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女主人達の異世界グルメ

瑠璃亭のアルマ

作者: 百鬼清風

 南の風が丘を越え、野花の種をさらっていく頃。私は、小さな街道宿「瑠璃亭るりてい」の厨房でスープをかき混ぜていた。


「もう少し…塩、かな」


 味見用の木匙を唇にあて、そっと舌で味を確かめる。根菜の甘みと鶏の出汁はよく出ているけれど、どこか物足りない。ぐつぐつと音を立てる鍋の湯気が、私の鼻先でふわりと香る。あと一つ、何かが足りない気がする。


「アルマ、もう開けていいかい?」


 裏口から顔をのぞかせたのは、近所の果樹園を営む老婦人、ナリヤさんだった。


「もちろん、ナリヤさん。今日はリンゴのピクルスを試してみたんですよ。お口に合えばいいんですけど」


 私は手を拭いてから、笑顔で扉を開けた。瑠璃亭は旅人も地元の人も歓迎する、小さな宿だ。けれど私は、ここに来てからずっと「食堂」を作りたかった。ふらっと立ち寄れて、心まであたたかくなる料理を出せる場所を。


 そんな瑠璃亭に、あの日、彼が現れた。


「すみません、一泊できますか?」


 その日、陽が傾くころ。旅装束の若者が、重そうな荷を背負って現れた。髪は栗色、目は透き通るような淡い緑。彼の名はエミル。どこか空の匂いがする、不思議な雰囲気をまとっていた。


「はい、空いてますよ。ご夕食はどうなさいますか?」


「ええと…今日のおすすめ、ありますか?」


 私は笑った。おすすめなら、いつも心に決めている。


「“今日のスープ”です。食材はその日によって変わりますが、体の芯から温まる一杯ですよ」


「じゃあ、それをお願いします」


 彼の笑みは、どこか懐かしい感じがした。まるで、初めて会った気がしなかった。


 厨房に戻ると、私はさっそくエミルの分のスープを仕上げた。今夜のスープは、白いんげん豆とセロリ、干し肉をじっくり煮込んだもの。決して派手ではないけれど、優しく、滋味深い。


「お待たせしました。“今日のスープ”です」


 テーブルに置くと、エミルはすぐに手を合わせた。


「いただきます」


 スプーンを口に運ぶ彼の顔が、ほころんだ。


「…うまい。なんだか、旅の疲れがすっと引いていく感じです」


「そう言ってもらえると、嬉しいです」


 その夜、彼は静かにスープを味わい、やがて満足げに目を閉じた。


「アルマさん、この宿…もしかして、あなたがひとりで?」


「はい。ここでの暮らしも、料理も好きなんです。毎日、新しい出会いがありますし」


「ふーん。…じゃあ、俺も少しの間、滞在していいですか?」


 私は、思わず彼の目を見た。その表情は穏やかで、どこか決意めいたものを感じた。


「ええ、もちろん。歓迎しますよ」


 翌日から、エミルは厨房を手伝ってくれるようになった。食材の荷ほどき、野菜の下ごしらえ、パンの焼き加減を見るのも、なぜか手際がいい。聞けば、かつて彼の故郷でも小さな食堂で働いていたらしい。


