アリアの故郷
アリアは記憶を再生する。湧水の魔術を縫い上げたあのクロスを再現するために。
歌いながらクロスを縫い上げていると、二人の精霊がクロスの上を飛び回った。それが何かの模様に見えたからこそ、その形に沿って刺繍を入れたのだ。
刺繍を入れるときに歌った歌は、青い精霊からの要望を受けた歌だった。歌詞はこの国の公用語ではないが、誰かのために服を縫う女性の心境を歌ったものだったはずだ。
刺繍には念動の魔術と、二色の糸を使った。青と、緑。水と生命力の精霊の色だ。自分がしたことはそれだけのはずだとアリアは結論付ける。そして、一つずつ条件を確かめていくことにした。
まず、確実に条件が足りないと思われる形だけを真似た刺繍を入れる。程なく縫いあがり、そこに魔力を流し込んでみるも、その魔力はすぐに霧散するのみだった。
当然だろう。縫うときに魔力を込めようとすらしていなかったのだから。これで分かったことは、この刺繍の模様そのものが魔術における精霊の役割を担うものではないというところだろうか。
次に、糸に魔力を込めて刺繍を縫い上げる。青と緑の糸を針に通し直し、アリアは口を開いた。青と緑、双方の精霊に釘を刺しておく。
「魔力を込めて縫うけど、後を飛ばないでね?」
「わかった。でも、次の歌を聞かせてよ」
「次が縫い終わるまで歌わないよ? でもその後ならまた歌う。どの歌が聞きたいか考えておいて」
「仕方ないなぁ。次は私が頼んでも良い?」
「もちろん」
青い精霊が歌を催促し、緑の精霊が次の歌を決める権利をまんまと手中に収める。特に深くは考えず、アリアは布に針をつき立てた。
アリアにとって歌いながらの作業などそれほど難しいことでもない。そして彼女の体はどうやら生前より余程喉が強い。数時間程度なら飲み物も飲まず歌い続けることもできる。
縫い始めてすぐに違和感を感じて、魔術の先の魔力に意識を伸ばす。針から離れた途端、魔力が散っていることを理解する。魔力の込め方を可能な限り一枚目を縫っていたときに近付けながら、今は肩に座っている精霊へと魔力を渡した。だが、魔力はすぐに散って行く。
これでは精霊が糸に触れる間もないだろう。縫い方の違いを洗い出す。恐らくという但し書きが付くが、歌、だろうか? 歌いながら縫うことで魔力を糸に纏わせることができるものと仮定して次に進む。
「どんな歌が良い?」
約束通り、アリアは緑の精霊に次に聞きたい歌を尋ねた。
「海の歌を聴いてみたい」
「いいよ。ちょっと待ってね」
精霊の要望に沿う歌を思い出す。これまでアリアが歌った歌は全てこの世界の歌である。
生前の歌を知らない訳ではないが、まさか日本語や英語の歌を歌う訳にもいかないだろう。英語ならどこか遠くで使われている言葉と言い張ることもできるかもしれないが、日本語は発音そのものからして違いすぎる。どこの言葉なのかなどと問われれば答えようもないし、そもそももう九年以上前に聞いたきりの歌ばかりで、アカペラで歌いきる自信もなかった。
歌は全て今生の母の歌声を聴いて覚えたものだ。当時はそれ程気にすることもなかったが、思い返すとよく歌を歌う人だったとアリアは思う。その歌声は母の故郷で使っていたものだという言葉と相まって聞惚れる程に美しく、一度聞いたものはどれもアリアの記憶に深い印象と共に刻み込まれていた。
歌を記憶から拾い終え、アリアは歌いだすと同時に念動の魔術を発動した。布に糸を通しながらその糸の先に意識を向ける。
やはり歌いながら縫った糸の魔力は散りにくくなっているようだ。だが、それでも徐々にその魔力を発散している。それを目で追うと、一瞬僅かな靄が立ち上っているような光景を幻視した。すぐに霧散したその幻視が見間違いかともう一度しっかりと見ても、もう見ることは叶わない。
気を取り直して針の先に意識を向ける。歌を歌い上げると同時に刺繍を縫いつけ終えた。
「やっぱり、だめみたいですね」
魔力を通しても水など湧いて出るはずもない。魔力の通りも湧水のクロスとは違うように思える。ただし、歌わずに縫った物とも僅かに違う。
「形だけでは意味がない、ですか。歌いながら縫った糸から魔力が出ていたようですが、何か違いはありましたか?」
クレアが確めるように尋ねる。クレアは離れた場所の魔力を探ることができるようだ。ただ、魔術のすぐ隣で立ち上る魔力は知覚し難いのだろうか?
