エピローグ human/神の子たちはみな踊る
死者多数、無数の死傷者と甚大な被害を出した本部防衛戦は、「辛くも全滅を免れた」程度の無惨な結果に終わった。
撤退の構えに入ったエデン本隊は編成を組んで速やかに退却。複数の飛行艇が飛び立っていく姿が空の上に認められた。
「ん…………」
雨乞烏合はベッドの上で目を覚ました。窓の外を白い綿が流れ、エンジン音と微かな浮遊感を感じる。飛行艇の中か。烏合は点滴のついた腕をしょぼついた目で眺めた。
「気が付いたか」
壁際にもたれ、腕組みをした残間が視線を伸ばしていた。
「邇凝博士が応急処置を施してくれた。爺さんの天才に感謝するんだな。戦地の少ない設備で、目が覚めるまで回復させるとは……。治癒系の贋作者の助力があったとは言え、な」
「……雪は、どうなった?」
「一と煙草森がどうにかしたよ。ぎりぎりで正気づいた。ま……、これもいい経験だろ」
烏合は安心したようにベッドに身を預ける。残間は難しい顔で髭を触った。
「それから、言いづらいことだが……。餘目が戦死した。筥崎の奴も重傷……。餘目は記録係としてチョーカーにカメラを仕込んでいたらしい。邇凝の爺さんが回収した、いずれ詳しい死因は分かるだろう」
「……! ……止朗に、塩が……。……そう…………」
烏合が胸を押さえる。それから痛みが走ったのか、珍しく分かりやすい反応を示した。
「お前は自分の心配をしてろ。右の肺が潰れてたんだ。奇跡的に、心臓と大きな血管は外れてたけどな」
「……。『奇跡的』に」
烏合はベッド際の窓から地上を見下ろした。廃墟の中央で、偶然一がこちらを見上げていた。「借りは返した」ということか。烏合はカジノで交えた一戦を思い出しながら、視線をベッドに戻した。
「……一応言っておくが……、まだ、引き返せるぜ。さっきは俺の判断で引き離したが……。お前が望むなら、雪の下に行ってもいい。……エデンを抜けるなら、今しかないぞ」
「…………いや、今は……」
烏合は、後輩たちの顔を思い浮かべるように、そしてそれを悼むように、瞳を閉じた。「もう、雪だけではないから」
「そうか」
残間は聞くべきことは聞いたという風に腰を上げた。「愛」烏合がその背中に声をかける。
「気づいていると思うけど、あなたに感染していたネクロウィルスはもう死滅している。あなたこそ……、なぜエデン(ここ)に留まったの」
「……ふん」
残間は背を向けたまま扉を開けた。「お前と、そう変わらんさ」
地上では、逃げ遅れたエデン兵たちが外へ向かっていた。
「絶対……、兄ちゃんが絶対助けてやるからな、マドカ」
迸るワイヤーの魔手が、包囲の隊員を締め上げる。
「っ捌光、お前だけは……!!!」
双子を抱えた少年が、崩れた壁の向こうに消える。毒霧と化した低酸素の空気が、周囲の隊員たちを永遠の眠りに誘う。腕に抱きかかえた妹の周囲は、圧縮された高濃度の酸素で包まれている。妹の肺が、既に呼吸をやめているとも知らずに。
「……姐御死んだって聞いてんけど。これほんま?」
中には、包囲を突破できずにいる者もいた。
「本当らしいですよ。死体確認したって報告ありました。煙草森に殺されたんだと」
「あらら……、因果やね。ほならどないしょーかな。逃げられる子は、逃がしたりたいねんけど……」
突如として天井が斬り崩れる。煙の中から、異形の刃を突出させた少年が立ち上がる。
「残念だけど」愛刀の殺人刀を携え、伊達政が喉元に刃を突き付ける。「ここで、行き止まり」