「旅をしている理由、聞いてもいいですか?」


「…家族を探してるんです。小さい頃に離れ離れになった妹を。風の便りで、南の町にいるかもって聞いて」


「それで、ずっと歩いて?」


「ええ。途中で色んな町を見て、色んな料理を食べて…でも、どこか落ち着かなくて。ここに来て、やっと心が静かになった気がしたんです」


 私は黙って、スープに塩をひとつまみ加えた。今日のスープは、カボチャとハーブのポタージュ。甘く、ほんのりと苦く、けれど癖になる味。


「人の心を動かす料理って、こういうのかなって思ったんです。あなたのスープを飲んで」


 その言葉に、胸が熱くなった。


「…ありがとう。そう言ってもらえるなんて」


 その日の夜、ふたりで食べたスープは、これまででいちばんやさしい味がした。



 春が近づくにつれて、陽の光が少しずつ伸びてきた。瑠璃亭の小さな庭には、野の花がちらほらと顔を出し始め、裏山の木々もふくらんだ蕾を震わせている。


 そんなある日、私はレモンピールの砂糖煮を仕込んでいた。午前中にナリヤさんからもらったレモンは、小ぶりだけれど香りが濃い。


「エミル、味見する?」


「え、いいんですか?」


 彼がにこりと笑って近づいてくる。差し出したスプーンを受け取った彼は、慎重にレモンピールを口に運んだ。


「…うわ、苦いのに甘い。すごく、元気が出そうな味ですね」


「レモンって、見た目は明るいのに、味はどこか切ないでしょう?」


 そう言うと、彼は少し驚いた顔をしてから、静かにうなずいた。


「…そうですね。なんだか、誰かを思い出しそうになる味です」


「誰かって?」


「…妹、かな」


 私が何か言いかける前に、玄関の扉が「カラン」と音を立てて開いた。振り向くと、旅姿の女性が立っていた。背は高く、濃い藍色のマントを肩にかけ、長い金の髪を風に揺らしている。


「旅人さん、いらっしゃいませ。お泊まりですか?」


「いえ、昼食を。…“今日のスープ”、いただけますか?」


 はっとした。声が低く、けれどどこか澄んでいる。凛としたその佇まいに、私は思わず背筋を伸ばしていた。


「もちろんです。すぐにお作りしますね」


 厨房に戻りながら、私はレモンピールを火から下ろし、スープの鍋に向かった。今日のスープは、白身魚と春野菜のブイヨン仕立て。あっさりしているけれど、レモンピールの微かな香りを足すことで、ほんの少しだけ、記憶に残る味に仕上がる。


「お待たせしました。“今日のスープ”です」


 女性はゆっくりとスプーンを口に運び、静かに目を閉じた。まるで、何かを探るように。


「…不思議な味ですね。懐かしいような、けれど知らないような」


「レモンの香りが、記憶をくすぐるのかもしれませんね」


 すると彼女は、ふとこちらを見て言った。


「ここの料理人は、あの人ですか? そこの青年?」


 エミルが驚いて身を固くした。


「いえ、私です。彼は厨房の手伝いをしてくれてますけど…」


「そう。失礼しました」


 女性はそれ以上何も言わず、静かに食事を終え、レモンピールを一切れだけ包んで宿を去っていった。


 扉が閉まった後、私はそっとエミルを見た。


「知ってる人?」


「…いいえ。でも、なぜか…心がざわつくんです。あの人、何かを知ってるような気がして」


 私は黙って、残りのスープをかき混ぜた。鍋の中から立ちのぼる香りは、さっきより少しだけ、切なく感じた。



 春の風が強くなり、裏庭の花びらがぱらぱらと散りはじめた午後。私はオーブンの前で、フィグと蜂蜜を練り込んだ焼き菓子を焼いていた。小麦粉とナッツの香ばしい匂いが、静かな宿を満たしている。