「魔力を込めて縫ってみてもすぐに散ってしまいました。歌いながらだと、少しだけ散りにくなるみたいですね」
「そうですか……エモニさん、カナルさん、一度歌いながら縫ってみなさい」
クレアは既に渡された布の分を全て縫い終えたカナルと、あと二枚ばかりで縫い終えるエモニに指示を出した。
「はい」
「わかりました」
そしてクレア自身も歌いながら自分が縫ったクロスに刺繍を始める。三人が歌い始めたのはそれぞれに別の歌だ。
クレアはアリアが湧水のクロスを縫い上げたときに歌っていた歌を。
エモニは子守唄、だろうか? この国の公用語で歌を歌っている。
カナルが歌っているのは公用語でもアリアの母が歌っていた歌のものとも違う言葉の歌。彼女の故郷の言葉で歌われた歌だろうか? ただ、それ程遠い言語という訳でもなくなんとなく意味を理解できた。恐らく、船歌である。
アリアはそれぞれの歌を聴きながら、ニウニとホズンに目を向けた。
二人とも、まだ渡された布を半分程度残している。何度かこの刺繍を試した後は二人を手伝うことになるだろう。時刻は昼下がり。手を貸さなければ、夕食の時間には間に合わない。かといって今すぐに手を貸しては夕食までの時間に二人がすることもなくなってしまう。既にクレアは次の仕事を、などとは考えていないだろう。あのクロスを縫い上げる前であればそうなっていただろうけれど。そこまで考えて、アリアは歌う三人の様子を見る。
まず、アリアはクレアを見た。またも一瞬靄のようなものが見えたが、何度目を凝らしても再び見えることはない。
あの靄は、魔力だろうか? アリアは思い出す。自分の体の中の魔力を自覚した頃、扱い方を覚えようとしていた頃、一瞬だけそれが分かったような気になるも次の瞬間には上手くいかない歯痒さ。その感覚と似ている。そう考えるのであれば、まさか自分は魔力を視覚できるようになりつつあるのだろうか?
そんな考えを一度置き、クレアの様子を窺う。淡々と、クロスを縫い上げていた時と変わらない様子で糸を布に通している。アリアと同じように、念動の魔力を用いて。柔らかく優しげだが凛とした佇まい。ただ、なんとなく上手くいっていないのだろうと思わせるような空気が感じられる。
次にカナルへと目を向けた。彼女は釈然としない表情で刺繍を入れている。この行為に疑問を持っているという訳ではなく、上手くいかないことに納得できないような印象だ。
最後にエモニ。彼女は穏やかな顔でクロスの端に糸を通している。子守唄を故郷でよく歌っていたのだろうか? アリアはなんとなくそんなことを思った。焦るでもなく探るでもなく縫い進める様子は、三人の中で一番アリアが刺繍を入れていた様子に近い。
一通り様子を見て、アリアも次のクロスを手に取った。今度は手作業で縫うことにしたのだ。
針に糸を通し、魔力を通す。その魔力はたちどころに霧散する。手作業でも歌う必要があるようだ。
アリアは次の歌を探した。ぐるりと視線を巡らせると、カナルの肩に止まった紫の妖精と目が合う。
「歌うの?」
「うん。何を歌うか決めてるの」
紫の精霊がカナルの肩から飛び立って、アリアの肩に降り立った。
「冒険の歌が聞きたい」
「いいよ。ちょっと待ってね」
歌を思い出しながら、他の精霊の様子を探る。青はカナルとエモニを見比べ、緑はアリアの手元でクレアを眺めている。白は、クレアの手の上から何か言いたげな視線をアリアと紫の精霊に向けていた。
