第九話
ゲルトルーデをアリエラが、ヴィルダーが今使っている部屋に呼び出したのは、今朝がたのことである。この部屋に入ってきた当初のゲルトルーデは、間違いなくこの上ない不機嫌さだった。そこはヴィルダーも断言できる。
何せ、ヴィルダーの顔を見るなりあからさまにその表情が歪んだからだ。目を眇めて、その顔に不愉快の文字を張り付けている様を見れば、それを向けられるヴィルダーの方も決していい気はしなかった。
だが。
『ゲルトルーデ、もし手が空いていたらで構わないのですが、頼みたいことがあるのですが構いませんか?』
そんな風にアリエラがへりくだって問いかけた途端、ゲルトルーデは表情を変え大きな声でその言葉を否定したのだ。
『そんなことはありません!』
しかも、ぶるぶると激しく首を振るというおまけつきである。ヴィルダーが知る限り、ゲルトルーデはつんけんしてきついイメージしかなかっただけに、今までのイメージを全く覆すようなその反応に驚いてじろじろ見てしまう。
碌にベッドから起き上がることもできないため、ヴィルダーと対面していないゲルトルーデを見る機会など皆無だったのだから当然といえば当然なのかもしれないが、それでもアリエラに対する反応との違いからこうも嫌われているのだと思い知らされてしまう。
孤高の狼かと思えばただ一人の主につき従う忠犬であったなど誰が予想出来ようか。アリエラにそんな言葉を言わせるだなんて、とでもいいかねないような悲しそうな表情を見せられると、もしやこれは同じ顔をした別人なのではないか、と勘繰りたくさえなってくる。勿論先程嫌そうな顔をヴィルダーに向けたことからして本人に間違いはないはずなのだが。
そんなゲルトルーデの反応など、それを向けられるアリエラ自身は慣れ切っているのであろう。ヴィルダーのように惚けたりもせず、ごく当たり前のように受け答えをしていた。
『そうですか? では一つ頼まれて下さい』
可愛らしく微笑んだアリエラに、ゲルトルーデが頬を紅潮させてはい、と興奮気味に返す。そんなゲルトルーデは普段のきつい感じの高嶺の花というイメージよりも、ひたむきに尽くす美女といった風である。ヴィルダーは珍しいものを見てしまったなぁ、とこんな珍しい様子のゲルトルーデをじろじろと眺めることにした。
青髪に赤目の美貌は、冷たい表情を浮かべていないと存外とっつきやすい印象を受ける。薔薇色に染まる頬も青の髪から受ける冷たい印象を取り去って、今のゲルトルーデならばヴィルダーも普通に話せる気がしたものだ。それが完全に錯覚に過ぎず、ヴィルダーが声をかければゲルトルーデはたちまちその顔に不機嫌を張り付けることは当然分かっていたが。
『ヴィルダーの勉強を見ていただきたいのです』
何せ、ヴィルダーの名前が出ただけで、アリエラがそれを口にしたのにも拘らず直前までの幸せそうな表情が嘘のようにかき消えたからである。とはいえアリエラに向けるそれであるため、嫌悪までは行きつかず困惑の色を滲ませただけであるが、それでも驚きの変化である。そんなに自分のことが嫌いか、とヴィルダーは内心拗ねた。理由も分からず嫌われているのだから、当然だろう。
『私が、ですか?』
あえやかな困惑の中に、自分でなくてはならないのか、という消極的な疑問が見え隠れしている。はっきり嫌だとは断りがたいが、だからといってすぐに受け入れることもしがたいのだろう。何となくその葛藤は分かるだけに、ヴィルダーは同情の視線を向けたが、すぐにゲルトルーデが何を嫌がっているのかを思い出して頭を振った。
『貴方しか頼める人はいないのです。ゲルトルーデ、駄目でしょうか?』
悲しそうなアリエラの顔に、きらりと浮かぶ涙。ヴィルダーがどうしてもアリエラを守ってやりたくなるその表情は、ヴィルダーだけでなくゲルトルーデにも有効らしい。
『……ッ。――分かりました。私にお任せ下さい』
うっ、と息を詰まらせ逡巡しながらも、最終的に頷かざるを得なかったゲルトルーデに、ヴィルダーはおお、と感服したのであった。
不意に脳に衝撃を受け、はっと我に返る。すぐ近くにあるゲルトルーデの顔は、相も変わらずヴィルダーに対して好意的ではない。拳を構えているところから、頭にそれを落とされたのだろうと察して、ヴィルダーは溜め息をつきたくなった。
「聞いているのか」
殴ってからそれを聞くのもどうか、と思ったが、確かに今のはヴィルダーが意識を飛ばしていたのが悪い。ゲルトルーデのせいにする訳にもいかず、素直に頭を下げるしかない。
「悪かった」
潔く頭を下げる。それに対して余程驚きでもしたのか、ゲルトルーデはぽかんとした表情を見せる。初めて不機嫌でない表情を向けられた、と思いながらゲルトルーデを見ていると、
「ぁ、ぅ」
何やら呻いたかと思えば、思い出したようにその顔が赤く染まる。まさか魔王が軽々しく頭を下げるなどどうかしているのか、だとかそういうことで怒り出したのかととっさに身構えたヴィルダーだったが、
「わ、分かっているならいい」
そんな言葉を吐くや否や部屋を飛び出していったゲルトルーデに、今度はヴィルダーの方が呆気に取られることとなる。ヴィルダーの中では一連のゲルトルーデの行動に何の繋がりも想定することが出来ない。何故ゲルトルーデが走り去ることとなったのか、全く理解の範疇外である。
「……なんだったんだ? 今の」
展開の速さに追いつけずぽつんと漏らすヴィルダーに、だが応えるものは残念ながら一人としていなかった。