第82話 マリアナの死闘と不滅の軍団、あるいは偽りの黙示録を打ち砕く光
スイス、アルプス山脈。
マッターホルンを望む雪原は、ほんの数十分前まで、人類の欲望が極まる「祝祭の場」であった。
世界各国から集結したトップランカーたち。アメリカの『リバティ・フロント』、日本の『暁の牙』の残党を取り込んだ新興ギルド群、イギリスの『王立探索騎士団』、そして中国やロシアの精鋭部隊。彼らは皆、白き神獣を打ち倒し、「不老不死」の奇跡をもたらすエリクサーの泉に一番乗りを果たそうと、ギラギラとした目を輝かせていた。
魔導ヒーターで雪を溶かして設営された前線基地では、各国のメディアがこぞって「誰が歴史に名を刻むのか」と熱狂的に報じていた。
だが、その熱狂は、一本の緊急通信によって物理的に凍りついた。
『――全軍、直ちに作戦を中止しろ! エリクサーなんて後回しだ!
今すぐI・G・Uが手配した輸送機に乗れ! 太平洋へ向かうぞ!!』
全探索者の通信端末に、最高権限で割り込んできたのは、I・G・U最高技術顧問であり、アルカディアのマスターである俺、八代匠の怒号だった。
「な、なんだって!? ヤシロ、正気か!」
「ここまで来て撤退しろだと!? ふざけるな、エリクサーが目の前なんだぞ!」
各国のリーダーたちがインカム越しに猛反発する。彼らにとって、エリクサーは国家の威信と巨万の富を約束された至宝だ。それを放り出して、真逆の方向である太平洋へ向かえなど、狂人の戯言にしか聞こえなかっただろう。
『正気だ! いいから言う通りにしろ!
このままここにいれば、地球ごと消し飛ぶぞ!!
世界の終わり(ワールドボス)がお出ましだ!!』
その言葉の重みに、反発していた声がピタリと止んだ。
彼らとて、スタンピードを乗り越えた歴戦の猛者だ。八代匠という男が、利益のない嘘をつく人間ではないことは、骨の髄まで理解している。その八代が、これほどまでに切羽詰まった声を出している。
事態の深刻さは、それだけで十分に伝わった。
幸いだったのは、俺がこの事態を想定し、事前に「スタンピード残党狩り」や「海上ダンジョン警戒」という名目で、日米の政府に強く働きかけ、初心者から高レベル帯に至るまで、数百万規模の探索者を太平洋の周辺地域――ハワイ、グアム、小笠原諸島、そして巨大な航空母艦や輸送艦の甲板上に、ひたすら集結させていたことだ。
彼らもまた、突然の警報に叩き起こされ、武器を手に上空を見上げていた。
「急げ! 一分一秒を争う!
スイスにいる連中も、俺たちが用意したヘリを使え! 一気に前線へ飛ぶぞ!」
文句を言いながらも、各国のトップランカーたちは己の武器を握り直し、未知の戦場へとその身を躍らせていった。
強欲な彼らであっても、世界がなくなれば金も命も使えないことくらいは分かっているのだ。
◇
轟音を立てて飛行する米軍の最新鋭魔導輸送ヘリ、V-22オスプレイの改良型。
その後部ハッチの縁に立ち、俺は荒れ狂う太平洋を見下ろしていた。
背後には、緊張した面持ちの乃愛、リン、田中、そしてアルカディア・サードを率いる結城旭が控えている。
「マスター……海が……」
乃愛が、震える指で眼下を指差した。
マリアナ海溝の上空。地球上で最も深いその海域は、本来ならば深い群青色をしているはずだ。
だが今、俺たちの眼下に広がっているのは、まるで墨汁をぶちまけたかのような、毒々しく、そしてどこまでも深い漆黒だった。
海面が異常な魔素濃度によって変質し、ゼリーのように粘り気を持って波打っている。
空は分厚い暗雲に覆われ、昼間だというのに太陽の光は完全に遮断されていた。紫色の稲妻が雲の合間を這い回り、この世の終わりを絵に描いたような光景が広がっている。
ズズズズズズッ……!!
