1-1 冬のある日
その夜「かえしてよ」と言われる夢を見た。
眩しいくらいの白いドレスを着た綺麗な女の人だった。それが美波だと、なぜ判ったのかはわからない。
夢が途切れ、二人分の体温であたたまった布団の中で、一輝は目を覚ました。横では佳祐が眠っている。近くにあるその胸元から、石鹸の香りの底にある、生身の人の匂いを感じた。陽を浴びた麦わら帽子みたいな、懐かしい匂い。どこか気が抜けて眠たくなってくる。
枕元の電光時計は24時近くを指していた。
あと少しで昨日になる、今日の帰り道。
もし、雪が降っていなかったら。
佳祐の傘が盗まれていなくて、二人で一輝の傘をさして帰る事態にならなければ。
強風がその傘を壊さずに、二人とも雪まみれにならなければ。
何も起きなかったかもしれない。
でもそんな分岐点を過ぎて、こうなっている。一輝は、ある種の清々しい諦めのような気持ちすら感じている。
【はじめからずっと】
明日から高校最後の冬休みが始まるその日、みぞれ混じりの強い雨風の中を、より学校から近いという理由で、佳祐の家まで走って避難した。
佳祐の家は彼の父親が経営している写真館に隣接している。地元で名のしれた写真館だったが、その日は休みらしかった。そして、家の中も同様に静かだった。佳祐が言うには、父親は仕事で一週間ほど県外に出ており、母親は遠方の法事で不在にしていて、妹も部活の遠征合宿に行っていた。つまり家には誰もいなかった。
二人とも凍えきっていたので、どちらかが先にシャワーを浴びるというのは、お互いに忍びなかった。
とはいえ一応、一輝は遠慮した。だが、佳祐が「部活でも一緒に入ったことあるだろ」と三年も前の、中学時代の合宿の話を持ち出してきて、一輝の手を引いた。
「や、流石にあん時は大浴場だったし」と一輝が言うと、佳祐は「照れてんの?」と二重のはっきりした目を細めて笑った。
その挑発に乗って、一緒に風呂に入ることになった。
脱衣所の鏡の前に服を脱いで立つと、佳祐との体格差がありありと分かり、いつものことだが一輝は改めて苦笑した。ようやく平均程度に背は伸びたが、一輝は相変わらずの痩せ型で、佳祐の方は昔から背も高く、隣りに立たれると、無意識に凭れてしまいそうになるくらい、がっしりした体つきだった。その上、少し浅黒い肌に黒い髪、はっきりした目鼻立ちで存在感がある。
方や、一輝は痩せ型の上、色白で、髪も色素が薄くて茶色っぽい。それに性格的にも目立つ方ではないから、いつも自分のことを、消えかけのろうそくみたいだ、と心のなかで自虐している。
だが、対象的な二人でも、その濃淡が何となくしっくり来るのか、自然と隣同士におさまってしまう。
それは、中学の頃から変わっていない。その頃から二人はずっと一緒だった。
シャワーを浴びながら背後に立った佳祐が、いつものように一輝の肩に腕をかけてくる。「重いんだけど」と不平を言うと、「やっぱちょうどいい高さだなって」と半笑いで返された。
「今肩に手をかけたら洗いづらいだろ」
ツッコむように軽い感じで言いながらも、内心、一輝は冷や汗をかきそうになっていた。
どうにかその腕から逃れようとするも、佳祐は「背中洗ってやる」と、面白がって、あろうことか泡を付けた掌で一輝の背中を一撫でした。
「やめろって……」
坐骨の辺りまで降りた手に、全ての意識が集中する。毛穴から滲み出た汗がすぐにシャワーの水流に混じって床面に落ちていく。一輝は咄嗟に目を閉じ、息を詰めた。
その間は一瞬だったのか、そうでなかったのか。
抗議するように佳祐を振り返ると、目鼻立ちのはっきりした顔が見返してきた。人当たりの良さそうな顔で、裏を返せば隙がなく、他人には容易に腹の底を見せないということだ。
でも、付き合いの長い一輝の前では、ころころと表情を変える。
いま、佳祐は一輝をからかって笑っていた。多分、一輝の動揺に気が付いている。そして、なぜ動揺しているのかも知っているのだ。しかも、ずっと前から。
