番外編 理外の数式と絶望を演算する指先
その日、東京・渋谷は、季節外れの陽気と平和な喧騒に包まれていた。
スクランブル交差点。
世界で最も有名な交差点の一つであり、数千の人々が行き交うこの場所は、若者たちの笑い声と大型ビジョンの広告音、そしてアスファルトを叩く無数の足音で満たされていた。
誰もが、その平和が永遠に続くものだと信じて疑わなかった。
ダンジョンという非日常が日常に侵食し始めて数ヶ月。
人々は「ゲートは公園や特定の場所に固定されているもの」という認識に慣れきっていたからだ。
だが、災害はいつだって予兆なく訪れる。
バギィィィィィィィンッ!!
突如として、大気を引き裂くような轟音が響き渡った。
交差点の中心。
信号待ちをしていた人々が見上げる先で、空間そのものが硝子細工のように砕け散ったのだ。
「え……?」
「ななに?」
誰かが呟いた、その僅かな静寂。
次の瞬間、砕けた空間の隙間から、ドス黒い漆黒の霧が噴き出した。
霧は渦を巻き広がり、アスファルトを侵食しながら、巨大な「門」を形成していく。
これまでの常識を覆す、市街地ど真ん中への「ダンジョンゲート」の出現。
「う嘘だろ……ゲートだ!」
「なんでこんな所に!?」
「逃げろぉぉぉ!!」
悲鳴が連鎖する。
人々がパニックに陥り、将棋倒しになりながら逃げ惑う中、ゲートの奥から地響きのような足音が近づいてくる。
ドスン。ドスン。ドスン。
腹の底に響く重低音。
そして黒い霧を切り裂いて、その「絶望」は姿を現した。
「ブモォォォォォォォォッ!!!」
咆哮一閃。
衝撃波だけで周囲の看板が吹き飛び、ショーウィンドウが粉々に砕け散る。
現れたのは、悪夢から抜け出してきたような異形の怪物だった。
身長はおよそ三メートル。
人間を見下ろす圧倒的な巨躯は、鋼鉄のような筋肉の鎧に覆われている。
頭部には、ねじれた二本の角を持つ猛牛の首。
そして、その手には、軽自動車のドアほどもありそうな、血に濡れた巨大な戦斧が握られていた。
ミノタウロス。
神話に語られる牛頭の魔人。
F級のゴブリンやD級のオークとは次元が違う、C級ダンジョンの中層以降に君臨する「中位モンスター」の筆頭だ。
それが、武器を持たない無防備な市民の只中に、何の前触れもなく放たれたのだ。
「ひっ……た助けて……」
「嫌だ死にたくない!」
逃げ遅れた人々が腰を抜かし、アスファルトの上を這いずり回る。
ミノタウロスの赤い瞳が、眼下の人間たちを「獲物」として認識し、鼻息を荒くする。
巨大な戦斧が振り上げられた。
パパパパンッ!
その凶刃が振り下ろされる寸前、乾いた銃声が響いた。
緊急配備についた警視庁の機動隊員たちが駆けつけ、一斉射撃を開始したのだ。
「撃てッ! 撃ち続けろ! 市民に近づけるな!」
隊長の怒号と共に、9mmパラベラム弾の雨がミノタウロスに降り注ぐ。
だが――。
カカンッ! キンッ!
銃弾は怪物の分厚い皮膚に当たると、まるで鋼鉄に当たったかのように火花を散らして弾かれた。
皮膚を貫通するどころか、薄皮一枚、傷つけることすらできない。
「ば馬鹿な……! 拳銃が効かないだと!?」
「硬すぎる! 装甲車かよコイツ!」
警官たちの顔に戦慄が走る。
C級モンスターの肉体強度は、現代兵器の想定を遥かに超えている。
ライフルや対物兵器が必要なレベルだ。
「グオォッ!」
痛みすら感じていない様子のミノタウロスが、鬱陶しそうに腕を振るった。
ただの裏拳。
だが、その質量と速度は、質量兵器そのものだった。
ガシャァァァン!