海鳴りとは違う。地球そのものが軋みを上げるような、不気味な震動が空気を震わせた。
漆黒の海面が、大きく、ドーム状に盛り上がる。
一つ、二つ、三つ……。
隆起した海面が弾け、そこから現れたのは、巨大な蛇、あるいは竜のような「首」だった。
それが七つ。
それぞれが独立した意思を持つかのように鎌首をもたげ、空に向けて禍々しい咆哮を放った。
「キィィィェェェェェェェェェェッ!!!!」
鼓膜が破れんばかりの絶叫。
ヘリの防音ガラスすらヒビが入りそうな音圧に、乗員たちが耳を塞いで蹲る。
首の太さだけで高層ビルに匹敵し、水面下に隠された本体の大きさは、一つの島、あるいは小大陸にすら匹敵するだろう。
全身を覆う鱗は、いかなる光も反射しない虚無の黒。その周囲には、空間そのものを歪めるほどの絶対的な魔力断層が、幾重にも展開されていた。
「……出たな。化け物め」
俺はゴーグルを押し上げ、目を細めてその巨体に視線を固定した。
全身の魔力を瞳に集中させ、SSS級ユニークスキル【鑑定】を最大出力で発動する。
視界が赤く染まり、俺の脳内に、対象の存在を定義するシステムデータが暴力的な勢いで流れ込んできた。
【名前:リヴァイアサン】
【ランク:SSS級 / カタストロフィ(大厄災)級】
【特性:絶対防御機構(神聖不可侵の膜)、超広範囲時空魔法、自己再生(極大)】
【目的:目標地点(ニューヨーク・国連本部座標)に到達した瞬間、その座標を中心とした時空間そのものを『捕食』し、世界を終わらせる】
俺は息を呑んだ。
ゲームで何度も見たテキストだ。だが、現実のスケールでそれを突きつけられると、文字が持つ絶望感の重みが全く違った。
こいつは、ただ街を壊すだけの怪獣ではない。
目標地点に到達した時点で、地球という星の歴史、空間、概念そのものを丸呑みにし、ゲームオーバー(バッドエンド)を確定させる「歩く終了スイッチ」なのだ。
「全軍、およびI・G・U司令部へ通達!」
俺は通信機を掴み、叫んだ。
この情報は、包み隠さず全探索者に共有しなければならない。
「目標の個体名は『リヴァイアサン』! ランクはSSS級だ!
こいつの目的は単なる破壊じゃない! アメリカ、ニューヨークへ到達した瞬間、世界そのものを時空間ごと『捕食』する!
到達されたら終わりだ! 何が何でも、この海域で食い止めるぞ!!」
俺の言葉が多言語に翻訳され、太平洋上に展開する数千隻の艦艇、空を覆う数万の輸送機、そして甲板で待機する数百万の探索者たちの耳に届けられた。
『なんだと……!? 空間を捕食する!?』
『そんなデタラメな能力があるかよ!』
『おい見ろ! あいつの周りの空間が歪んでるぞ!』
『俺たちの攻撃が届くのか!? あんなの、神様じゃないか!』
通信回線から、パニックに陥りかけた探索者たちの悲鳴と怒号が溢れ出す。
無理もない。F級ダンジョンのゴブリン狩りで金稼ぎに夢中になっていた連中にとって、SSS級のワールドボスなど、理解の範疇を超えている。
圧倒的な質量と、絶望的な目的。
自分たちが積み上げてきたレベルも、大金をはたいて買った装備も、あの絶対的なバリアの前では紙切れ同然に思えたはずだ。
(……だが、ここで折れてもらうわけにはいかない)
俺はヘリのハッチから身を乗り出し、冷たい風を浴びながら、奥歯を噛み締めた。
この状況を打破するための「ルート」は、三つあった。
ゲーマーとしての俺の脳裏に、かつてシミュレートした過酷な選択肢がフラッシュバックする。
一つ目は、【ニュートラルルート】。
神にも悪魔にも頼らず、人間の力だけで理不尽に立ち向かう道。
