第5話 耳朶(じだ)
恐山行きの一行は、治安維持局が所有する夜行バスに乗り込んだ。本来の用途は護送車だが、目立たないよう内装と外装が変形して20人乗りの小型バスに変わっている。
「空の方が早いんだけど、あいにくスカイジェットはスカウト組が使い切っててね。予備機は本部に残しておく必要もあるし。でもあまりぐずぐずもしていられない案件だから、夜のうちに移動を始めておくというわけ。朝までかかるから、みんな今のうちに寝て体力を蓄えておいてくれ」
雪は隊員たちに向かって入り口から声をかけた。悪童隊とオペレーターの面々が返事をするのを聞き届けて、雪のまえと一緒に運転席のすぐ後ろに座った。
「染、こっち、こっち」
少し遅れて乗り込んできたオペレーターの染袈裟丸の名前を、見は呼んだ。「見先輩の横、空いてますよ」
オペレーターの先輩にあたる見は、袈裟丸にとってこのメンバーの中で数少ない友人だ。袈裟丸は小さな駆け足で見の横に向かい、隣に腰かけた。雪とのまえが座っている席は斜め前方に少し遠く見える。視線を追うまでもなく見は小さく笑った。
「残念だったね、愛しのお兄様の隣じゃなくて」
「っ、からかわないでください」
袈裟丸は褐色の頬を軽く膨らませる。
シートベルトの着用が確認され、運転手のいない自動操縦のバスが静かに動き始めた。
「見ちゃんの方こそ、葎先生とはどうなんですか」
「ふ……、僕は染と違って、想いの丈を伝えられる男だからね。先日新たな恋文をしたためたよ」
「渡せたんですか?」
「うん。後日採点付きで返却された」
小テストか。袈裟丸は内心でつっこみながら点数を尋ねた。「まあ、数字の話はよそうや」見は視線を逸らした。赤点か……。
「っていうか、染だって人のこと言えないだろ。そりゃあの二人の仲に割って入れとは言わないけどさ。でも、異性として意識してもらうくらいには、進んでもいいんじゃないかなあ」
見はペットボトルのキャップを回しながら、そっと二人の方を見た。肩を寄せ合って座っている。まぶしいくらいに、お似合いの二人だ。
この三人の関係は見にも悩ましいところだった。見は雪や袈裟丸が入隊した頃から彼らを知っている。捨て鉢だった頃の雪を知っている見としては、似た者同士の二人が掴んだささやかな幸福は祝福すべきものである。だが一方で、長いこと見守ってきた可愛い後輩の恋路を、応援したい気持ちもある。
袈裟丸はしゅんとしょげた顔をした。
「見ちゃんの言う通りです。……お兄ちゃんは、私のこと妹だって言ってくれました。それで良いと思ってたんです。でも、のまえちゃんと一緒にいる時のお兄ちゃんは、私が知ってるどの笑顔よりも優しい顔だから……」
悩める若人だな、見は菩薩のような顔で肯いて、紅茶を口に含んだ。袈裟丸が真剣な表情で続けた。「染、欲求不満です」
見は盛大に紅茶を吹き出した。げほげほと前のめりに咳き込む。幸い前後に人は座っていなかったので周囲から不審がられることはなかった。
「ちょっと。大丈夫ですか?」
「いや、平気、ちょっとびっくりしただけ。気持ちが満たされてないって言いたかったのね。広義の方ね」
「他にどんな意味が……」
「良いんだ、僕の心が汚れていた」
見は口元を拭いながら制止した。気を落ち着けるために改めてボトルを傾けた。「最近、兄妹としてもあんまり触れ合えてないですから」袈裟丸が遠慮がちに続ける。「同じ布団で一緒に眠ったくらいです」
見はもう一度同じ事故を繰り返した。
「ねえ……、もしかして今、すごいエッチぃこと聞いてる?」
ハンカチで座席を拭きながら、見はげっそりした顔で聞き返す。