「あちゃあ」
京は立ち止まり、にやけた顔で諸手を上げた。
「ほなら、降参」
幾班かの敵部隊を確保したものの、伏魔殿側の被害は尋常ではなかった。
「畜生ッ、青墓、青錆ッ……」
砂埃の舞う地面に額づき、一番合戦 猛進が咆える。瓦礫を除けられた広間のスペースに、敵味方の遺体が運び込まれていた。そこには伊舎那と交戦した悪童隊の面々も並んでいた。
大聖堂での戦いに駆り出され、死亡した悪童隊員の数は75人。これは全悪童隊員のおよそ四分の三を占める数字である。
「俺が……ッ、情けねえっ、門を破られなきゃ……。俺が呑気に寝てる間に、こいつらは……ッ」
一番合戦は繰り返し地面を殴った。全身に巻いた包帯がそのたびに頼りなく揺れる。その後ろ姿を五頭が見下ろす。
「死者を前に嘆くな、一番合戦。ここは戦場だ。全力で争えば死人も出る」
「っ、でもよ、五頭……」
「こいつらも覚悟の上だ。起きたことを変えることはできない」
五頭が乾いた声ではねつける。「っなんで……」一番合戦が歯噛みする。
「なんでそう冷静でいられるんだ、てめえは!! 仲間が死んでんだぞ! お前と一緒にいた柤岡だって……! お前なら……。お前なら、助けられたんじゃねえのかよ!」
傍らに眠る柤岡兎の死体を示す。五頭は静かに兎の顔を眺めた後、素っ気なく目を閉じて答えた。「奴はここで生きるには甘すぎた。それだけのことだ」
「っ、てめえ!!」
「やめな」五頭に掴みかかった一番合戦を、後原が鋭く制す。胸倉にかかった指を外し、五頭は無言のまま立ち去る。その背中を、不満げに一番合戦が見送る。
「……姐御、なんであんな奴庇うんだよ」
「ばか……。あいつはグループの頭だよ」床に並んだ安虎曜の下にしゃがみ込む。寂しげな表情で、安虎の瞼を下ろさせた。「一番責任感じてんのは……、あいつに決まってる」
人気ない、広間から離れた崩れかけのロッカールームからは、拳をロッカーに叩きつける音と五頭の咽ぶ声が漏れ聞こえている。馬飼は廊下の壁際にもたれて、ただその声を聞いていた。
本部施設は大破し、主要な研究設備・資料・実験サンプルの数々は瓦礫の下に消え、焼失した。エデンは作戦の第一目標をクリアしたと言える。
馬飼はふと視線の先に朱い学生服の袖を捉え、腰を浮かした。瓦礫の下から、見覚えのある男の上体がのぞいている。その手には鎖が巻き付けられていた。
「……真虫……」
馬飼は瓦礫の山に近づき、唇を引き結び顔をしかめた。せめて、こちらの手で葬ってやるべきだ。瓦礫を横に除ける。
「……⁉」
その下にあった少年の体を見て、馬飼は目を見開いた。少年の体は紙のようにぺしゃんこになっていた……、わけではなかった。空気が抜け、潰されていない上体までもが薄い皮一枚でぺたりと床に伸びた。
その姿は、まるで脱皮した蛇の皮のようだった。
第三目標……、作戦司令部の壊滅は、部分的に成し遂げられた。伏魔殿の頭脳であるオペレーターの半数が死亡し、司令部は潰走、結果的に多くのエデン兵を取り逃すこととなった。しかし、第二目標である苦竹葎強奪の計画は、見の奮闘によりどうにか防がれた。
見は医療スペースに設置されたベッドに横たわりながら、ぼんやりと思考を巡らせていた。鎮静剤で体の痛みは除かれていたが、頭の奥が鈍く痛み、周囲の声が音の塊となって響いている感覚があった。視界は奇妙に現実感を欠いている。麻酔の効用か、はたまた非日常な一日を過ごした代償か。