一輝は息を整えると、シャワーノズルに手を伸ばした。そして、仕返しとばかりにシャワーの湯を佳祐の顔面にかけてやった。
風呂上がりにリビングで少し過ごしてから、一輝がそろそろ帰るかな、と立つと、佳祐がその手を引いた。
「いいじゃん、泊まっていけば……どうせ大学も決まったんだし時間あるだろ」
佳祐の言う通り、一輝は先日公立の大学に推薦合格をもらっていた。
「まぁ、おれはそうだけど……お前だってセンター試験受けるんだろ」
と一輝は返す。なんだかんだ佳祐のほうが成績が良い。佳祐の母親は国立大学に進学してほしいと言っていると聞いていた。
「まぁ、形だけな」
と佳祐が言葉を濁す。
「……やっぱ、前言っていた写真の、専門学校に行くのか?」
「……親父は『好きにしろ』って感じだけど、母さんにはまだ言えてない……でも、やっぱりそっちに行くと思う」
「お前が国立行かないってなったら、先生たちも悲しむな」
と一輝は笑って、
「でもお前なら才能もあるし……専門の方がコネとかできるしいいのかもな」
と静かに応援する。佳祐は照れたように「どうかな」と呟いてから、「それより……」と、一輝の肩に手を回して、ソファーに引き戻す。
「泊まってけって。家に誰もいなくて、さみしいんだよ」
「さみしい、たって……」
たった数日一人で過ごすくらい、どうってことないだろうと一輝が言いそうになったときに、佳祐が耳元で囁いた。
「お泊りしてくれたら何でも言うこと聞くから」
一輝は幅のある切れ長の目を細めた。
またいつものやつだった。たまに佳祐は冗談で、わざとこういう、仄めかすようなことを言う。最初こそドキマギしたが、今や慣れたものだった。
「そんなに暇なら美波でも呼べば。この前ヨリ戻したんだろ」
肩に置かれたままだった佳祐の手を払いながら、一輝は言った。
「んー、まぁ呼べば来るだろうけど。この雪だし……」
「たしかにそうだったな」
「それに別れたし」
危うく「へー、」と流しかけて一輝は、いやいやと首を振った。
「別れたって、確か2週間前じゃんか。また付き合いだしたの」
「よく覚えてんな」
「ちょうど聞いたのが、おれの誕生日だったから」
「あ、そっか、18歳おめでとう」
「いや……まぁそれはいいけど」
それにしてもと、一輝はため息をつきつつ、
「なんで別れたんだ」と聞く。佳祐は「いやー、」とこめかみに指を当てて苦笑いする。
「ほらあいつ、気が強いからさ」
「……今更かよ」
「はは、そりゃそうだ。……てか、お前に言った日。すっかり忘れてたけど誕生日だったな」
改めて何かに気づいたような口ぶりで佳祐は呟いた。
「だからそれはさっきも言ったし。……去年までお前も覚えてただろ。人が寝てんのに、わざわざ12時に連絡してきてさ……」
なんなんだ、と一輝は佳祐をみた。思案げに口元に指を当てつつ、佳祐は答えた。
「……いや、本当はその二、三日前に付き合ってたんだけどさ。美波に言うなって止められてたんだよ。あいつ、わざとお前の誕生日に当てるように仕組んだんだ」
「ふーん」
一輝は関心なさそうにソファーで足を組んだ。佳祐は食い下がるように続けた。
「だから、美波がわざとその日にしたのは……つまり、」
「つまり……なに?おれへの誕生日サプライズってこと?……分かりづらいし、どうでもいいし。どんなプレゼントだよ」
「いや、そうじゃなくて。多分お前への当てつけだったんじゃないか?」
鈍いやつだとでも言う風な顔で、佳祐は一輝を見た。
「……なんでお前と美波が付き合うと、おれへの当てつけになるんだ?」
一輝は本気で首を傾げた。佳祐の言っていることの理屈がそもそも通らない。
美波と佳祐は中学の頃からもう何度も付き合ったり別れたりを繰り返している。そこに自分の入る余地などないことを、一輝は知っている。美波にとって、佳祐に気のありそうな女子たちはともかくとして、男である一輝を相手にする気などは起きないはずだ。
「何でって……」
そこで、佳祐の腹の音がなった。
「とにかく、何か飯作ってくれ」
「なぜおれが……」