「…すごくいい香り」


 エミルが裏口から顔をのぞかせる。風に髪が乱れて、頬にはうっすら土の跡がついていた。


「畑、耕してくれてたの?」


「はい。でもクワが途中で折れちゃって…それで手で、えへへ」


 私は苦笑しながら、焼き菓子のトレーを取り出した。


「それじゃ、今日の報酬に、これ。焼きたてだから気をつけて」


「…わあ」


 トレーの上には、丸く焼かれたフィグ入りのクッキーが十数枚。外はさっくり、中はしっとりとした食感に仕上がっている。


「これ、どこかで食べた味に似てる…」


「そう?」


 彼は黙ってもう一口かじり、それからぽつりと呟いた。


「昔、町の屋台で売ってたんです。姉さんが、よく買ってきてくれて」


 私は手を止める。姉という言葉を、彼の口から聞いたのは初めてだった。


「名前、聞いてもいい?」


「…アーニャです。明るくて、ちょっと勝手なところもあって。でも、どこかに行ってしまいました。三年前の春、僕がひとりで起きた朝に、もういなかった」


 私は言葉を選びながら、静かにクッキーを包み始めた。


「もしかして、あの旅人の女性?」


「…わからない。でも、なんとなく似てるような、そうじゃないような。もしかしたら、探してるのは――僕の方かも」


 彼の声は静かだったけれど、確かに何かが動いていた。ずっと心の底で閉じ込めていた感情が、香ばしい菓子の匂いとともに、やわらかくほどけていくような気がした。


 その日の夕方、ひとりの郵便騎士が宿に立ち寄った。古びた革鞄から取り出されたのは、一通の手紙。封には、淡い桜色のリボンが結ばれていた。


「宛名は…エミルさん。差出人不明ですね」


 彼は震える指でそれを受け取り、封を切ることなくじっと見つめていた。


「開けないの?」


「…まだ、心の準備ができていなくて」


「じゃあ、できたときに。きっと、その時があなたにとって一番いい味になる」


 そう言った私に、エミルは少し笑ってうなずいた。明るい笑顔ではなかったけれど、それは確かに、前よりもずっとあたたかかった。




 朝の光が、窓辺に置いた小さなグラス瓶を照らしていた。瓶の中には、昨日エミルが摘んできたラベンダーの花。わずかに香るその匂いは、私の心をそっと撫でていく。


 カウンターの奥で、私はスパイスと果物のシロップを煮詰めながら、ちらりと彼を見た。椅子に座っている彼の手には、昨日のままの封書。


 けれど今朝の彼は、その封を開けていた。


「…ありがとう、カリンさん」


「ううん。何が書いてあったか、聞いても?」


「旅に出るって。姉さん…ずっと前に、東の果ての島で仕立て屋をしてる人に弟子入りして、そのまま向こうに住んでるって」


「島に…それで、あなたはどうするの?」


 エミルは一息ついてから、ゆっくりと答えた。


「会いに行きます。でも、ちょっとだけ遠回りしてもいいですか?この町で、もう少し、菓子作りを習いたいから」


 私は思わず吹き出してしまった。


「ずいぶんと正直ね。でも嬉しいわ。あなたが焼いた林檎のタルト、なかなかだったし」


「…本当ですか?」


「ほんの少し焦げてたけど、ね」


 エミルは照れくさそうに笑って、いつものように頬を掻いた。


 その日の昼下がり。宿の庭に、ぽつんと旅人が訪れた。背の高い女性で、淡いグレーのマントをまとい、風の音のような穏やかな声でこう言った。


「…この宿に、カリンという料理人がいると聞きました。昔、私が菓子作りを習った人に、よく似てるって」


「そう」


 私は一瞬だけまぶたを伏せて、それから笑顔を浮かべた。


「いらっしゃい。今日の甘いものは、月桃の葉に包んだ米菓子よ。よかったら、一緒にどう?」


「それは…とても楽しみです」


 彼女の背に、少し遅れてエミルが気づき、ぱっと立ち上がる。


「…姉さん?」


 その声に女性は振り返り、ふっと笑って頷いた。


「久しぶりね。エミル」


 私はそっと席を立ち、台所へ戻った。静かに二人の声が重なり、少しだけ涙ぐむような笑い声が聞こえてくる。


 焼き上がった米菓子の香りが、春の風に乗って広がっていった。もうすぐ、この町にも新しい季節が来る。


 そして、私にも。


 恋を始めるのに、きっと遅すぎることなんてない。だって今、胸がこんなにも軽くて、あたたかいのだから。


 そう思いながら、私は新しいレシピ帳の最初のページにこう記した。


「出会いの味は、蜂蜜とラベンダーの甘さ。それが、私の記憶に残る春の菓子」




おしまい

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