最終話 世界で一番うらやましい追いかけっこ
僕――春川 優里は、黒板の横に貼り出されている「掃除当番表」を食い入るように見つめていた。
今日、教室のゴミを回収した当番の名前。それを確かめれば、相沢くんより先に消しゴムを回収した人がわかるはずだ。
そこに書かれていた名前を見た瞬間、僕は衝撃に身を震わせた。
(……今日の教室のごみ回収の当番は“朝比奈すみれ”さんだ……!)
つまり、ゴミ箱に捨てられた僕の消しゴムを拾えたとすれば――。
(今しかない。聞かなきゃ……!)
――その日の放課後。
僕は悶々としていた。結局、五時間目も六時間目も終わってしまった。
夕暮れの光に照らされる教室で、彼女は机の引き出しから教材を鞄に入れて帰る準備を始めていた。髪が夕日に透けて金色に見えて、胸が苦しくなる。
本当に朝比奈さんが僕の消しゴムを持っていたとして、その先は……。
もし、彼女が消しゴムの中の僕の名前と彼女自身の名前を見ていたら……。
そんなことを何百回も脳内でシミュレーションするたびに、僕は怖くて席を立つ勇気が出ない。
すると僕の後ろから相沢くんが静かに言った。
「大丈夫。絶対上手くいくから。頑張って」
僕は頷いて勇気を振り絞って彼女に歩み寄った。
「……あのさ、朝比奈さん」
僕が話しかけると彼女もどうやら驚いている
「ひゃ! ど、どうしたの、春川くん!?」
月並みな言葉だけど、ものすごく緊張した。でも、今は退けない。
「……今日の掃除のとき、ゴミ箱から……何か、拾ったりしなかった?」
一瞬。彼女の目が大きく見開かれた。だけどすぐに笑顔を作り直し、首を振る。
「え? なにそれ、どういうこと?」
ごまかすような声色。
だけど、僕の目はソレを見逃さなかった。彼女のペンケースの隙間から、あの白地に黒文字の紙ケース――『MONOKURO』の文字がちらりと覗いたのを。
(……やっぱり! 朝比奈さんが持っているのは、僕の消しゴムだ!)
「それ……もしかしたら僕のじゃないかな。新品の『MONOKURO』、今日、なくしちゃって……」
僕が踏み込むと、朝比奈さんは慌てて筆箱を閉じた。
「ち、ちがうよ! これは……私の!」
「でも、これは!」
僕は彼女の筆箱へ手を伸ばそうとする。
「だめっ! 見せられない!」
思わぬ“攻防戦”に、僕の胸はドキドキと高鳴った。
彼女は真剣な顔で筆箱を抱きしめている。
だが、僕も引くわけにはいかない。
「紙のケースをとって見せてくれればすぐわかるんだ。もし、本当に僕のじゃなかったら、それでいいから!」
「……それは私が困るの……!」
「なんで!?」
問い詰めると、彼女はしばし唇を噛み。
僕の前を横切って教室から全速力で出て行ってしまった!
(えええぇぇぇ!? なんで!?)