「ち、違います……! エデンに連れ去られた時……、同じ牢に閉じ込められて、そこにベッドが一つしかなかっただけです! 他意はないはずですから……」
「そ、そう。じゃあセーフか……。……セーフか?」兄妹の距離感バグってないか? 見はちょっと心配になった。まあ雪くん、家族生活慣れてないだろうからな。染のこと、逆に異性として見てない証拠なんだろうけど……。
袈裟丸の方を見る。でも、もし他意があったら……、きゃーっ! などと言いだしそうな表情で頬に手を添え、顔を赤くしている。こいつは確信犯だな……。後生畏るべしという顔で見は後輩を眺めた。
〇
パーキング・エリアでの休憩を挟んで、バスは再び北に向かって動き始めた。夜窓に映る自分の薄らんだ顔を透かして、常夜灯の明かりが流れ去る。巣に帰りそびれた烏が闇の中を渡っていく。雨乞烏合はどうしているだろうか。雪はエデンに残してきた幼馴染の現在を想った。
9号能力者・雨乞烏合は、雪が培養器を出た頃からの馴染みだ。複製として生まれた雪と違い、どこかしらから実験体として拾われてきた乳飲み子であった。二人は雪が10歳を迎える時に引き剝がされ、以来雪は彼女を死んだものと思っていた。しかしその実烏合は雪と同じ〈12人の怒れる男〉となって、雪の帰りを待ち続けていたのだ。
エデンと伏魔殿、二人が同じ人生を生きるためには、どちらかの組織が潰れる他ない。烏合は、公安にその力はないと考えている。雪はまた、伏魔殿を裏切ることができない。だから雪は、約束したのだ。自分がエデンを潰やせるほどの力を手にして、そこから烏合を救い出すと。
……自分は、それができる程の力を手に入れたのだろうか。雪は自問する。2号能力者・御黒闇彦との一戦、最後の攻防、僕はあの高みへ届きかけた。だが……。雪は目を伏せる。あれは生死の境を彷徨った末に垣間見た、暴走まがいの、一時的な解放状態だ。あれから何度試してみても、同じ状態に至ることができない。エデンを壊滅させるためには……、もう一度あの状態に成る必要がある。
それに気になるのはあの少女……、いや、大人かも分からない。死の淵の意識下で邂逅した超越的な存在。自らを神と名乗る謎の女……。彼女は何者なんだ?
とん、と肩にのしかかる小さな重力を感じた。雪は振り向く。のまえがこちらに頭を預け目だけで見上げる形で雪を伺っている。
「雪くん、眠らないの?」
車内には深夜の道を往くエンジンの静かな音だけが響いている。雪は就寝している隊員たちに気を使い、声を落とした。
「なんだか目が冴えてね。……近頃妙な感じだ。昔は失うものなんて何もなくて、余計なことは考えず任務に臨めた。でも今は、繋ぎとめておきたいものがたくさんある……」
「たくさん……」のまえは僅かに目を伏せた。「……?」なんだか、様子がおかしい。振り向きかけた雪の耳朶に、柔らかい感触がぶつかった。「‼」暖かく、湿った唇が遠慮がちに雪の耳を食む。
「ちょっ! のまえ⁉」
「雪くん、これ、好きだったよね。……のまえも、好き……」耳筋を慎ましやかに声で撫でながら、とぎれとぎれに囁く。
「待って、みんな居、む……っ」唇に塞がれ、抵抗する言葉を絡めとられる。
「大丈夫……。運転席、無人だし……、皆ぐっすり眠ってる。偶然誰も起きない」
「そんな、能力の使い方、教えたつもり、ありません……っ」
雪は加減してのまえを引き離す。かすかに息が乱れている。さすがに少し叱りつけようと思って相対すると、のまえが捨てられた子犬のような目でこちらを見ている。雪は毒気を抜かれた気分で小さく問うた。
「……どうしただんだよ、急に。…………何があった」