一撃でパトカーがひっくり返り、そのまま横滑りしてショーウィンドウに突っ込む。
警官たちが悲鳴を上げて吹き飛ばされる。
「くそっ……! 応援はまだか! SATを呼べ!」
「ダメです! 道路が大渋滞してて、到着まで時間がかかります!」
絶望的な状況。
そこへ数人の影が、歩道橋の上から飛び降りた。
私服の上に簡易的なチェストアーマーを装着し、手には光を帯びた剣や杖を持った男たち。
偶然居合わせた「探索者」たちだ。
「おい、警察が押されてるぞ!」
「やるしかねえ! 俺たちで時間を稼ぐんだ!」
「相手はC級だぞ!? D級装備の俺たちで勝てるか!?」
「逃げたら市民が死ぬだろ! 腹括れ!」
彼らは勇気ある行動に出た。
レベルは推定15から20前後。
一般的に見れば「ベテラン」の部類に入る探索者たちだ。
連携を取り、戦士役が盾を構えて突っ込み、魔法使いが後方から援護射撃を行う。
「食らえ! 【ファイアボール】!」
「【シールドバッシュ】!」
炎の弾丸と、スキルで強化された盾の一撃がミノタウロスに直撃する。
土煙が舞う。
観衆から期待の声が上がる。
だが、煙が晴れた先にいたのは、無傷の怪物だった。
「な……魔法が効いてない!?」
魔法使いの男が愕然とする。
ミノタウロスの皮膚には、微かな焦げ跡がついただけ。
C級モンスター、特にミノタウロスのような高位種は、天然の「魔法抵抗力」を持っている。
生半可なINT(知力)と装備から放たれた魔法など、そよ風程度にしか感じないのだ。
「ブモォォォッ!!」
反撃の咆哮。
ミノタウロスが戦斧を薙ぎ払う。
ガギンッ!!
タンク役の男が構えた「鉄の盾」が、紙屑のようにひしゃげ、砕け散った。
「がはっ……!?」
男が血を吐いて吹き飛び、後方の信号機に激突する。
一撃。
たった一撃で前線が崩壊した。
「嘘だろ……。俺の盾、50万したんだぞ……」
「ひひぃぃ……! 勝てない! 逃げろ!」
探索者たちの戦意が砕ける。
圧倒的な質量と暴力。
レベル差、装備差、種族差。
すべてが絶望的だった。
ミノタウロスが鼻を鳴らし、次なる獲物を求めて視線を巡らせる。
その視線の先にいたのは、腰を抜かして動けなくなった女子高生と、それを庇おうとする満身創痍の若い警官だった。
「くっ……来るな……!」
警官が震える手で、弾切れの拳銃を構える。
だが、その抵抗が無意味であることは、誰の目にも明らかだった。
ミノタウロスが巨大な戦斧を高く振り上げる。
死の重力が、二人の頭上にのしかかる。
「あ……あぁ……」
女子高生が絶望に目を閉じる。
誰もが目を背けた、その瞬間だった。
カィィィィン――……。
重苦しい破壊音ではなく、澄み渡るような、信じられないほど硬質な金属音が響き渡った。
「え……?」
死を覚悟していた警官が、恐る恐る目を開ける。
そこには、物理法則を無視した、信じがたい光景があった。
振り下ろされた巨大な戦斧。
パトカーさえ両断した、その必殺の一撃が、空中でピタリと静止している。
その刃を受け止めていたのは、鋼鉄の盾でもなければ、巨人の腕でもない。
一人の少女の「人差し指」一本だった。
「……野蛮ですね。公道での武器の使用は、条例違反ですよ?」
涼やかな、しかし事務的で冷徹な声。
そこに立っていたのは、知的なフレームの眼鏡をかけた小柄な少女だった。
高級ブランドのショッピングバッグを片手に提げ、もう片方の手の人差し指で、数トンもの衝撃を無造作に受け止めている。
服装はラフなオフィスカジュアルだが、その首元には、神々しい輝きを放つ首輪『清純の光輪』が。
そして手には、燃え盛る紅蓮の宝石が埋め込まれた杖『フェニックス・ウィング』が握られていた。
その姿を見た観衆の一人が、悲鳴のような歓声を上げた。
「ああの首輪……間違いない!」
「アルカディアだ! ギルド『アルカディア』のメンバーだぞ!」
「あの子、八代さんの動画によく出てる秘書みたいな子……乃愛ちゃんだ!」
乃愛。
世界最強のギルド「アルカディア」に所属するトップランクの魔術師。
普段はギルドマスター八代匠の補佐として知られる彼女の登場に、絶望に沈んでいた場が沸き立つ。
「ブモッ……!?」
一方、ミノタウロスは混乱していた。
全力で振り下ろしたはずの斧が、目の前のひ弱そうな人間の指一本に阻まれ、微動だにしないのだ。
渾身の力を込めて押し込もうとするが、少女の指は鋼鉄の柱のように空間に固定され、ミリ単位たりとも揺らがない。
「ふむ。推定STR値300前後ですか。
C級個体としては標準的……いえ、やや発育が良い方でしょうか」
乃愛は斧を受け止めたまま、眼鏡の奥の瞳で冷静に数値を計測していた。
彼女の指先と斧の接触点には、不可視の魔力障壁――【マナ・シールド】が多重展開されている。
「ですが、足りませんね。
貴方のその腕力では、私の『マナ』を貫通するには程遠い」
乃愛が指を軽く弾く。
たったそれだけの動作で、衝撃波が発生した。
巨体のミノタウロスが、まるで玩具のように後方へ弾き飛ばされ、アスファルトの上を無様に転がった。
「グオォォォッ!?」
起き上がったミノタウロスが怒り狂って突進してくる。
戦斧を乱雑に振り回し、暴風のような連撃を繰り出す。
だが乃愛は、その場から一歩も動かない。
魔法使いであるはずの彼女が、回避行動も取らず、物理攻撃の嵐の中に身を晒している。
ドガッ! バキッ! ズドンッ!