「え、ちょ、ちょっと待って!?」
慌てて僕も後を追う。
廊下を駆け抜ける彼女の後ろ姿。廊下には夕日が差し込み、伸びた影が長く床に揺れていた。
曲がり角を抜け、階段を駆け下り、飛び込んだのは図書室。
「しーっ! 走らないの!」
司書の先生に怒られそうになり、僕らは慌てて口元を押さえて小走りに移動。
本棚の間に隠れた彼女を見つけ、僕は思わず声を張り上げた。
「これ以上は無駄だよ、朝比奈さん!」
「やだ……っ! 見られたくないの!」
彼女は顔を真っ赤にして、反対側の扉からまた飛び出していく。
今度はパソコン室。無機質な蛍光灯の明かりが白く床を照らす中、パソコンの電源が点滅していて、妙に現実感がない。
彼女は振り返りざまに僕をにらむ。
「追いかけてこないでよ!」
「いや、追いかけるって! だってそれは僕の消しゴム――」
「だから、それが困るのっ!」
小さなやり取りが、どこか鬼ごっこのようで、僕は胸が苦しいのに楽しくもあった。
そして最後にたどり着いたのは音楽室。
窓からは赤く沈む夕日。グランドピアノの黒い艶が橙色に染まっていた。
彼女はピアノの前で立ち止まり、肩で息をしていた。僕も同じく胸が大きく上下していた。
「……はぁ……はぁ……朝比奈さんって足早いんだね……」
静まり返った音楽室。校庭の生徒たちの声と、僕たちの荒い呼吸だけが響く。
「でも……もう逃げられないよ、朝比奈さん」
そう言ったときだった。
彼女が後ずさった拍子に、ピアノの足に軽くつまずいた。
「きゃっ!」
次の瞬間、彼女はバランスを崩して床に尻もちをつき、その拍子に抱えていた筆箱を取り落とした。
カランカラン、と音を立てて中身が散らばる。シャープペン、赤ペン、定規、クリップ……それらが四方に転がっていった。
「だ、大丈夫!? 朝比奈さん!」
そして――ひときわ目を引く白い四角が、床をすべるように僕の足元へと転がってきた。
黒い文字で『MONOKURO』と書かれた紙のケース。間違いない。僕の消しゴムだ。
音楽室の夕陽に照らされ、その白さはやけに眩しく見えた。
僕は膝を曲げてそっと拾い上げた。
「……これ、やっぱり僕のだよね」
彼女は顔を真っ赤にして、床に座り込んだまま目を逸らした。
「見せたくない!」
「だから……どうして――」
「……だって、その消しゴムには――私が書いた春川くんの名前があるんだもんっ!」
「――えっ……!?」
全身が固まった。じわじわと耳まで熱くなるのがわかる。彼女が今なんと言ったのか。僕の名前が――この消しゴムに?
でも待て。僕がその消しゴムに書いたのは、“朝比奈すみれ”の名前だ。
と、いうことは――。
僕は恐る恐る、消しゴムのケースに指をかける。
彼女は観念したのか僕の方を見ていた。
そして僕が紙のスリーブをゆっくりとずらす――。
僕の人生で一番長い瞬間だった。
そこにははっきりと“春川優里”の文字。
それと同時に消しゴムの反対側の面を見ている彼女は、僕が書いた“朝比奈すみれ”の文字を見ているのだろう。
「うそ。私の名前……」
「こっちは僕の名前……書いてある……」
僕は息を呑んだ。胸の奥で、熱いものが一気にこみ上げてくる。
朝比奈さんも顔を真っ赤にして、指先をもじもじと絡めた。
「……その……小学生のころ、友達とふざけてやってたおまじないを思い出しちゃって。新品の消しゴムに好きな人の名前を書いて、誰にも見られずに使い切ると両想いになれるって……」
彼女の声は震えていた。けれど、しっかりと僕の耳に届いた。
「私……春川くんの名前を書いたの。そしたら……」
「……僕もだよ」
気づいたら口にしていた。彼女が顔を上げる。驚いた瞳と、真っ赤な頬。
「僕も……そのおまじないを信じて。朝比奈さんの名前を書いたんだ」
しばしの沈黙。窓から降る夕日の光が、二人の間を染める。
「……じゃあ、私たち」
「……両想い、なのかな」
言葉にするのは勇気が要った。けれど、言葉にしてしまえば、胸のつかえがすっと消えていく。
朝比奈さんは小さく頷いた。瞳に夕焼けが映り込み、キラキラと光って見えた。
僕は、手の中の消しゴムにはずしたケースをそっと再びつけた。
小さな四角の中に刻まれた、僕たちの名前。その秘密が、奇跡的に僕たちを繋いでくれたんだ。
窓の外、放課後の校庭を駆けていくサッカーボールの音が響く。
僕はただ、目の前の彼女を見ていた。多分、彼女も同じ。
(もし本当にこのおまじないが叶うなら……僕は何があっても、この消しゴムを最後まで使い切るだろう。多分、これも彼女と同じ)
教室に、チャイムの鐘が鳴り響いた。
その鐘の音は、僕たちの新しい関係の始まりを現しているようだった。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
本作は「30分で読み切れる短編シリーズ」の一つとして執筆しました。忙しい毎日の合間や、ちょっとした休憩時間にでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。
また、アキラ・ナルセのページ内「シリーズ」として、同じく【30分読破シリーズ】をまとめていますので、ぜひ他の作品もお楽しみください。
今後も、同じく30分程度で読める短編を投稿していく予定ですので、また気軽に覗きに来ていただけると幸いです。