第一話
彼、ヴィルダー・レーマンはふぅ、と息を吐いた。まだ朝の早いうちなのか、薄暗い部屋は豪奢とは程遠い印象だったが、それでもよく見れば、部屋を構成する全てが十分に質のいい品だということは分かる。
だが、今の彼にとってそれよりも更に優先すべき問題があった。己が一体何者か、というそれである。勿論、哲学的な意味でのそれではなく、実際問題彼は自分が誰だか分からなかったのだ。
金髪の美少女の手を借りてベッドから身を起こしているヴィルダーは、ベッドのすぐ隣に置かれた椅子に腰かけた彼女に確認の言葉を投げた。先程声をあげてから、ヴィルダーの正体というものを彼女に延々と話し聞かせてもらったのだが、その内容がすぐにはいそうですか、と承服できる次元を超えていたためだ。
何せ、彼女は彼をとんでもない呼称で呼んだのだから。
「……つまり、俺は魔王で君を助けて記憶をなくしたということですか?」
「ええ、そうです。でもまさか記憶を全てなくすだなんて……」
彼女からヴィルダーが告げられたのは、己の名前ととんでもない身分だった。
結論からいえば、ヴィルダーは魔王であるらしい。先程からヴィルダーの話相手になっている美少女、自称魔王の側近アリエラ・シュルツェが語るところによれば、ヴィルダーは城下に降りた際襲ってきた敵からアリエラを、我が身を呈して庇い大怪我を負った。そうして目覚めたら記憶がなかったのだという。
魔王とて王。王という守られるべき身分でありながら、臣下を守って記憶を失ったなど随分と間抜けな話で、ヴィルダーはあまりそれを信じたくはなかった。目覚めた直後のアリエラの怒りの理由がよく分かる。彼女からすれば守るべき王に守られ怪我を負わせたのだから、憤慨の一つも当然だろう。
「えっと、それ本当は冗談だったり……」
一縷の望みをかけて聞いてみるが、アリエラはふぅ、と溜め息を吐くばかりだ。
「私がそんな冗談つきそうに見えます?」
「う……」
心の底から悲しそうな顔を見せられてしまっては、ヴィルダーはそれ以上アリエラを責めることは出来なかった。認めたくはないが、彼は自分がそのような間抜けであることを受け入れざるを得なかった。唯一の救いは、アリエラがそうやって身を投げ打ってでも救うに値する美少女であることだろうか。
それに、とヴィルダーはアリエラを見る。まだ悲しそうな顔を浮かべているアリエラは自分の美貌の威力を理解しているのだろうか。アリエラの命を救ったのだろうがなんだろうが、全ての記憶を失ってしまったヴィルダーからすれば、アリエラはただの初対面の美少女である。そんな相手と話しているという事実に、どことなく気後れしてしまい、無遠慮にどうこう言えようがなかった。
ましてや、アリエラの赤の瞳に揺らめく悲しみの色がまたヴィルダーを責め立てるのだから、そんな彼女に非情な態度を取れないヴィルダーにはそもそも勝ち目など端からあるわけがないのだ。
そんな馬鹿な、自分が魔を戴く王だなどとは冗談も休み休み言ってほしい。勿論内心ではそんなことを思ってしまうのだが、だからといってアリエラはここまで言っているし、それにアリエラが言うように彼女が嘘を吐く理由も思い浮かばなかった。
果たして魔王を偽証してどうしようというのか。仮にヴィルダーを擁立して新たな魔王にするだなんてことをしたところで、本物の魔王に呆気なく鎮圧されるだけである。そんな真似をしたところで、アリエラには何一つ得がない。敵に襲われただけでこのように死に瀕するようなヴィルダーが偽者だった場合、万に一つも本物の魔王に勝てる可能性などないのだ。
とはいえ、本物の魔王であったとしたらそれはそれで敵に襲われたくらいで死にかかっている、というやはり間抜けな事態に陥るのだが。
と、そこまで思ったところで、ヴィルダーははたと思い出したことがあった。
そういえば。
初めはただ綺麗だとしか思わなかったのだが、アリエラの持つ赤い瞳は魔族の証である。本人が魔王がどうの、側近がどうのと言っているのだから魔族であることを疑っているわけではないのだが、問題はこの事実を彼が『知っている』ということだ。何しろ、現在彼は自分のことすら何一つ分からないほどの絶賛記憶欠落中の身である。
己にまつわる記憶がないのに一般常識を覚えているというのは奇妙なことだと思ったが、知っているものは知っているのだから、そういうものだと受け入れるより仕方がない。そういえば彼女との会話も成立しているのだし、常識だとかそういうものは消えていないのだろう。ならば単に覚えなければならないことが少なくなった、とそう思っておけばいいのである。
そういうわけで幸か不幸か残されていたその常識に照らせば、彼の前に座すアリエラは魔族であるし、そんな彼らを統べる魔王だというヴィルダー自身の瞳も赤いのだろう。体が動かない状態では鏡を介して瞳を見るどころか、そんなことをしなくとも見えるはずの自分の髪の色すら確認できやしないのだが。
そんなことを思いつつ、ヴィルダーは少女に謝罪を投げかけた。
「迷惑をかけてすみません」
「いいえ、気にしないでください。それよりヴィルダー様、私はあなたに敬語を使ってほしくないです。だってあなたの方が地位は上なのですから」
ヴィルダーにとっては彼女に迷惑をかけたから申し訳なくなった、それをただ言葉に出しただけだったのに、アリエラは大きく首を振り、且つ言葉すらどうの、と言い出した。それに対してヴィルダーは最早引き攣った笑みを浮かべることしかできない。
何せ自身の立場が彼女より上だと言われても、そもそもそれをヴィルダーは実感できていないのだ。魔王だということを何とか受け入れようとしている現状、それ以上のことなどまだ手が回らない訳である。だからそんなヴィルダーには彼女の言動はただただ居心地が悪いことこの上ない。
確かに彼が魔王であるのならば、彼女の言うところの論理に間違いはない。アリエラに取ってすればついこの間まで当たり前であった慣習なのだろうし、ここで異常なのはヴィルダーの方なのだから。けれどもヴィルダーからすれば初対面の女性相手に、随分と砕けた口調というのは相手の美貌も相俟ってやはり躊躇われる訳で。
とはいえ、アリエラの放つ有無を言わせない雰囲気に気圧されて、結局ヴィルダーはその要望を呑まざるを得なかったのだが。
「ああ分かった。でも、せめて様付けは勘弁してくれないか」
どうにも居心地が悪くて、と言えば、アリエラはくすくすと笑って、ではヴィルダー、とその軽やかな声で呼んでくれる。