のまえはしゅんとした様子で目を逸らした。雪は、軽くのまえの肩をさすった。「怒ってないよ。心配なだけだ」
袖にかかる小さな力が強くなった。「……お母さんが」小さく呟く。「お母さんと、連絡がとれたの」
「お母さん、って……」雪は予想の外にあった答えに口ごもった。
のまえの両親は、のまえが幼い時に離婚している。母親は育児放棄をするようになってのまえを餓死寸前まで放置し、児相が動くまでだった。家を離れがちな父親がのまえを引き取って以降、母親はのまえの前から姿を消し、以来のまえは独りとなった。
「お父さんも帰国して、三人で会うことになってる。帰ってくる……、のかも、しれない」
のまえは言葉を探すようにゆっくりと喋った。
「のまえは、ずっと二人に帰ってきてほしかった。と……、思ってた。目が覚めたら今までのことは全部夢で、テーブルに三人分のあったかいご飯が並んでる、とか、突然玄関のドアが開いて、何事もなかったような笑顔でお母さんが帰ってくる……みたいな、こと。よく想像した」
「……でも今は、自分の気持ちが分からない」
雪の相槌に、のまえはこくんと肯いた。「のまえは多分、それをお伽噺みたいな手の届かない夢として、空想してたんだと思う……。でも現実に二人と会うってなると、どんな顔していいか分かんないよ。二人がどんな顔してるかも……、わかんないし」
「のまえ……」
のまえは、雪が下した腕の袖の端を握った。「のまえ、お父さんとお母さんに、嫌いだよって言われるのが怖い。もしお母さんが帰ってきて、お父さんと仲直りしたら……、のまえはまた、要らない子になってしまうかもしれない。それを、今度こそはっきり告げられたら……、苦しいから」
「そんなことない……。のまえの両親だってきっと、必要としてるはずだ」
言いつつ、口調は力ない。根拠のない励ましにしかならないことは、雪が一番よく分かっていた。親に捨てられる苦しみは、雪にもよく分かる。だからこそ、自信を持って親の愛情を約束できない気持ちもあった。
代わりに、確かなことだけ言うことにした。
「……もし、万が一上手くいかなかったとしても、僕が付いてるよ。見先輩や、伏魔殿のみんなもいる。のまえの居場所はちゃんとある」
雪は勇気づけるようにのまえの手を軽くたたいた。
「ん……。でも雪くん、染ちゃんと同衾してたって……」
「うぇっ?」
雪は口を開いて頓狂な声を出した。記憶の中で、エデンに監禁された数日間が駆け回り、銅鑼を鳴らす。
「いやっ、あれは家族としてっていうか、ベッドも一つしかなかったし、敵に何されるかも分からないし離れておけない状況だったっていうか……」
雪はしどろもどろになって言い訳を並べる。珍しく慌てふためいた雪の様子を見て、のまえが吹き出す。
「雪くん、慌てすぎ」
「いやっ、でも……」
雪は真っ赤になって頭を掻く。慌てると余計怪しくなるよ? とのまえがくすくす笑う。
「大丈夫だよ。雪くんは優しいから、染ちゃんを守ったんだよね」
ぶんぶんと首肯する。「やつは私の妹です。誓って疚しい感情はありませんでした」
「分かってる」のまえは宣誓する雪の胸に頭を預けた。
「でも、染ちゃんも雨乞さんも女の子だから……。雪くんにその気がなくても、だめ」
「以後、肝に銘じます」雪は額から流れる汗から逃れるように、強く目を閉じて誓った。
「……ごめんね。嫌いになった?」
のまえが上目遣いに尋ねる。雪は首を横に振る。
「……言うまでもなく、」
嫌いになど、なれるはずもない。
それから時計の針が何周かして、鳥が鳴き、通り過ぎる車のエンジン音が高くなってきた。やがてバスが止まり、車窓のカーテンがちらほらと開け放たれた。
一行は恐山に到着した。