第三話
翌日から村では、すぐ傍の人間の村へと攻め込む準備をしていた。ライヒ側の村の方でも人間達が勇者などに助けを求めているかもしれないということで、出来るだけ早くということになったのだ。その辺りについては詳しい兵法等をまだ分かっていないヴィルダーは蚊帳の外なのだが、アリエラがそう説明をしてくれた。
魔王のくせまるで役に立たないヴィルダーは、初めの数日はそれらしい顔をしてアリエラ達の傍に立っていた。だがヴィルダーがその場にいたところで何の役にも立たないどころか、立ち位置が悪いのかヴィルダーを避けるように村長らが移動するのを見て尚そこにいようと思うほどヴィルダーは厚顔無恥ではない。
『ヴィルダー、気にしないでください。仕事も少しずつ覚えていけばいいのですよ』
アリエラはそう慰めてくれたが、今のヴィルダーが役に立っていないことにまるで変わりはない。
結局己が完全に邪魔になっているようであると認めてからは、村から少し離れた森の中を散歩することにしていた。村にいようにも、村人がヴィルダーのことを遠巻きに見てきて妙に居心地が悪かったのだ。魔王と直接会うのがそれほどまでの珍しいからだとアリエラは言うが、観察されるような眼で見られるのは精神的にもかなり堪えるのである。
そうして今日になって、ヴィルダーは川べりで先日の少女と遭遇した。ヴィルダーはこちらの川の方にはまだ足を踏み入れていなかったから気が付かなかったが、どうやらインゲは毎日この場所に来ていたらしい。インゲと名乗った少女は随分とリラックスした様子で、川の中を一心に眺めていた。
ヴィルダーも同じ体勢でそこを眺める。村の傍に横たわる森の中のその川には、何匹もの魚が泳いでいる。
「これは?」
その中でもひときわ大きく綺麗な模様の魚をヴィルダーが指で差して尋ねる。鱗が虹色の魚だ。岩の傍で動かずただじっと時を過ごしている。ぱっと見た限り同じ魚は水中にいない。瞳が赤くないことからして、魔族ではないようだ。
聞かれた側のインゲは嬉しそうに、
「ニクシー!」
と答える。どうやらインゲは魔族でもないその魚に名前を付けてしまっているらしい。だがそれをいいとも悪いともヴィルダーに判断することは出来ない。口を閉ざして、代わりに別の言葉を紡ぐ。
「そうか、ニクシーか。いい名前だな」
ヴィルダーがその名前を褒めると、自分にそんな名前が付けられているなど知らないはずの虹色の魚が悠々と水中を泳ぎ始める。ヴィルダーに呼ばれたから、と答えているようにも見える。
それを目にしてインゲが自慢げにヴィルダーを見てくるので、ヴィルダーはつい苦笑してしまう。インゲにとってはまさにこのニクシーはペットらしい。ペットがきちんと芸をしたことが嬉しくて仕方がないという顔だ。
「ニクシーは賢いな」
口にすれば、インゲがうんと頷く。ますます泳ぎを見せつけてくるニクシーに、ヴィルダーはもしかすると本当にニクシーはインゲの言葉が分かっているのかもしれないと思えてきてしまう。まさかそれはないと思うのだが。
「……人間との戦いで、ニクシー達が殺されちゃわないかが心配なの」
ぽつりとインゲが呟いて、ヴィルダーはインゲの方を見る。俯いているインゲの顔は見えないが、聞こえてくる声のトーンから表情も同じく暗いだろうことは想像がついた。水面をすいすいと泳ぐ魚達を目にしながら、インゲは続ける。
「人間達がね、時々この森を燃やすって話してるの。村に何かあったとき私達はここに逃げ込むから、さっさと燃やしちゃおうって」
人間達もよくこの森に入ってこっちのこと警戒してるんだよ、と口にするインゲに、ヴィルダーは呆れと心配を同時に覚える。
「もし人間に見つかったらどうするんだ」
人間の魔族に対する恐怖心や敵対心は大きい。それは人型獣型問わず、人間が敵わないほどの大きな力を成人した魔族が須らく持っているからだ。それは純粋な力だったり魔力だったりするが、いずれにせよそのせいで魔族とまともにやりあえる人間は少ない。
例外は勇者一行を初めとして、何らかの武芸に特にひいでている者が通常の魔族とやりあえるくらいだ。もしも相手が魔王ともなれば、そんなトップクラスの人間が何人も集まらなければ、まともな戦いにすらならないだろう。
そんな中、無力な人間でも倒せるのが魔族の子供だ。まだ成長途中の子供なら、自分の力の使い方を分かっていなかったり、そもそも力自体が覚醒していなかったりする。だから子供のうちに見つけたら殺してしまうのが人間達の常識のはずだ。
となると、一人で森の中をうろうろしているインゲなどは見つかったときにまず殺される一人となってしまう。それを指摘すると、インゲは罰の悪そうな顔をする。
「……」
返す言葉すらないところからして、今までそのことは何度も親や村人に指摘されているのだろう。それでもインゲは森に来て、ニクシーや他の魚を可愛がっているらしい。そのことを、果たしてヴィルダーは子供であるが故の向こう見ずで、考えなしな行動だと叱ればいいのか、それとも子供ながらにそこまでの覚悟を持ってこの森に通い続けているのだと感嘆すればいいのか。
判断しかねて渋い顔をする。そんなヴィルダーに、インゲは心配そうな顔でヴィルダーの顔を覗き込んでくる。
「嫌な気分になった?」
「いや? なんでだ?」
まるでインゲの発言に心当たりがないだけにそう尋ねる。
「だって、」
それにインゲが言いさしたとき、少し離れた辺りで草をかき分ける音がする。魔族たちは今わざわざ森に来るような状況ではないはずだ。ヴィルダーが話を聞いていたときには森に入らずにどうこう、と言っていたはずだ。それにそもそも、村がある方とは反対側からその音は聞こえてくる。
――ならば相手は人間達だろう。ヴィルダーはインゲを自身の腕に抱き込んでそちらを警戒した。魔王としての知識は溜めこんだヴィルダーだが、戦いの訓練などしていない。記憶を無くす前は魔王など名乗っていたのだからまともに戦えたのではないかと思うが、だからといって自分が一体どんな力を使えるのかもヴィルダーは知らないのだ。こんなことでは、土壇場になって身体が動くことに懸けるというのは余りにも無謀が過ぎる。
インゲを抱えて逃げようとして、だが目の前の茂みが揺れたためにヴィルダーは自分が逃げ遅れたことを悟る。
「……」
「……」
ヴィルダーはインゲ共々息を殺して茂みを見、そして茂みから顔を出したのは茶髪に緑色の瞳を持つ青年――人間の青年だった。