プロローグ
12/09/23 書いているうちにこちらの方がいいと思い、「群れ」から「熊」に単語を変更しました。
彼が瞳を開けて最初に視界に入ってきたのは、ぼやけた中でも印象的な煌めく赤い瞳だった。
ぱちりと瞬くと、一瞬前は霞んでいたはずの視界は直ぐに晴れ、赤の色を瞳に宿した美しい少女を映す。流れる金糸は肩より少し長いくらいだろうか。随分と幼い見た目だ。年にして十五に届くくらいだろう。彼女が首をことんと傾げると、その動きに流されるように髪がさらりと揺れた。すれ違いざまでも誰もが振り向くだろう整った顔立ちには、心配そうな表情を張り付けている。
「私を助けて自分が死にそうになるなんて、馬鹿なんですか」
少女が口を開いた。鈴を転がすような声に宿った響きには、確かに入り混じる嗚咽。思わず守ってやりたくなるようなそれに何か答えようと思ったが、おかしなことに出そうと思った声は掠れて出ない。そんな彼の様子に気がついたのか、彼女はああ、と声を上げた。安堵と呆れを混ぜ込めたような表情には、先程までの胸を締めつけられるような焦りは覚えなかった。
「先に説明をしなくちゃいけませんでしたね。ヴィルダー、あなたは私を助けようと自分からあの熊に突っ込」
「あの!」
早口に何かを説明しようとした少女に、しかし彼は恐ろしく重い体に何とか言うことを聞かせて手を挙げてそれを制した。それに少女がきょとんとして口を閉ざす。
ぎし、とたかが腕を動かしただけのくせに体が軋んだ気がしたが、そうでもしないと彼女が止まらなさそうだったからだ。たったそれだけの作業でも感じた感覚通りにずきずきと全身が痛んだ。だが、その痛みに耐えてでも彼にはまず先に聞かなければならないことがあった。
「何ですか?」
話を中断させられ、もや、としたのか表情を歪める彼女に、美人はどんな顔をしても美人なんだな、などと全く関係ないことを考えてしまう。口を尖らせた少女は、それでも神々しいまでの美しさを褪せさせてやいない。女性の容姿についてどうだと考えている己に、思考に随分余裕があるな、とその呑気さに苦笑をしながら、彼は自由にならない喉で何とか目的の言葉を口にした。
「俺は、誰ですか?」
少女を驚愕に陥れる言葉を。彼の想像通り、少女は放たれた言葉の衝撃に目を丸くする。そうしているとまん丸になった赤の目はまさにガラス玉のようだった。
「は!?」
放たれた疑問符に、しかし彼が欲した返答はなかった。それも当たり前かもしれない。本人すら答えられないことを、他人に聞いているのだから。
だがしかし、事実目が覚めてから此方、彼にはさっぱり己に纏わる記憶がなかったのだ。頭は妙にすっきりとしていて、がらんどうだ。何の記憶もない。だから、彼のことを知っているらしい少女にそれを尋ねるのが一番だと思ったのだ。でないと、彼女が何に憤慨しているのかですら、彼には分からなかったものだから。
部屋には彼女の上げた奇声以外しんと静寂が満ち、重苦しい。何か間を持たせるものでも、と彼が思った頃、その思考と示し合わせたかのようにどこか遠くで鐘が高らかに時を告げた。
そして、何かを考え込むかのように少しの間を置いた彼女は、記憶喪失ですか? と口にしてから。
「あなたはヴィルダー・レーマン。魔王です」
そう、告げた。
その鐘の音は後から思えば、全てが始まる音。新しく全てが始まる音だった。
だから。
彼女が最初目覚めたばかりの彼に何と言うつもりだったか、それをここにいる彼はついぞ知る機会を失ったのだった。