斧が彼女の肩を捉え、横腹を薙ぎ、頭蓋を砕こうとする。
直撃している。
普通の人間なら、肉塊に変わっているはずだ。
だが乃愛は無傷だった。
服すら破れていない。
彼女の身体の周囲を覆う青白い光の膜が、すべての衝撃を吸収し、無へと変換しているのだ。
「うーん、悪いんですけど……。
私のライフを削るには、まず私の『マナ』を全部削り切らないとダメなんですよ?」
乃愛は眼鏡の位置を直しながら、呆れたように解説を始めた。
これは彼女が八代匠から授かったビルド理論【マインド・オーバー・マター(MoM)】。
受けたダメージの大部分を、ライフ(HP)ではなく、マナ(MP)で肩代わりする防御機構だ。
通常、魔法使いは「紙装甲」だ。
だが彼女は違う。
膨大なマナプールそのものを「第二のHP」として運用する、要塞型のキャスターなのだ。
「貴方の攻撃、一発あたり物理ダメージ換算で約100から120。
私の物理耐性で軽減されて、実ダメージは80程度」
乃愛の脳内で、高速の演算処理が行われる。
敵の攻撃モーション、ベクトル、ダメージ量。
全てが数値化され、彼女の視界に表示されている。
「対して、私の現在のマナ総量は1000オーバー。
さらに重要なのが、『マナ回復速度』です」
ミノタウロスが息を切らして連撃を止める。
乃愛のマナゲージを確認する。
減っていない。
いや、一瞬減ったかのように見えたゲージは、次の瞬間には凄まじい速度で全快している。
「私の秒間マナ回復速度は260です。
分かりますか?
貴方が必死に斧を振って80のダメージを与えても、私はその1秒間に260回復しているんです。
つまり、貴方の攻撃速度(DPS)が私の回復速度を上回らない限り、私は永久に無敵なんです」
それは暴力的なまでの「数値の差」だった。
技術や戦術ではない。
圧倒的なステータスとビルド構築による、理不尽なまでの生存能力。
これこそが八代匠が作り上げ、彼女が完成させた「理論値装備」の真髄だ。
「ブモォォ……!」
ミノタウロスも本能で悟ったのか、あるいは単純に八つ当たりか。
目の前の「硬すぎるエサ」を諦め、ターゲットを変更した。
視線の先には、怪我をして動けない探索者たちと、彼らを守ろうとする警官たちがいる。
「いかん! こっちに来るぞ!」
「撃て! 撃てぇぇ!」
警官たちが再び発砲するが、怒り狂ったミノタウロスは止まらない。
暴走機関車のような突進。
誰かがミンチになる――そう思った瞬間。
ヒュン。
風切音と共に、乃愛の姿がミノタウロスの進行方向に転移していた。
そして再び、あきれるほど無造作に、突進してくる巨体の額を人差し指一本で受け止めた。
ドォォォォンッ!
衝撃が地面に逃げ、アスファルトがクレーター状に陥没する。
だが乃愛は、ハイヒールのかかとすら浮かさずに、その場に縫い付けられたように立っていた。
「はいはい、私が相手しますよ。よそ見は感心しませんね」
まるで駄々っ子をあやすような口調。
だがその眼鏡の奥の瞳には、絶対強者特有の冷ややかな光が宿っている。
「うーん……知性がないモンスターに解説しても意味ないんですが……。
理解できませんか?
貴方の攻撃で私のマナを削り切るのは『不可能』です。
物理的に、数学的に、絶対に無理なんです。
諦めて大人しくしていれば、苦しまずに済んだものを」
乃愛は周囲を見渡した。
一般人の避難は完了している。
負傷した探索者たちも安全圏まで下がっている。
フィールドはクリアだ。
「……さて。
これ以上、渋谷の街を壊されては、ギルマスに怒られます。
『効率が悪い』と」
彼女は杖『フェニックス・ウィング』を掲げた。
瞬間、周囲の気温が急激に上昇する。
空気が揺らぎ、アスファルトが熱で溶け出す。
「C級モンスターは魔法耐性がある?
ええ、知っていますよ。
ですが、私の火力(INT)なら、属性の壁すら力技でねじ伏せられます。
消し炭になりなさい」
彼女が選んだのは、最大火力の広範囲殲滅魔法。
「【ファイアストーム】!!」
ドォォォォォォォォォォッ!!!