世界に点在する未踏破のS級ダンジョン七カ所に隠された『星の楔』を回収し、この海域で同時に起爆してバリアに穴を空ける。
だが、その後の戦闘は地獄だ。数百万の探索者は、何一つ「加護」がない素の状態で、ボスの即死級の弾幕と広範囲攻撃を避け続けなければならない。現実でそれをやれば、9割以上の探索者が肉塊に変わる、文字通りの大虐殺になる。しかも、準備に時間がかかりすぎて、ニューヨーク到達に間に合わないリスクが高すぎる。
二つ目は、【カオスルート】。
毒をもって毒を制す。世界を犠牲にしてでも強大な力を得る道。
全人類の生命力(レベルや最大HP)を強制的に半分奪い取り、それを代償に邪神を召喚してリヴァイアサンにぶつける。
ボスは倒せるかもしれない。だが、その後の人類は永遠に弱体化し、空は赤く染まり、地球は人が住めない魔界へと変貌する。これからのダンジョン経済も、俺の商売も、全てが崩壊する。
(だからこそ……俺は、あれを選ぶしかなかったんだ)
三つ目の道。【ロウルート】。
被害の規模、効率、そして今後の世界の運営を考えれば、これこそが唯一の「最適解」だ。
だが、そのための対価は、システム上の数字ではなく、一人の気高き人間の「命」そのもの。
(……分かっている。分かっているさ。
生身の人間を犠牲にするなんて、俺だって胸糞が悪い。
だが、一人の聖者の命で、数百万の命が……世界が救われるなら。俺は悪魔にでもなってやる)
俺の決意を肯定するかのように。
あるいは、世界に最後の希望の光を灯すかのように。
全探索者の通信端末、そして世界中のあらゆるモニターとスピーカーに、強制的な割り込み通信が入った。
雑音が消え、静謐で、どこまでも穏やかな老人の声が、太平洋の荒れ狂う風の音を縫って響き渡った。
『――世界の子らよ。恐れることはありません』
その声を聞いた瞬間、恐怖に震えていた探索者たちの動きが止まった。
誰もが、その声の主を知っていた。
カトリックの頂点に立つ神の代理人。バチカンの最深部から、今まさに己の魂を捧げようとしている、ローマ教皇その人の声だ。
『聖書の終わりが来ました』
教皇の言葉は、まるで子供に昔話を読み聞かせるように、優しく、慈愛に満ちていた。
『永きに渡り、我々が恐れ、祈り続けてきた終末の時が、今、皆様の目の前に姿を現しています。
ですが……ここで、皆様に一つ、謝らなければならないことがあります』
通信の向こうで、教皇が微かに微笑んだような気配がした。
『新約聖書には、一つだけ偽りがあります。
ヨハネの黙示録には、「世界の終わりには、海から七つの頭を持つ獣が現れる」と記されています。
確かに、獣は現れました』
マリアナ海溝で咆哮を上げるリヴァイアサンの姿と、その声が重なる。
『しかし……それが「世界の終わり」であるというのは、大いなる間違いです。
神は、我々を見捨ててなどおられない。
獣が現れたこの時は、終わりなどではない。皆様が自らの足で歩み出す、希望に満ち溢れる未来の「始まり」なのです』
教皇の声に、確かな熱と、燃え上がるような信仰の力が籠もり始める。
それは説教ではなく、世界中を鼓舞する魂の叫びだった。
『我々は決して負けません。
理不尽な暴力にも、絶望的な運命にも、決して屈しはしない!
なぜなら、皆様こそが、新たな時代を拓く剣であり、盾であるからです!』
バチカンの地下祭壇。その情景が目に浮かぶようだった。
教皇は今、自らの命を触媒として、古代のアーティファクトを起動させているのだ。
『私の命は、今この瞬間のためにありました。
神の奇跡を、皆様のその身に!』
教皇の声が、頂点に達する。
『さあ、探索者達よ!