思い出した歌を口ずさみながら、アリアは手で刺繍を始める。糸に魔力を纏わせるには、歌自体は何でも良いようだ。手作業か魔術での作業かもそれほど関係がない。ただ、やはり魔術を使った方が作業が早い程度だろうか。二本の針で同時に縫えるのだから当然だといえば当然なのだが。
その分の作業時間を考慮して、今回は少し長い歌を選んだ。
内容は、一人の少年が老人になるまで世界中を旅する話。最後には故郷に戻り、自分で建てた家で孫や曾孫に看取られるという話。冒険というからには危険な場所や危険な場面も多く、初めて聞いた時には年甲斐もなくはらはらしたものだった。尤も、肉体年齢という意味では年相応の反応だったのだろうが。
などと考えている内に、刺繍を縫い終える。魔力を通すが、やはり湧水の魔術など発揮することもない。
アリアはこれまでの検証で得た情報を拾い上げ、並べる。
縫うときに歌っていた歌によって、クロスに魔力を通す時の感触が違う。歌わずに魔力を通してもただ縫い付けただけの刺繍と感触が変わらない。
そして、縫い上げたクロスに湧水の魔術を縫いこんだ時に歌った歌を歌いながら刺繍を施してもやはり感触が違う。
考えられる可能性は、残るところ精霊による何かしらの働きかけが有力だろうか?
刺繍を縫い終えたクレアとカナル、クロスを縫い上げたエモニの話も聞いておくべきだろう。
感触はそれぞれ特に変わったところのないクロスが三枚。歌うことが魔力を込めるキーになっている訳でもないようだ。
「ただ歌えば良い、という訳でもなさそうですね」
考えているとクレアが声を上げた。
「そうですね。どこが違うんでしょう?」
アリアは今考えていることをそのまま口に出した。結論を急ぐにも情報が足りない。自分だけが歌で起こす変化とは何か。今後それらしいものを見たとき、一つ一つ解析し、記憶し、並べて一致する点を紐付けていくべきだろうと頭に焼き付けておく。
「違いは、よくわかりません」
「うん。アリアちゃん、他に何か特別なこととかしてない?」
エモニとカナルにも特に気付いたことはなさそうだ。
「うーん、何も特別なことなんてしてないと思うんですけどね。魔力の込め方も、歌ってる時と歌ってない時で変えてませんから」
なおもしきりに考え込んでいるカナルを余所に、アリアは次の工程の検証に移る。
アリアは白い精霊を手招きしながら青と緑の精霊に語りかける。
「次は糸の後をさっきと同じように撫でてもらって良い?」
「歌は?」
「さっきのと同じのが良い」
「それじゃ、さっきと同じ歌にする」
白い精霊の問いかけに乗じて青い精霊が歌を決めた。白は先ほどからずっと歌を頼み損ねている。アリアは、次は白の聞きたい歌を歌おうと決めて針を走らせた。
先ほどとできる限り同じように、クロスの上を飛び回った二人の精霊の姿を思い返しながら歌い、糸を走らせる。針から離れた糸から感じられる魔力が端から塗りつぶされているような感覚。しかし、先ほどの感覚とは僅かに様子が違うとも感じ取っていた。
今回も失敗するだろう。確信めいた感想を抱きながら、刺繍を入れ終える。
刺繍を縫い上げたクロスに魔力を流し込んだ。やはり水が湧き上がることはない。だが、魔力を込める感覚は他のクロスよりずっと湧水のクロスに近い。
歌が原因だろうか? それとも精霊に撫でられたから何かが変わっているのか? そんなことを考えながらも次に試すことを考える。
効率を考えるなら、次は糸を精霊に撫でさせず同じ歌を歌って縫い上げ、感触の違いを確認したいところではある。だが、特に急いでいる訳でもない。一度白の聴きたい歌を歌ってやり、その後に試したい歌を歌えば良い。アリアはそう考えながら白に問いかける。
