第一話
ちちゅん、ちちゅん。意識の遠くに鳥の声が聞こえ、ヴィルダーは目を覚ました。寝起きのぼんやりとした頭で窓を見れば、朝焼けの橙が美しく空を染めていた。
「んー……」
朝の清涼な空気を深く吸い込むと、働かない頭でもそれだけで体の調子がよくなる気さえする。目を閉じ深呼吸を何度か繰り返すうち、ヴィルダーの意識はゆっくりと覚醒してきた。
ベッドから降り、ぐっと背筋を伸ばす。凝っていたようで背骨がぱきんという音が鳴らす。その音を耳にして、ヴィルダーは力を抜いた。それから病床に就いていた間にすっかり衰えてしまった体力を取り戻すため、日課となった簡単なストレッチをしていく。膝を屈伸し、腰を捻り、肩を回してと基本的な動きだが、これがごく当たり前に出来るようになるまでにもそれなりに時間を必要とした。
ヴィルダーが記憶をなくしてから、なんだかんだゆうに三週間が過ぎていた。まだ激しい運動などには体がついていかないが、漸く日常生活を送る分には問題がないレベルまでヴィルダーの体は回復した。初めのうちは毎朝動くことすら億劫だったし、僅かな動作ですらも翌日には体の軋みとなって返ってくるだけにきつかったが、今はもうそれもかなりマシになっている。
この目覚ましい回復もひとえに日々のたゆまぬ努力と、それに付き添い続けてくれたアリエラのおかげだった。
ヴィルダーのすぐ傍にいて何かと手を貸してくれたアリエラに、そんなことすら出来ない自分にがっかりしつつも、ここまで献身的に手を貸してくれる彼女に何としても元気になるという形で報いなければならない。
そんな決意をし、ヴィルダーは努力を重ねることが出来たのだ。
ぐるりと肩を回しながら、前日アリエラに告げられた内容を思い出す。確か、大分ヴィルダーが回復してきたからとのことで、そろそろ城の重鎮たちとも顔合わせを、とのことだった。まだ城に出向くほどの体力は戻っていないが、彼らと顔合わせをするくらいは十分出来るだろう、とはアリエラの言である。
ヴィルダーとしては、多少きついかもしれないが城に行ってもいいのでは、などと思いもしたのだが、提案した途端にアリエラが目を吊り上げたのには閉口した。重ねて、もう少し安静にしているべきなのだから顔合わせだって先送りにしてもいいのだと言われてしまっては、すみません、と謝る以外にヴィルダーが取りうる選択肢など残りやしない。このまま今日もただ勉強会などにされてしまったら、いい加減精神的に塞ぎこんでしまえそうだ。
そんなことを思いながら、部屋の扉へと視線をやる。そろそろ来る時間かと思えば、タイミング良く扉が外から開かれた。
「ヴィルダー様、迎えに参りました」
「ダーレ、おはよう」
「ええヴィルダー様、おはようございます」
そうして入ってきた男に、ヴィルダーは挨拶をした。もう一人で屋敷の中も歩けると言っているのに、過保護なアリエラはヴィルダーが一人で出歩くのを許してくれなかった。部屋からの付き添いは大抵アリエラだが、彼女の手が空いていないときには他の誰かにその位置が取って変わる。そして今日はそのアリエラの手が空いていないときなのである。
本人によれば先に呼び寄せた重鎮たちに対面し、彼らの相手をしているらしい。呼び寄せた重鎮らへの応対が任されるというのだから、ダーレやゲルトルーデのみならずアリエラもかなり位が高いようだ。そんな彼女に傅かれる立場にあることに色々思うところはあるものの、実際そうであるのなら今のヴィルダーに出来るのは、ただ彼女に恥じない主となることだけである。
「ヴィルダー様、朝食は」
「ああ、うん。もらう」
本当ならば顔合わせをすぐにでもしたいが、ヴィルダーが朝食を抜けばアリエラは目を吊り上げて怒りだすのだ。あんな顔を向けられてしまえば、ごめんなさい、と反射的に謝るしかない。
ヴィルダーの答えに、ダーレは一度部屋の外に出、すぐにカートを押して室内へと戻ってきた。どうやら外に食事の支度も持ってきてあったらしい。一連の流れから察するに、ダーレからすれば一応確認をした程度のことなのだろう。
ヴィルダーとの相性が絶望的に悪いゲルトルーデと比較するからかもしれないが、ダーレはヴィルダーが一番共に過ごして落ちつく相手だった。ゲルトルーデは勉強会以降今まで以上にきつい物言いをするか、或いはあのときのように顔を赤に染めたかと思えばすぐにどこぞへ走り出すかのどちらかだし、アリエラは透けて見える好意に何も返せないヴィルダーが一方的に罪悪感を感じてしまう。
それに比べて、ダーレとの距離感は近すぎず遠すぎずちょうどよかった。勿論、近くないのだからそれは向こうからも一線惹かれているということに他ならないのだが、その辺りは仕方がない。記憶を失う前のヴィルダーであればもっと近しい距離にいたのかもしれないし、はたまた以前からこの距離だったのかもしれないが、今のヴィルダーにはそのくらいの距離感がちょうどいいのだ。
ダーレの運びこんだ食事を取りながら、ヴィルダーはダーレを改めて見やる。声さえ聞かなければ、最初に抱いた印象通り女と言われてもそうかと納得してしまう容姿だ。そんな風にじろじろとダーレを見ていると、ダーレが不意に振り返った。
「何か?」
「え? あ、いや、美人だなと思って」
ヴィルダーの発言に、思い切り胡乱な眼を向けてくるダーレに、何か自分の発言が誤解を招いたらしいことにヴィルダーは気がついた。まるで女を口説くような言葉だったではないか、と猛省した。