野一色靜馬……。聴はあいつに殺されたのか? それに左衛門三郎捌光……。見は額に手を当ててため息をついた。考えるべき事案が多すぎる。
突然頭部の疼痛が耳鳴りに変わった。『……副局長、第二オペレーター室の映像ですが……、例の染袈裟丸が……』『染ちゃんか。彼女も悪い子やね。ま、ボクの見立て通りあの本性……、そういつまでも抑え込めるもんちゃうかったっちゅうことや。証拠は消しとき……』
耳鳴りはさらに高まって意味不明な高音と化した。「……え隊員」見は耳元を押さえて呻いた。
「見隊員、大丈夫か」
見ははっとして顔を上げた。気づくと紫がベッドの側に腰かけてこちらを覗き込んでいた。
「傷が痛むのか」
「い、いえ。ただ『声』が……」
見はあたりを見回した。負傷した隊員たちがあちこちに横になって医療班の手当てを待っている。その中に木葉下たちの姿はなかった。「声?」紫は訝し気に訊いた。
「……いや、何でもありません。傷の方は、葎先生が処置してくれましたから。痛みは、麻酔のおかげでなんとか……」
「施設がこんな状態では、本格的な治療もままならないだろう。付近の病院への搬送を要請しているから、少しだけ辛抱してくれ。……すまなかったね、非戦闘員の見君を、あんな目に合わせてしまって……」
紫は血色の悪い顔で言った。本局を守れず、これだけの被害を出したのだ、責任を感じて当然だろう。「だがおかげで葎は守られた。君は勇敢だよ」
「そんなことは。雪君たちみたいに戦ったりはできませんが……、伏魔殿の一員ですから、僕も」
見は紫が押さえた腹部を見た。白い包帯に血が滲んでいる。「注連野局長も、銃で撃たれたと聞きましたが」
「なに、私は問題ない。臓器も無事だったしね。腰の骨が削れた程度だ。運が良かった……。多分」
紫は何か腑に落ちない口調で言い淀んだ。「局長?」
「ああ、いや……。本当に偶然なのかと、そう思ってね。あの時私は、致命傷を受けてもおかしくなかったんだ。彼は、なぜ迷った……」
紫は天井に空いた穴から空を見上げた。「……祁答院伊舎那、か……」
「伊舎那さん、隊員の記録映像なんか見て、なにニヤニヤしてんすか?」
〈葦原〉オフィス、シャワー室から湯気を漂わせ出てきた真虫が尋ねた。水滴を纏った上半身には新しい傷跡が残っている。
「へへ、それとも俺が12号の狂花帯を持ち帰ったんで、笑いが止まらないってとこすか」
「ふふ、それもある」
伊舎那はモニターの画面から顔を上げ、真虫を労わるように言った。「実際、あの状態の雪君から狂花帯の欠片を持ち帰ったのはすごい功績だよ。少し小さいけど……、邇凝博士も喜んでる。枢機卿も君を高く評価してるみたいだ」
「ふへへ、ま、俺が伊舎那さんに褒めてもらえるのが一番っすけどね。残機一個削った甲斐がありました」
「大したものだよ。よくてもあと二、三回は死ぬと思ってたのに」伊舎那は真虫に微笑みかけた。「やはり、君を部下に選んで、正解だった」
真虫は身震いするように喜びに堪え、地面に跪いた。「この真虫散什郎、いくらでも身命を捧げます!」
「うん。てかパンツ履きなよ」
真虫が勇んで更衣室に向かうと、伊舎那は再びモニターに目を移した。餘目止朗の残した映像記録が、彼女の死に際を克明に映し出している。……もちろん、手を下した者の姿も。
「クク、まだこんな逸材が隠れていたとは……。それも、これほど雪くんの身近に……」
伊舎那はディスプレイに向かって呟く。「伏魔殿の堕天使ちゃんか……」
カメラには、血刃を滴らせた染袈裟丸の姿が、収められていた。