「次はどんな歌を聴きたい?」
誤解など生み様もないほどに白に向けて聴きたい歌を聞く。白は少し驚いたようにアリアを見つめ返し、少し考えてから口を開いた。
「アリアが生まれたところの歌」
「良いよ」
少々予想外ではあったが、アリアはすぐに歌い始めた。
もう滅びてしまった村々、街と、アリアが生まれ、育った屋敷。そこに住んでいた人々の中には当然のように今生のアリアの両親の姿がある。
長閑に畑が広がる風景。秋になると僅かに頭を垂れる金色の麦の絨毯。丸く実を実らせるオリーブ。その少し前には熟した葡萄が屋敷に運ばれる。
朝、家の軒先で鶏に餌をやる子供たち。牛を連れて畑に出る青年。馬をブラシでくすぐる老人。糸を紡ぎ、機を織る娘たち。悪戯小僧を追い掛け回す婦人に、人の良さそうな店主がみな声を掛け、食べ物を渡してくる商店街での出来事。
歌に歌った内容は、そのままアリアがつい半年ばかり前には当たり前に享受していた日常だった。
アリアも、元は領主の娘である。守らなければならなかった風景、守れなかった人々、守りたかった思い出に僅かに胸を焼かれながら、糸を躍らせる。
あの時、自分はどうすれば良かっただろう? そんなことを考えながら、もう懐かしさすら感じる故郷の情景を思い出しながら。
「アリアさん。貴女の故郷は、その……」
「はい。半年前に滅んでしまいました」
歌い終えると同時にクレアの口から零れた言葉に答える。隠し立てするつもりもない。出自など、もはやアリアにとってどれ程の価値もなかった。そんなもので空腹を満たすこともできないし、心身を休める寝床も見つからない。当然のように、満身創痍で今にも倒れそうなところを人ら攫いに捕らえられたからといって助けてくれる誰かが現れることもないのだ。
憎むことも、愛することも、誇ることも、恥じることもない。今はもう存在しない領地の主家などという肩書きに、一欠片の価値も見出すことができなかった。
ただ、そこでの記憶となれば話は変わる。思い出すたび、もう戻ることはできないのだと身を切るような切なさこそ感じるものの、それを忘れたいなどと思うことはできない。彼女はあの場所を守りたいと思った。だからこそ必死に知識をつけて、隠れながらも魔術を磨いたのだ。
貴族と平民という垣根など打ち壊してでも世話を焼いてくれた、あの街の人々と交わした言葉は今も覚えている。人が良い人々、お調子者たち。都会に夢見たり、恋に夢見たり、遊ぶことに夢中で、たまにこっぴどく叱られたりする子供たち。皆が大らかで、皆が家族のようだったあの街の人々。
輝かしさすら感じるあの黄金のような日々を、できることなら何に代えても取り戻したいと思う。それは、アリアの紛れもない本心であった。
「ごめんなさい……」
白い精霊が声を上げた。
「謝らないで。私はあの街が好きだったから。うん、こうやって思い出せるだけでも、やっぱり大好きなんだ。思い出させてくれてありがとう」
哀愁を振り切るように、アリアは表情を笑顔に作り変えて言葉を返す。
あの街を取り戻すなど、考えるだけ無駄なことだ。領地を取り返し、復興はできるかもしれない。それでも、失われた命が戻ってくることなどないのだ。自分のようにもう一度生を、など、どれだけ奇跡が積み重なれば起きるというのだろう?
「そんなことより、次も頼むね」
「うん」
二度とは帰ることのできない二つの故郷を想いながら、アリアは糸を遊ばせる。
それでも、もし故郷のあの姿を甦らせることができるなら……。
そんな想いが心のどこかに引っかかるのを感じながら。