第6話 聴(きこえ)
夢の中で見る景色は、なぜいつも色褪せて見えるのだろう。
銀杏の葉が絨毯のように敷き詰められた公園の遊具たちを、太陽の光がセピア色に染めている。にぎやかな笑い声で空気が暖かく満ちる。紅葉が山並に溶けて遠景は燃えるようだ。
「見っ」
懐かしい声が僕を呼ぶ。もう夢の中でしか思い出せない声が。子供の僕は彼女を追いかけて走る。息を切らして、もどかしく動かした両足がもつれて転ぶ。無力な僕は涙をためて起き上がる。「もー、泣かないの。男の子でしょう?」
少女が微笑んで僕の側にしゃがみ込む。セーラー服がひらりと翻って、ふんわりと果実の香りがする。制服の手が僕の頭を撫で、擦りむいた膝小僧をハンカチで拭く。
「ほら、血も出てないよ。痛くないように、お姉ちゃんがおまじないしてあげる」
そう言って彼女は、僕の脚にそっと唇で触れるのだった。
「姉ちゃん」
僕は彼女を呼ぶ。少女が顔を上げる。その顔が火影にくゆる。いつのまにか僕は17歳の僕になっていて、あたりを囲む紅葉は炎に変わっていた。
僕は叫ぶ。お姉ちゃんが炎の中に消えていく。彼女の背中に向かって僕は必至で手を伸ばす。
だけどその手は届かない。僕の声はむなしく黒煙の中に搔き消えていく。「行かないで!」
「——かないで、あきらちゃん……」
苦し気に呻いて開けた瞼の隙間から、朝の低い日差しが差し込んでくる。鴛原見は目を細め、光を遮るようにしゃがみこんだ少年の、構えた腕時計の文字盤と目を合わせる。高性能のレンズがこちらを覗いている。
「……見先輩が寝言で、女の子の名前を……? それも苦竹先生以外の……?」
雪が呆気にとられた表情で、文字盤の裏から顔を出した。「毒でも盛られたんですか?」
「……人の寝起きを撮影しといてさ、最初に言うことってないわけ? っていうか何で撮ってるんだよ」
「すみません、もうみんな起きて降りちゃったんで、起こそうかと。そしたら見先輩が寝言呟いてたので……、撮ろうかと」
「理由になってないだろ、理由に」
見はげんなりした目で訴えて、伸びをした。セーラー服の袖から細い手首が覗く。そのまま手櫛で艶のある指通りの良い長髪を漉き、窓にうっすら映った鏡像で寝ぐせをチェックする。それから眠そうに目をしばたたかせてシートから立ち上がった。
「僕、何か言ってた?」
「雰囲気的に多分、女の子の名前を。あきらちゃんとかなんとか」
雪が口にした名前を聞くと、見の目が急に冷めた光を帯びた。「……そう」
先行して「十三蝦夷」のスカウトに赴いていた、五頭のいる宿泊所に、バスは横付けされていた。警察の関連施設だ。袈裟丸や見たちが設備を借りて、オペレーションを行う手筈だった。雪たちは施設内で改めて身支度を整えると、簡素な朝食の席に着いた。
「おはようございます、兄さん」
袈裟丸が膳を持っていそいそと向かいの席に座る。お早うと応じて雪の頭には昨晩ののまえの言葉がよぎった。まあ、一緒に朝食を囲むのは大丈夫だろう。
と、いうより、昨夜のあのやりとりが聞こえていなかったか……、そっちはそっちで気にかかる。
「……袈裟丸、昨日、よく眠れた?」
「? はい、安眠でした……。公用のバスは寝心地良いですね」
雪はほっと胸を撫でおろした。のまえが言っていた通り、みな眠りに落ちていたようだ。見はうなされていたけれど。
雪は朝の見の様子が気になって尋ねた。「なあ、アキラって女の子知ってる?」
「いえ。……また女の子引っ掛けるつもりですか?」
「またって何」
そんなナンパ師みたいなことした覚えないぞ。
雪は今朝の見のことを説明した。袈裟丸は白飯でしばらく口の中をもぐもぐさせていたが、やがてごくんと嚥下して口を開いた。「そういえば、心当たりがあります」
雪は鮭の身を皮から剥がしながら続きを促した。
「見ちゃんの部屋の机なんですけど……、いつも伏せてある写真立て、あるじゃないですか」
「あったっけ」
雪は鮭を咀嚼しながら返す。見の机はいつも学術書や資料で散らかっていてあまり覚えていない。
「ありましたよ。それで気になってたんですけど、ある日見たらそれが立てられていたんです。なんでか分からないけど」
雪は箸を下ろして言った。「それが『あきらちゃん』か」
袈裟丸が肯く。
「見ちゃん似のすっごい美人な女の子です。私と同い年くらいかな……、でも最近の写真じゃなさそうだから、今だったらもっと年上かもですね」
「見先輩に似てる、ってことは、お姉さんか誰かかなあ」
「でも一人っ子ですよ、見ちゃん」
見は母子家庭の二人家族だ。
「地元の子じゃないですかねぇ。近くまで来たから、夢に見たんじゃないですか?」
「ああ……、そういえば見先輩の出身って青森だっけ」地元では「津軽のトビウオ」の二つ名を持っていた……。と夏のプールで話していたのを思い出した。
「昔の想いを引きずってる人……とかだったら、会いにいったりするかな? 任務の終了時刻によっては時間、空くし」
「面白い画が撮れそうですね」味噌汁の椀を置いて、袈裟丸は悪い顔をした。「せっかくですから、我々も『ご挨拶』させていただきましょう」
「ふっふ、おぬしも悪よの……」
兄妹が不気味な笑い声を立てる一方で、見は遠くの方でくしゃみをした。
「……仲が良いな、二人」
柤岡兎と連れ立ってやってきた学ラン姿の少年が、雪たちを見下ろしながら声をかけた。眼鏡の下に付けた眼帯が厳めしい空気を演出している。
「五頭か。柤岡は北海道からわざわざだな」
「五頭さんのピンチなら、どこからでも駆けつけるのが舎弟さ。何たって一年の頭だからな」
兎は上機嫌に答えて腰を下ろした。手ぶらの様子だ。飯は食わないのかと聞くともう済ませたと言う。
「食後の茶を持ってきてやった。飲むと良い」
五頭は雪の盆の横に湯呑を置いて薦めた。雪は残りの料理を平らげて受け取った。ふと制服の袖から覗く包帯が目に付く。
「……負傷か?」
雪が尋ねると五頭は手を下げて表情を険しくした。雪は少なからず驚いた。五頭は改造人間であるばかりか、悪童隊を率いるリーダーの一人として『贋作』の力を与えられている。能力持ちの強化人間が、東北一とはいえ一介の民間人に不覚をとらされるか?
「少々厄介な相手でな……。まあお前に限って後れをとることはないだろうが、甘く見てかかるなよ」
「その傷を見せられちゃな」
雪は肯いて茶を啜った。心なしか苦く感じる。東北一の将、眼目伊達政……。一体何者なんだ?