杖の先端からではなく、天空から。
突如として出現した巨大な魔法陣から、紅蓮の炎の嵐が降り注いだ。
それは隕石の落下にも似た、圧倒的な熱量の奔流。
ミノタウロスの巨体が炎に包まれる。
断末魔の叫びすら上げる暇はなかった。
鋼鉄のような筋肉も、強固な骨格も、巨大な戦斧さえも。
数千度の熱量によって、一瞬で溶解し、気化し、灰へと変わっていく。
耐性? 防御力?
そんなものは桁違いの魔力の前では、紙切れ同然だ。
乃愛の放つ魔法は、ただ相手を「消滅」させるだけの現象だった。
数秒後。
炎が収まると、そこには何も残っていなかった。
ミノタウロスがいた場所には、黒く焦げた跡と、カランと乾いた音を立てて転がる高純度の「C級魔石」、そしてドロップアイテムの巨大な斧だけが残されていた。
静寂。
誰もが言葉を失っていた。
C級モンスターの蹂躙劇から、一方的な虐殺劇への転換。
そのあまりの落差に、脳の処理が追いつかないのだ。
やがて、誰かがポツリと言った。
「すすげえ……」
それが引き金となり、歓声が爆発した。
「やった! 倒したぞ!」
「一撃だ! あんな化け物を一撃で!」
「アルカディア万歳! 乃愛ちゃん最強!」
「魔法使いって、あんなに強かったのか!?」
わぁっと盛り上がる観衆。
スマートフォンが一斉に向けられ、彼女の姿を記録しようとする。
現代の英雄。魔法少女。救世主。
様々な称賛の言葉が飛び交う中、当の乃愛は足元に転がる魔石を拾い上げながら、小さく溜息をついていた。
(……うーん。
ギルドの中だと、私なんてまだまだ弱い方なんですけどねぇ)
彼女の脳裏に浮かぶのは、自分よりも遥かに凶悪な攻撃力を持つアタッカーのリンや、無敵の氷の女王と化した雫。
そして何より、全ての理を支配し、涼しい顔で「理論値」を更新し続けるギルドマスター八代匠の姿だ。
彼らに比べれば、今の自分は「ただマナが尽きないだけ」のタンク役に過ぎない。
C級ダンジョンの深層に行けば、もっと恐ろしい敵がうようよしているのだ。
(私でも『棒立ち』で倒せる程度のモンスターを、束になっても倒せない警察や一般探索者……。
この戦力差は問題ですね。
もし『スタンピード』が起きたら、私たちアルカディア以外は全滅するんじゃ……?)
乃愛は眼鏡の位置を直しながら、駆け寄ってくる警官隊や救急隊員たちを見つめた。
彼らは必死だ。
命がけで職務を全うしようとしている。
だが「力」が足りていない。
システム的な「数値」が、絶望的に低いのだ。
(警察機構の装備強化が必要なのでは?
あとでギルマスに提案してみましょう。
『警察向けの廉価版・量産型マジックアイテム』の卸売り。
きっとリーダーなら、「良いカモ……じゃなくて良い商談だ」ってニヤリと笑うはずです)
「あの! ありがとうございました!
貴女のおかげで助かりました!」
先ほど助けた若い警官が、敬礼しながら涙目で叫んだ。
乃愛は営業用の柔らかな笑みを浮かべ、軽く会釈を返した。
「いえ、当然のことをしたまでです。
事後処理はお任せしても?
私、これからギルドで会議がありますので」
「は、はい! お引き止めはしません!
アルカディアの皆様に、よろしくお伝えください!」
乃愛は優雅に背を向け、雑踏の中へと消えていった。
その背中は、一般人にとっては「雲の上の存在」そのものだった。
この事件は瞬く間に、ネットニュースやSNSで拡散された。
『渋谷のミノタウロス事件』。
そして『アルカディアの魔法使いによる単独撃破』。
動画サイトにアップされた「指一本で斧を止めるシーン」や、「棒立ちで攻撃を受け続けるシーン」は、世界中で何億回と再生されることになる。
コメント欄は多言語で埋め尽くされた。
『JAPANの魔法使いはクレイジーだ』
『これがMind Over Matter(MoM)ビルドの完成形か……』
『彼女ですらギルドのNo.1じゃないって本当か?』
『八代匠は何体の怪物を飼っているんだ』
この日、世界は改めて思い知らされたのだ。
「最強はアルカディアである」という揺るぎない事実を。
そして港区のオフィスでは、ニュースを見た八代匠が、
「……乃愛め、派手にやりすぎだ。
まあ、いい宣伝にはなったがな。
これで警察庁に高い装備を売りつける口実ができた」
と悪徳商人のような笑みを浮かべて、電卓を叩く姿があったとかなかったとか。




