2-3 口説かれる
グラスに注ぎ足された真紅のワインを一輝は「すみません」と受け取った。その実、そんなに酒に強いわけではないが、勧められたら断るほどでもなかった。一輝がグラスを傾けるのを眺めてから、守屋は続ける。
「ところでさ、あの写真を見てからさ、おれも一輝君のこと撮ってみたいと思ってたんだよね」
「守屋さんがですか?」
佳祐がなにか気付いたような顔で守屋を見た。
「あの写真を突き破ってきそうな視線に当てられたんだ。やっぱり色々なモデルさんを撮ってるけど、こっちに食い込んでこっちに来るようなモデルさんて、あんまりいないからね。一輝君にすごく興味があるんだよね」
「それは佳祐が撮影したからじゃないですかね」
と、一輝は引っ込もうとする。それを遮るように、守屋は少しだけ熱の増したような口調で続ける。
「確かにそうかもしれないけれど、だけどおれもやっぱりいいモデルさんがいたら、撮りたいと思っちゃうよ」
「そうですかね」
そうなのか、と思いながら一輝は答える。どうも妙な方向に行っている気がする。
「 モデルやらない?」
と、守屋は一輝に誘いかけた。
「モデルですか」
「そう 今 写真集を撮っててさ」
さっき佳祐が言っていた作品集だろうか、と思う。
「『ヤマメ』っていうタイトルにしようと思ってるんだけど」
「ヤマメって川魚のですか?」
「そうあの山女魚。あの魚の顔を見たことがある?小さくって上品で、なにかこっちに訴えかけてくる感じがあるよね。あんなのを串刺しにして焼いて食べるなんて、可哀想だけれどさ……、みていると、表情があるんだよ、あの魚は」
言われてみれば、そうかも知れない。一輝は小さい頃、父親と清流釣りに出かけて、ヤマメを釣った。後で、山女魚と書くと知り、なんとなく特別な魚なのだな、と感じたことを思い出す。
「魚の枠を超えてくる感じ?だから、そういう……写真を飛び出してくるみたいな、訴求力があるモデルさん達を撮りたくってっさ。あと今、山梨に事務所があるから、その山のなかのロケーションを活かして撮影しているんだよね……山の女、だからヤマメなの」
「なるほど……」
先程展覧会で見た女性の写真を思い出した。あの写真もきっとその一部だったのだろう。
「一輝君は男の子だけど、まぁヤマメにもオスはいるからね」と笑い、一輝の顔を品定めするような目つきで眺めて、「何より綺麗だし、一人くらい、男の子の写真があってもいいかなって思って……」と冗談ぽく誘ってくる。
「それは、ちょっと……」
本気なのかどうか測りかねている一輝の横で、佳祐が警戒したような声で言った。
「ちょっとこいつは本当に一般人なんで、向いてないですよ」
「 それはそこを引き出すのが プロの力量ってもんじゃないのかな」
あっさりと佳祐の反論は切り捨てられた。守屋は熱っぽく続ける。
「……ただ、控えめで綺麗って中に、一輝くんにはなんというか、強さっていうか、そういう魅力が滲んでいるから。そういうのが出せると、やっぱり訴求力のあるいい写真が撮れると思うよ。あの佳祐が撮ったみたいな 」
一輝と佳祐は目を見合わせた。
守屋は佳祐にも矛先を向けた。
「……佳祐、お前も今 スランプじゃないか。もう一度一輝君のこと撮らせてもらったらあの写真の時みたいに、何かすごいインスピレーションが湧いてくるんじゃないか」
「それは……」
佳祐が息を呑む気配が伝わってくる。
「そう、かもしれないですけど……」
その守屋の言葉に納得したようだった。
けれども佳祐は一輝の様子を伺ってくる。彼は一輝が決してそのようなものが得意でないということを知っている。一輝に対する 遠慮があるのではないだろうかと思った。
「……いいよ。佳祐が撮りたいなら別に」
一輝は答えた。
先ほど守屋の写真を見て、悲しそうな切なそうな表情をしていた佳祐に何かしてあげたいと思った。
守屋が言う通り、もし自分がその写真を撮られることで、佳祐に何か良い影響があるのであれば 、恥をおしてでも、協力しても良いという思いはあった。
「一輝……」
「じゃあ 決まりだね」
と守屋が言った。一輝はあくまで佳祐に言ったのだったが、守屋に、そう断言されて焦る。
「待ってください、おれは佳祐のモデルはしますけれど、ちょっと写真集は……」
「場所の設定とかは、うちのスタジオとしてするから。佳祐もおれが立ち会ったほうが良いだろうし……」
確かにそれはそうなのかもしれないと思った。
「おれにも撮らせてほしい。あの写真と、今日の感じを見て、すでにイメージができちゃってるから、」
ね、と守屋は目を細めた。笑う眼差しの奥に、狙ったものを逃さまいとする意志を感じる。自分の芸術性に対する確信なのかもしれなかった。
「守屋さん、こいつはやっぱ素人なんで……ちょっと守屋さんの求めるようなレベルは高いっていうか」
佳祐もなんとか止めようとしたがったが、一輝自身がモデルをやると言ってしまった手前、その理屈だけでは守屋が肯んじないのは明らかだった。
「大丈夫。おれがうまく撮ってあげる。それに、一輝くん自身が佳祐のためならモデルをやるっていうなら、おれが撮っても構わないでしょう?それとも、佳祐は良くておれに撮られるのは嫌なの?」
そういう言い方をされてしまうと、断ったら、プロに対して、失礼に当たる気がする。守屋は佳祐以上に、強引なところがあるようだ。ただ、その熱意は、先程写真に感じたような、なにか妖しい引力のように人を引き付ける。それくらい本気で何かを撮りたいという気持ちが強いのだろう。
「もちろん謝礼も出すし」
一輝は、守屋が熱心に語る唇の動きをただ眺めた。
「何よりおれの写真と比べたほうが、佳祐も勉強になるだろう?」
「っ、それは……」
佳祐が言葉に詰まった。
「同じ被写体でも、どう捉えるかによってその撮影者の視点が出てくるんだから、一旦、これを機に自分の表現に向き合えるんじゃないか」
佳祐も黙り込んだ。唇を噛むように一瞬、難しい顔をしたが、ふっと力を抜く。困ったように一輝を見た。
一輝はその顔見ていつもの佳祐らしからぬ弱さを感じた。
平気なふりをしていても、やはりスランプはしんどい物なのだろう。困り果てたその様子に、手を差し伸べるか、と思った。
きっと佳祐も高校の頃だったら強引に一輝にモデルをさせたのだが、大人なった今は分別からか、そういうわけにもいかないらしい。根は素直な男だから、一輝の気持ちも考えて、今はおそらく葛藤しているのだろう。一輝が折れれば丸まる話だ。
やれやれというように軽く首を振って、一輝は「わかりました」と答えた。
「じゃあ交渉成立ということでいいよね?」
守屋が手を出してきた。一輝も仕方なく手を差し出す。案外冷たい守屋の手が絡みつく。消して強い力ではないが、なにか引力のようなものに引き寄せられるように、離す事はできなかった。
佳祐の顔を見ると、心配そうにこちらを見返してきた。もしかしたら、一輝を巻き込んでしまったと気がとがめているのかもしれない。むしろその姿に勇気が奮い立たされた。守屋に撮られるのは少し怖いが、佳祐のためになるなら、むしろ嬉しいことだった。
そして、一輝は「お手柔らかに、お願いします」と微笑んだ。