第四話
そんな微妙な空気に居心地悪く感じてヴィルダーは身じろいだが、すぐ傍で同じ空気に身を置いているはずのアリエラは全く意に介していないらしい。
「ヴィルダー、ダーレとゲルトルーデです。魔王の、つまりあなたの側近です」
アリエラがにこりと笑って二人を手で示した。
「ダーレ・ブラオンです。ヴィルダー様」
ヴィルダーは耳に届く声の低さに、その主ダーレが男であることを確信した。直感は外れていなかったようだ。
銀髪の方が優雅な礼を取れば、青髪も渋々といった風情で礼をとった。こちらはどちらかといえば正確に礼を取ったというふうで、優雅さはないがきびきびした動きはどこか好感が持てた。尤も視線の方は相変わらず刺々しく、未だにヴィルダーを貫いていたが。
「ゲルトルーデ・ヴォルフだ」
耳に届く声は涼やかで、凛とした、という形容詞がよく似合う。
やはりゲルトルーデにそこまで睨みつけられるだけの理由が分からないヴィルダーだったが、もしかしたら一国一城の主である魔王が記憶喪失などになり政務に追われてしまったのかもしれない。と思い立つ。
部下であるとなれば、当然尻ぬぐいは彼女らの役目となるはずだ。しかも、アリエラも側近ではあるが、彼女はヴィルダーに張り付いていて政務の手伝いに回れたか怪しい。二人で国を回すのだとしたらかなりの重労働だろう。銀髪の方も顔には出さないものの何かしら思うところがあるかもしれない。そう考えると途端にヴィルダーは申し訳なさでいっぱいになった。
迷惑をかけてしまった。そしてまだ記憶がない今、更なる迷惑をかける可能性は高い。ヴィルダーの頭の中を冷静な声が響く。
迷惑をかけてはいけない。もしもヴィルダーが使えないと思われたら――。
「ヴィルダー? 大丈夫ですか? 真っ青ですよ?」
暗い思考に嵌まりかけたヴィルダーだったが、アリエラの発した声にはっと我に返る。彼女に向き直れば、真摯な表情でヴィルダーを心配している。またもこんな顔をさせてしまった。アリエラには心配をかけてばかりだ。そんなアリエラに対しても沸き上がる罪悪感を意志の力で押さえ込み、ヴィルダーは微笑を貼り付けた。
「――いや、なんでもない。大丈夫だ」
ヴィルダー自身、いきなり悲観的に走り出した己の思考に僅かな疑問を抱きはしていたが、そこには今は構わないことだ、と捨て置くことにした。
「だったらいいですけれど……。なんでも頼ってくださいね?」
まだ何か言いたそうにしつつも、結局は問わないことを選んでくれたようだ。そうした彼女のささやかな気遣いが今のヴィルダーには嬉しかった。
そうして一呼吸置いてから、アリエラ自身も再度の自己紹介をしてみせた。アリエラが取った礼もダーレのような優雅な礼である。
「アリエラ・シュルツェですわ」
それからアリエラが名乗るものだから、この中で名乗り上げていないのは己ただ一人となっている。まだ病み上がりで満足に体が動かないから礼を取ることこそ叶わないながらも、ヴィルダーも何かしら言わなくては、とアリエラに教えられたその名を口にした。
「ヴィルダー・レーマンだ。よろしく。――といっても俺が一方的に忘れてるだけで知り合いなんだよな? 思い出すまで迷惑をかけると思うが、よろしく」
それはヴィルダーとしては当然彼が言うべきことの最低ラインを述べた、という認識しかなかったのだが。その言葉に対する反応は三者三様だった。
アリエラは両手を頬に添え、はう、と幸せそうに頬を赤く染め上げたし、ダーレは興味深そうに片眉をあげた。そして、ゲルトルーデはといえば、苦々しそうな表情は更に厳しくなって、最早鋭いその視線だけでヴィルダーは切り裂かれそうな段階へとなっている。部屋の空気が嫌に凍った。
え、何。どういうことだ。まさかよろしく、がいけなかったのだろうか。迷惑をかけてごめんなさい、くらい言った方がよかったのか。
想定していたのとは違う反応が返ってきたことに硬直するヴィルダーに、アリエラはまぁまぁ、などと声を上げた。それだけで凍りついていた空気が不思議と和らいだので、ヴィルダーはほっと一息ついた。
「ヴィルダー、ごめんなさいね。ダーレもゲルトルーデも、いきなりのことに混乱しているのですよ。何しろ以前には言い出しそうにないことをヴィルダーが言ったものだから。ね?」
アリエラがそう言い同意を求めるようにダーレに視線を遣れば、ダーレはええ、と首肯する。先程の表情は全て人好きのする笑みに覆い隠されているが、先の表情を見た今ではどこか白々しく思えてしまうのは単純にヴィルダーが捻くれているからなのか。
ゲルトルーデの方は相変わらず苦いものを噛み潰したような表情をしていたが、先程から変わらない表情を見るに、どうやらこれが彼女のデフォルトだと判断してよいようだった。少なくともダーレの笑みよりはヴィルダーからすれば信頼が置けるように思える。
しかしいきなりのことに混乱とは、かつての彼はどうだったというのか。無難な言葉を言ってこんな反応をされたことを思うと、余り考えたくない問題が湧きあがったが、それは続くダーレの言葉にすぐ霧散することとなった。
「ええ。以前と少々ヴィルダー様の性格が違うようでしたので、驚いただけです。ヴィルダー様の御気を害したならすみません」
ダーレがそのまま勢いよく頭を下げるものだから、ヴィルダーは慌てて両手を左右にばたばたと振った。魔王としての記憶を全く持たないヴィルダーだ。そんな風に畏まられてもただ困ってしまう。
「そんなにかしこまらないでくれ」
「いえ、我々はヴィルダー様に従うものでありますから」
言葉をかけるが慇懃かつやんわりと否定されてしまう。それに参ってヴィルダーがアリエラに救いを求めるように視線を投げかければ、先程空気を払拭してくれたときのようにアリエラはにこりと魅力的に微笑んで、再びヴィルダーへと救いの言葉をくれた。
「何にしろ、ヴィルダーは少しずつ傅かれることにも慣れていきましょうね」
尤も、その救いの言葉は、ヴィルダーの求めたそれには全く触れてくれなかったが。
自身が記憶をなくしたことだとか、どうやら魔王らしいことだとかそういうことはやはり眉唾ものだとヴィルダーは思ってしまうけれど。
ヴィルダーの胸を不自然に跳ねさせる彼女の笑みだけは、不思議と信じてもいいかな、と思えた。