私の魂を鎧とし、レギオン(不滅の軍団)となりて……あの悪を倒すのです!!!』
その絶叫を最後に、通信はプツリと途絶えた。
事切れた教皇の命が、肉体を離れ、光の粒子となって天へと昇っていくのを、俺の【鑑定】の眼は確かに捉えていた。
その直後だった。
暗雲に覆われていた太平洋の上空が、突如として黄金色の光に包まれた。
太陽の光ではない。それはバチカンから放たれ、地球の裏側まで一瞬にして到達した「奇跡の光」だった。
ズウゥゥゥゥゥンッ……!!
黄金の光が、リヴァイアサンを包み込んでいた漆黒の絶対バリアに降り注ぐ。
いかなる物理攻撃も魔法も通さなかった神聖不可侵の膜が、まるで熱したナイフでバターを切るように、音を立てて融解し、ガラスのように砕け散った。
「バリアが……消えたぞ!!」
誰かの叫び声。
だが、奇跡はそれだけでは終わらない。
空から降り注ぐ黄金の粒子が、海上に展開する数百万の探索者たち全員の体に吸い込まれていく。
俺の体にも、隣にいるリンや乃愛、田中の体にも、その光は満ちていた。
システムウィンドウが、視界の端にポップアップする。
【特殊バフ:『不滅のレギオン』が付与されました】
【効果:対象がリヴァイアサンを討伐するまでの間、いかなる致死ダメージをも無効化し、HPが0になった瞬間に完全回復状態で即時蘇生する。痛みは消え去り、魔力は無限に湧き出でる】
「……なんだこれ。
力が……無限に湧いてくる……!」
アメリカの兵士たちが、自分の手を見つめて震えている。
日本の若き探索者たちが、体の底から溢れ出す全能感に歓喜の声を上げている。
死の恐怖が、完全に消え去っていた。
致死ダメージ無効。即時蘇生。
それはつまり、相手がどれほど強大であろうと、「絶対に負けない」というシステムからの保証だ。
恐怖は消え、後に残ったのは、燃え上がるような闘争心と、教皇の祈りに応えようとする強烈な使命感――いや、目の前にいる最大の獲物を狩り尽くそうという、純粋で強欲な熱狂だった。
「うおおおおおおおおおおっ!!」
「教皇猊下が守ってくださっているぞ!!」
「死なない! 俺たちは死なないんだ!!」
「あのデカブツをぶっ殺せえええええ!!」
数百万の探索者たちが、一斉に咆哮を上げた。
それは、もはや人間の軍隊ではない。
死を恐れず、無限の魔力を行使する、黄金の光に包まれた究極の「レギオン」だ。
空からは数万の魔法使いが、炎と雷と氷の嵐をリヴァイアサンの七つの首に向けて一斉に放つ。
海面を氷結させて足場を作り、重戦士たちが巨大な剣や斧を振りかざして突撃していく。
アメリカの『覚醒の聖杯』で強化された超人たちが、ミサイルのような速度で怪物の装甲に肉薄し、日本の理論値装備で固めたタンクたちが、リヴァイアサンの反撃の波動を笑いながら受け止める。
「グオォォォォォォォッ!?」
リヴァイアサンが驚愕に満ちた叫びを上げた。
自らの放つ時空を歪めるブレスが、羽虫のような人間たちを薙ぎ払っても、彼らは即座に光となって蘇り、さらに狂暴な笑みを浮かべて群がってくるのだから。
神話の怪物が、初めて「人間」という種族に恐怖した瞬間だった。
「行くぞ、お前ら!
教皇が作ってくれた、最高のボーナスステージだ!
一ミリの肉片も残さず、あいつを解体してやるぞ!!」
俺は双剣を抜き放ち、ヘリのハッチから虚空へと身を躍らせた。
後に続くリン、乃愛、田中、そして旭たちアルカディアの精鋭も、歓喜の声を上げて空を駆ける。
人類と神話の怪獣。
決して交わるはずのなかった二つの理が、マリアナの海の上で、圧倒的なスケールの暴力となって激突した。
最後までお付き合いいただき感謝します。
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