
二度も混雑するカウンターに並んでうんざりしたのだろう。皆、少し食堂に入る時間が早くなってきている。
そのまま足を進めながら、アリアは考える。
まず、エモニには濫り歌わないよう釘を刺す必要があるだろう。人の形をした精霊があちこちを飛び回れば確実に騒ぎになってしまう。しかも、先の四人の例を鑑みるに人の形になった精霊はその原因になった人物に似た風貌になるようだ。そうなれば、自分かエモニが嫌でも注目を集めることになってしまう。それを防ぐためにも、まず不用意にその数を増やさないようにするべきだ。
次に、仕事や立ち居振る舞いを学びたいか聞くべきだろう。教育を施すにしても、本人が望まない限りそれ程高い効果は生まないのだから。もし遠慮なり敬遠する素振りがあれば、まず学びたいと思わせるところから始めなければならない。
アリアは頭の中のメモを広げる。
ニウニには、落ち着き、知識を蓄え、それを上手く使えるように考える術を教える。同時に、その場で使うべき言葉遣いや所作も教え込む必要があるだろう。
エモニには、自信をつけさせるための答え合わせが近いだろうか。もしくは、手本になるような誰かを見つけることだ。迷った時に物事を決定するという能力は、知識とは別に自信や自負を要すものである。
ホズンには、ニウニと同様のことを教えながら、自分の力を上手く御すことができないかもしれないという不安を取り除く方法を取るべきだろうか。
三者三様。当然ではあるものの、全員に適した形を模索しながら教育を施さなければならないだろう。少しばかり長期的な計画になるかもしれないが、できるだけ早い段階でも効果を発揮、できれば自覚できる方法はないものだろうかと考えを巡らせる。
アリア自身少し欲を張り過ぎているようにも思えたが、モチベーションというのは兎に角その意味や意義を見せなければ外から維持することが難しいのだ。
なかなかの難題に頭を悩ませながら、アリアは自らの席へと腰を下ろした。