幕間一
魔族サイドから一度離れまして、勇者一行側。
メリー・ケルティヒはこの上なく焦っていた。もう何日も彼女の心を捉えてやまないその人の姿を見ていないのだから、当然といえば当然だったかもしれない。それまで会わずに平気で生きてこられたことが信じられないくらい、今では一人の人間に依存しているのだ。
メリーがその人と出会ったのは王宮だった。メリーはこう見えてもライヒ王国において国一とまで称えられるほどの腕を持つ魔術師だ。そんなメリーは子爵である父親から強制的に勇者一行に組み込まれることとなり、その日は顔合わせのために城に呼ばれたのだ。
それが決まったときには父親を何度も詰ったものだった。何しろ、王から賜った己の地位に甘んじていないケルティヒ子爵が功を立てようとメリーを送り込んだことは、誰が見ても明らかだったからである。あわよくばメリーを通じて国の救世主となるだろう人物と顔見知りに、という魂胆すら透けて見えていた。
まだ十七を数えたばかり、何をしてでも国を救いたいという思いを持ち合わせるほどの愛国心を持ってもいなければ、貴族の令嬢らしく恋に恋する花盛りのメリーには、父親の重すぎる期待が苦痛で仕方がなかった。
勇者一行になることが決まってから此方パーティーに参加する度に聞こえよがしにメリーを爵位の為に身を売る女と形容する貴族たちも手伝って、一時期のメリーの状態ときたらそれは酷いものだった。メリーの精神が人生で最も追い詰められていた時代といってもいい。
だが、そのお陰でメリーはその人と出会ったのだと思えば、それまでの苦悩も寧ろ当然の者として受け入れられた。王城の一室での顔合わせ、その空間に入った瞬間まず目に入ったその容姿にとてつもなく惹かれた。世の中にはこんな人がいるのだ、と。
貴族として社交界デビューしているメリーは、そういった場でただ単に美しいだけの青年やら美女やらは見慣れていた。だが、その人の容姿は筆舌しがたいほどにメリーの心を鷲掴んだのである。心の美しさが表層にも表れて、それがここまで魅力となって輝いているのではないか、などと詩的な表現まで自然と思い浮かんだほどだった。
今回の件に全く乗り気でなかったはずの彼女は、彼女の目線を独占してやまないその人に話しかけてみた。そしてメリーの周りにそれまでいなかったどこか厭世的なその雰囲気に、とうとう囚われたのだ。一体どういう人生を送っていたのかその人は黙したまま決して語らないが、他者との間に築き上げたのであろう堅牢なその壁を壊すのが自分であれたなら――。
きっとその人の力になるために自分がその場にいるのだと理解したとき、メリーは恐らくは人生で初めて心の底から強欲な父に感謝をしたのだった。
ああ、いけない。いつものように記憶の海に沈んでしまっていた。
何回思い出しても初対面のあの時の衝撃はメリーの人生を変える決定的瞬間であったから、ついメリーは思いだすだに己の世界に入り込んでしまう。最近その人を見ていなくて欲求不満気味なのも、その傾向に拍車をかける原因なのかもしれなかった。
しかし、こんなにもその人の姿を見ていないとなると、何かとんでもないことに巻き込まれていやしないだろうか、とメリーはいてもたってもいられなくなる。
ふらりとあの人が言葉もなく姿を眩ますことは今までにも度々あった。それは大抵彼が敵の気配を察知したときであったし信頼を勝ち得なかった自分達が悪いのだからと気にしないようにしていたのだが、今回は流石に期間が長すぎた。もしや、その身に何かしらの危機が――……。
脳裏を過ぎった嫌な想像を振り払うように頭を振ると、短めの赤の髪がぱさぱさと揺れる。この上なく恵まれたその容姿だから何をしても様になる彼女だが、その様子は幼めの容姿と相俟ってとても可愛らしく、それだけで周囲の男性の視線を独占できるほどである。現に道行く男たちは全て彼女に視線を向けている。
それを見かねて横から声がかかった。
「……あー、メル。その、だな」
「なあに? あとハインツ、私をメルと呼んでいいのはあの方だけよ。メリーと呼んでちょうだいな」
声をかけられ、メリーはその声の主へ向き直る。普段は大きく丸い茶色の瞳に灯る見間違えようのない失望の色にその視線に刺された青年は頬を引き攣らせた。何回言えばメルと呼ぶのをやめるのか、とそう口も目も雄弁に語っている。
美少女にそんな表情をされて心がめげないわけはなかったが、それでも勇者一行として一連托生の身だから、と青年が己の言いたいことを口にした。
「ああすまないメリー、じゃなくて。お前の色香に寄ってくる男たちを追い払うのをほんのちょっと協力してくれてもいいんじゃないかな?」
もういい加減同じことを繰り返すのも飽きてきてさ、とそう口にする彼にメリーはじと目を向ける。
「ハインツ、何度も言うようだけれど、私はあの方以外の人間に興味がないの。だからどうしたらいいのかも分からないし、手の打ちようがないわ」
彼女独特の少し間延びした調子で、しかしあっさり言い捨てるメリーにハインツの表情が引き攣った。が、幸か不幸かメリーは自分でも言っている通り他人への興味が希薄すぎてハインツの表情の変化にも勿論気がついていない。
いつものようにハインツがどうにもならないと口を閉ざし、哀れにもメリーに心奪われた紳士諸君に我に返ってもらうべく行動を起こすかに思われたが、しかし今日はそこで終わらなかった。
「ケルティヒ子爵令嬢、あなたいくらお尻が軽いからってわたくしの前でどれだけ愉快な行動をするつもりですの? これだから地位が低い人間は醜いわね」
わざわざそんな状況で口を出す者が一人。状況からしてメリー対ハインツの場に口を出すのだからハインツの味方かと思えば、決してそうではない。構造的には寧ろ第三勢力の台頭である。ハインツの心情からいえば、更なる状況の悪転といったところか。
そして露骨に喧嘩を売られたメリーはといえば、彼女の悪意に合わせてなのだろう、場を明らかに場の空気を悪化させていく。無意識下でのそれは最早才能といった方がいいレベルではないか、とハインツが常日頃そう思っていることなど知らず、二人の争いは白熱の一途を辿るばかりだ。
「あら、私あの方以外の人間に興味がないので分からないわ。それより、私に言いがかりをつける暇があったら早く婿候補を探した方がいいと思うの、いき遅れのお姫様。一人の人を愛するってとっても幸せなことなのよう」
「あの平民を愛することが幸せ? はっ、そんな幸せでしたら一生いりませんことよ! 大体にしてどうしてあんな平民が神託で名指されるのか理解に苦しみますわ! あとわたくしはまだ十九ですわ!」
「あの方を勇者にという神託を受け取ったのは姫様だったように記憶しているのだけれども、私の勘違いだったのかしらぁ?」
ふふふふ、と黒い笑みを浮かべ笑い合う二人の少女に周囲の空気がどんどん凍っていく。メリーにとってはあの方と呼ぶその人が困らなければその他大勢がどうなろうと割とどうでもいいので、彼女は全く意に介していなかったが。